教室の自分の席に着いた瞬間だった。
「ねぇ美穂」
「いや」
ねこなで声を出して、背後から瑠璃が抱きついてきた。駅から学校までたった五分の距離でも、この季節は汗をかいてしまう。瑠璃は気にならないのだろうか。
「まだなにも言ってないじゃん」
「聞かなくてもわかるよ。どうせ宿題でしょ」
立花美穂は横目で瑠璃を見る。最近書き方を覚え始めたというアイラインは、まだ少し線がぶれている。どうせあと一年もすれば、いやでも化粧をしなければいけないのだ。あえて校則違反をおかしてまで化粧をしたがる意味がわからない。その時間に宿題はできただろう。
「はい」
そう言いたくなったのを堪え、いつものように数学のノートを渡す。
「美穂最高! 本当ありがとう!」
ノートのお返しなのか、瑠璃は机の上にチョコレートを一つ置いていった。瑠璃が机に戻ったのを見計らって、カバンのポケットにしまう。
昔から甘いものは苦手だ。いつまでも口の中に居座ってくる味と、甘さが胸のあたりまで広がっていく感覚がどうしても好きになれない。それでもみんなに合わせて三年間、苦手なスイーツを口に押し込み続けてきた。周りが好きなものを、苦手だなんて言えなかった。いまさら甘いものが嫌いだと言ったら驚くだろうか。
そんなことを考えていると、また別の友達がやってきた。彼女が好きなアイドルが出ているドラマの話が、朝っぱらから熱く語られる。恋愛ドラマには興味がない。けれど、彼女が絶対に観た方がいいと言うから仕方なく観ている。案の定、先が読めるありきたりな展開にいつも時間を無駄にしたような気になってしまう。それでも観続けているのは、毎週こうして話を振ってくることがわかっているから。
みんなが好きなものを好きなふりをして、みんなが嫌いなものを嫌いなふりをする。それが平和に過ごすには一番いい。
面倒で、自分が本当はなにが好きだったのかさえわからなくなりそうになる。けれどそれよりも、一人になってしまうことの方がずっと怖かった。
私はもう間違えない。
透明人間になるのは二度とごめんだ。
今日もいつも通りの一日だった。ありきたりで、つまらない。けれど、そんな普通の一日にほっとしている自分もいる。それに、今日はいつもと違ってほんの少しだけ足が軽い。その理由はわかっていた。
今晩九時から、最近好きになった俳優のインスタライブが予定されている。瑠璃たちには、彼が好きなことは話していない。彼を知る少し前、普段一緒にいるグループの一人が、雰囲気が好みではないと言っていたからだ。自分が好きだと言って否定されるのが嫌だった。
そんな彼は、どんな役柄でもこなす「カメレオン俳優」として注目を集め始めている。整った顔立ちで、偏差値の高い大学に通っていたといううわさもある。完璧な人間なのかと思いきや、時折出ているバラエティ番組では、少し抜けている発言もして、そのギャップにさらにファンを増やしている。彼の活躍を見るのが美穂の最近の小さな楽しみだ。
今日のためにアルバイトも休みの希望をだしておいた。宿題もお風呂も早めに済ませて、ゆっくり配信を見よう。そんなことを考えながら、アパートの二階の扉を開けた。
「ただいま」
「あ、おかえり」
ドレッサーの前で、母親が化粧をしていた。
「あれ、今日夜勤の日じゃなかったよね」
コンビニでパートをしている母は、週替わりで夜勤が入る。けれど、今日は違っていたはずだ。
「そうだったんだけどね。バイトの子が一人風邪引いて休みになったからその代わり」
「そうなんだ」
「あと悪いけど一個お願いしていい?」
口紅を塗っている母と鏡越しに目が合う。ふすまで仕切られた和室から、咳き込む音が聞こえてきた。
「敦、調子悪いの」
敦は今年十歳になる美穂の弟だ。生まれたときから体が弱く、よく風邪をひく。
「そう。少し熱もあるみたいなの。病院、六時に予約してるから連れて行ってくれない? あと、適当になんか食べさせておいて。お金はテーブルの上に置いてあるから」
よりにもよって今日か。ついため息がこぼれそうになったのをなんとか堪えた。
「いい?」
嫌だ、なんて言えるわけがない。そんなことを言えば、思いやりがないだとかそれぐらいしれくれてもいいじゃない、と一気に機嫌を損ねるのはわかっている。どうせこっちに選択肢などないのだ。それなら最初から受け入れてしまった方が楽に決まっている。
「うん、わかった」
「ありがとう、助かるわ」
じゃあよろしく、と母はカバンを肩にかけて家を出て行った。今は五時二十分、敦の病院に付き添ったら帰りは早くても七時にはなる。そこからスーパーに買い物に行って、晩ご飯をつくって、敦に食べさせる。宿題もしなきゃ。インスタライブには絶対に間に合わない。
なんで全部私が。
そう思ったとき、また敦の咳の音がした。普段ならなんとも感じない、聞き慣れた音。それが今日はひどく耳障りだった。
今は誰にも聞かれていない。美穂はいつもより大きくため息をついた。
