窓の外から、グラウンドでサッカーをしている男子の声が聞こえてくる。

「すみません。邪魔してしまって」

 扉に一番近い席の椅子に座った。

「いえ。今は絵を見ていただけですから」

 山津が教卓の上に視線を落とした。茶色い額縁がそこにはあった。

「見てみますか」

 山津が立ち上がり、絵を持ちあげた。施設のスタッフさんが、小さい子を抱きあげるときみたいに、優しい手つきだった。山津には子どもはいるのだろうか。もしいたら、自分の子どももこんなふうに抱くんだろうなと、ふと思った。

 山津が見せてくれた絵は、鉛筆で描かれたモノクロの絵だった。濃淡だけで、ここまで色の表現ができてしまうことに驚いた。サバンナには、ライオンやシマウマ、ほかにもいろいろな動物がいる。でも、ひとつだけ気になってしまうところがある。

「なんでここにアザラシがいるんですか」

 サバンナの端に、なぜかアザラシが横たわっている。遠巻きにそれを見ているほかの動物たちは、アザラシを見て蔑んだ笑みを浮かべているように見える。アザラシといえば、普通は寒い場所にいるものではないのか。それがなぜ、こんなに暑そうなところにいるのだろう。

「いたんですよ。アザラシが」

「サバンナに?」

「えぇ」

 よくわからない。けれど山津はその絵を満足そうに見つめている。

「今は海でのびのびしているみたいですけどね」

 ますます意味がわからない。理解できる気がしなくて、未来はこれ以上考えるのをやめた。

「どうぞ、好きに過ごしてください」

 授業の準備があるのか、山津が生物の教科書を開いた。

「あの」

「はい」

「どうしてなにも聞かないんですか」

 つい疑問を口にしてしまった。そしてすぐに後悔する。せっかく触れてこないことに安心していたのに、どうして自分からそんなことを言ってしまったのだろう。

「聞いてほしいですか」

 かけたばかりの眼鏡を少しずらして、山津が顔をあげた。

「聞いてほしいなら聞きます。聞いてほしくないなら聞きません。もし、吐き出したいけれど聞いてほしくはないのなら、私は耳を塞いでおきます」

 山津が両手を耳に当てた。変な先生だと思った。多分、今まで会った中で一番変わっている。張り詰めていた気が、急にゆるんだのを感じた。

「誕生日って、そんなに大事なものなんですか」

 山津に聞いたつもりだった。けれど山津は耳を塞いだまま答えない。ずっと胸の中にしまいこんでいた、自分だけが持っていないものの話。あふれてしまった言葉は、もう止められなかった。

 今さら変えられない事実にずっとこだわり続けてしまうこと、人の誕生日を祝えないこと、どこかにぶつけたいどうにもならないこの感情。そのすべてをはじめて言葉に乗せ終えたときだった。山津が耳に当てていたはずの手を組んでいることに気がついた。

「君はカンガルーですね」

「は?」

 カンガルー? 

 あまりにも話に繋がりがなさすぎて、未来は自分の聞き間違いかと思った。というか、いつから聞いていたんだろう。未来の戸惑いをよそに、山津は、はいあのカンガルーです、ともう一度繰り返した。

「カンガルーの誕生日は、適当なんですよ」

 誕生日、という言葉にどきりとした。

「生まれたてのカンガルーの大きさは、どのくらいだと思いますか」

 なんだこの人は。

 今カンガルーの大きさについて話さないといけない理由がわからない。そう思いながらも、未来は答えた。

「子猫くらい、ですか」

「いいえ、違います」

 山津がポケットから五百円玉を取り出した。

「正解は、これです」

「うそ」

「びっくりするくらいに小さいでしょう」

 未来の反応を見て、山津が微笑んだ。

「三センチにも満たないくらいに小さいんです。そして、生まれてすぐに母親の袋に自力で這っていく。だから、生まれたことにすら気づかれないこともままあります」

だから、と山津が未来と目を合わせた。

「本当の誕生日がわからない」

 はっとした。

 同じだ、自分と。

「だから、適当につけることしかできないんです。ポケットから顔を出したのを目撃されたときや、全身がポケットから出たときなど、動物園によってばらばらなんですよ」

 知らなかった。そんな動物がいるなんて。

「この世に生を受けた日が特別な日であることは紛れもない事実です。しかし、赤ちゃんカンガルーが誰かに見つけてもらった日も、また特別な日であると私は思います。君の誕生日はただ辛い思い出がよみがえってくるだけの日ですか。誰かが君の幸せを願いながら決めてくれた日でもあるのではないですか」

 カンガルーと一緒にされても困ると正直思う。でも、仲間を見つけたような気がするのが不思議だ。

 生物室に、昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。

「私、教室に戻ります」

「はい。またなにかあったらいつでも来てください」

 山津は、わざわざ扉を開けて見送ってくれた。

 戻った教室には、まだかすかに甘い匂いが漂っていた。