ホームルームが終わるまで、あと一分。
 二年一組の教室に、帰りの準備の音が広がっていく。

 ペンを筆箱に片づける音、ボールペンのノックの音、カバンのチャックを閉める音、ノートを閉じる音。

 生徒たちの身体が、部活や放課後の趣味のモードに切り替わっていく。

 教室の窓際、一番後ろの席に座っている高橋直樹は、荷物をしまい終えたリュックサックを胸に抱いた。一秒でも早く、教室から出られるように。

 チャイムが鳴った。担任の山本の号令が教室に響き渡る。声のボリュームがやる気の大きさと比例していると、本気で信じているのかと思うくらいに山本の声は大きい。直樹は山本の声が大嫌いだった。山本の声を聞くたびに、自分の心のわずかな気力が溶かされていくような感覚がしてしまうのだ。

 起立、礼、さようなら。

 直樹は足早に教室の後方の扉に向かった。

 今日は捕まりませんようにと祈る。

 けれど、願いは届かなかった。

「なーおきくん」

 肩にずっしりとした重さを感じた。ヘアスタイリング剤のにおいが鼻をつく。顔を見なくてもわかる。堤だ。肩に回された堤の手には、しっかりと力が入っていて、逃げる選択肢が奪われてしまう。

 わずかな望みをかけて、さっきまで山本がいた教卓を見る。しかし、野球部の顧問の仕事に行ってしまったのか、すでに姿は見えなかった。もしもこの場にいたら、山本は助けてくれただろうか。

 多分、無理だ。堤のうまい言葉に騙される光景がはっきりと想像できる。去年の担任もそうだった。万が一にも、山本が堤を叱るようなことがあれば、逆恨みした堤に今よりもひどい目に遭わされる。どっちにしろ、現状から逃げる方法なんてない。

「ちょっと付き合って」

 耳元で小さく聞こえてくる堤の声は、ひどく冷たい。すっと背筋に汗が流れていくのを感じた。

 ほかのクラスメイトは、まるで危険なものを避けるかのように、前の扉から出ていく。その中で、二人の男子生徒が下卑た笑みを浮かべながら近づいてくる。堤と同じグループの田中と国木だ。

「あー、やっと終わったよ。まじ授業長すぎ」

 田中がおおきなあくびをしながら、校則違反の茶髪をかきあげた。ばれないように少しずつ明るい色に変えていったらしいと、女子が話していたのを思い出す。

「まぁいいじゃん。これから楽しい遊びがあるんだし」

 国木が、コンビニのビニール袋を堤に向けて振った。何が入っているのかはわからない。けれどとてつもなく嫌な予感がする。

「行くか」

 堤に肩を抱かれたまま、直樹は促されるままに堤たちと歩いていく。

 どうしていつもこうなってしまうのだろう。

 直樹は唇をかみしめた。