「ねぇ美穂」
「いや」
ねこなで声を出して、背後から瑠璃が抱きついてきた。駅から学校までたった五分の距離でも、この季節は汗をかいてしまう。瑠璃は気にならないのだろうか。
「まだなにも言ってないじゃん」
「聞かなくてもわかるよ。どうせ宿題でしょ」
立花美穂は横目で瑠璃を見る。最近書き方を覚え始めたというアイラインは、まだ少し線がぶれている。どうせあと一年もすれば、いやでも化粧をしなければいけないのだ。あえて校則違反をおかしてまで化粧をしたがる意味がわからない。その時間に宿題はできただろう。
「はい」
そう言いたくなったのを堪え、いつものように数学のノートを渡す。
「美穂最高! 本当ありがとう!」
ノートのお返しなのか、瑠璃は机の上にチョコレートを一つ置いていった。瑠璃が机に戻ったのを見計らって、カバンのポケットにしまう。
昔から甘いものは苦手だ。いつまでも口の中に居座ってくる味と、甘さが胸のあたりまで広がっていく感覚がどうしても好きになれない。それでもみんなに合わせて三年間、苦手なスイーツを口に押し込み続けてきた。周りが好きなものを、苦手だなんて言えなかった。いまさら甘いものが嫌いだと言ったら驚くだろうか。
そんなことを考えていると、また別の友達がやってきた。彼女が好きなアイドルが出ているドラマの話が、朝っぱらから熱く語られる。恋愛ドラマには興味がない。けれど、彼女が絶対に観た方がいいと言うから仕方なく観ている。案の定、先が読めるありきたりな展開にいつも時間を無駄にしたような気になってしまう。それでも観続けているのは、毎週こうして話を振ってくることがわかっているから。
みんなが好きなものを好きなふりをして、みんなが嫌いなものを嫌いなふりをする。それが平和に過ごすには一番いい。
面倒で、自分が本当はなにが好きだったのかさえわからなくなりそうになる。けれどそれよりも、一人になってしまうことの方がずっと怖かった。
私はもう間違えない。
透明人間になるのは二度とごめんだ。
今日もいつも通りの一日だった。ありきたりで、つまらない。けれど、そんな普通の一日にほっとしている自分もいる。それに、今日はいつもと違ってほんの少しだけ足が軽い。その理由はわかっていた。
今晩九時から、最近好きになった俳優のインスタライブが予定されている。瑠璃たちには、彼が好きなことは話していない。彼を知る少し前、普段一緒にいるグループの一人が、雰囲気が好みではないと言っていたからだ。自分が好きだと言って否定されるのが嫌だった。
そんな彼は、どんな役柄でもこなす「カメレオン俳優」として注目を集め始めている。整った顔立ちで、偏差値の高い大学に通っていたといううわさもある。完璧な人間なのかと思いきや、時折出ているバラエティ番組では、少し抜けている発言もして、そのギャップにさらにファンを増やしている。彼の活躍を見るのが美穂の最近の小さな楽しみだ。
今日のためにアルバイトも休みの希望をだしておいた。宿題もお風呂も早めに済ませて、ゆっくり配信を見よう。そんなことを考えながら、アパートの二階の扉を開けた。
「ただいま」
「あ、おかえり」
ドレッサーの前で、母親が化粧をしていた。
「あれ、今日夜勤の日じゃなかったよね」
コンビニでパートをしている母は、週替わりで夜勤が入る。けれど、今日は違っていたはずだ。
「そうだったんだけどね。バイトの子が一人風邪引いて休みになったからその代わり」
「そうなんだ」
「あと悪いけど一個お願いしていい?」
口紅を塗っている母と鏡越しに目が合う。ふすまで仕切られた和室から、咳き込む音が聞こえてきた。
「敦、調子悪いの」
敦は今年十歳になる美穂の弟だ。生まれたときから体が弱く、よく風邪をひく。
「そう。少し熱もあるみたいなの。病院、六時に予約してるから連れて行ってくれない? あと、適当になんか食べさせておいて。お金はテーブルの上に置いてあるから」
よりにもよって今日か。ついため息がこぼれそうになったのをなんとか堪えた。
「いい?」
嫌だ、なんて言えるわけがない。そんなことを言えば、思いやりがないだとかそれぐらいしれくれてもいいじゃない、と一気に機嫌を損ねるのはわかっている。どうせこっちに選択肢などないのだ。それなら最初から受け入れてしまった方が楽に決まっている。
「うん、わかった」
「ありがとう、助かるわ」
じゃあよろしく、と母はカバンを肩にかけて家を出て行った。今は五時二十分、敦の病院に付き添ったら帰りは早くても七時にはなる。そこからスーパーに買い物に行って、晩ご飯をつくって、敦に食べさせる。宿題もしなきゃ。インスタライブには絶対に間に合わない。
なんで全部私が。
そう思ったとき、また敦の咳の音がした。普段ならなんとも感じない、聞き慣れた音。それが今日はひどく耳障りだった。
今は誰にも聞かれていない。美穂はいつもより大きくため息をついた。