「遅れてすみませんっ!」

慣れない言葉を口にしながら教室に入ると、
驚くべき先客がそこにいた。

「おー、下原、おはよう!
てか、まだあと三分あるから、遅れてないない。」

「え、五十嵐君…?」

頭をよぎったその先の言葉、

「え、五十嵐君がなんでここにいるの?」

それは口に出ていなかったみたいで安心する。

「俺、ウェルカムじゃない感じ?」

「え、そうじゃないけど…」

明らかに自分がいるせいで動揺した私を感じた、
というか見た五十嵐君の言葉を咄嗟に訂正する。

「ならよかった。」

ほっと息をついた五十嵐君の隣には、
どこか見慣れたツヤツヤの長い髪の少女が…

机にうつ伏せになって寝ていた。

自分の隣に視線が移ったことに気づいたのか、
五十嵐君が私に声をかける。

「あ、コレ、ゆりだよ。
なんか、夏休み暇だってぼやいてたから、連れてきた。」

「あ、そうなんだ…」

まるで、
「学校へ行こうとしたら、飼い犬が付き纏って離れてくれなくて、
一緒に校門くぐっちゃいましたぁー」
みたいなノリで五十嵐君は説明する。

二人の邪魔にならないように、どこか遠い席に座ろうと
周りを見渡し始めた私。
今年の課外はやけに人が多いな、と空いている席を探す。

そこに、教室の扉を勢いよく開けた、
数学の先生が入ってきた。

「おーい、みんな席につけー。
待ちに待った課外の時間だぞー。」

暖かい雰囲気で、のほほんとした小谷先生とは対照的に、
課外担当の神木先生は朝から熱がこもっている。
サッカー部の顧問として名が高く、つまり、鬼教師としてみんなに恐れられている存在だ。

私はハッと我にかえり、遅刻レベルでバタバタと教室に来たことを思い出した。
五十嵐君、林さん二人から遠い席に移動する時間もなく、
五十嵐君の隣に腰掛ける。

夏課外では、各クラスごとに室長がいないから、
号令はなく、そのまま授業が開始された。

「はい、じゃあチャートの60ページを開けて、今日は数学1でよく出題される…」

「下原、すまん。俺、チャート忘れてきたから見せてくれん?」

先生の指示を聞いていた私に五十嵐君が横から尋ねてくる。

「え、いいけど…」
「おっ!助かる!サンキュっ!」

短く答えた五十嵐君が私のチャートを見ようと、
机を動かす。

「そこ、何やってんだ?」

声がした方を振り向く、というか顔をあげると、
いつの間にか教卓から私と五十嵐君の机の前に移動してきた
神木先生が立っていた。
一番前の席でコソコソしていたことが悪く、
すみません、と小声で謝る五十嵐君。

「何やってんだ。」

もう一度尋ねた先生に、私が説明する。

「あの、五十嵐君…五十嵐さんがチャートを忘れてきたというので、
私のものを見せてあげようと思い、席を移動してもらっていたところです。
コソコソしてしまい、すみませんでした。」

長年にわたって培った真面目雰囲気を存分に発揮し、
おまけに最後に頭まで下げて私が説明した。

「そうか、次は忘れてくるなよ。」

私の答えに満足したのか、
神木先生はくるりと振り返り、教卓の方へ歩き出した。

(はぁ、よかった。課外開始早々に怒られるかと…)

神木先生の後ろ姿に安心していた私。

そのまま、先生の指示通りに問題を解けばいい…はずだった。

「え、颯太、チャート忘れたなら、ゆりの見せてあげるよ。
ていうか、貸してあげる。ゆり、どうせ寝てるだけだし。」

神木先生のドスのきいた声で目が覚めていたのか、
てへっと笑いながら、林さんがほぼ何も手をつけていない、
新品のようなチャートを五十嵐君に手渡す。

きっと、自分にはいらないチャートを五十嵐君に渡す、という
優しさに溢れた計画のはずだった。

「どうせ、寝ている?」

ありがとう、と言いながらチャートを受け取る五十嵐君と、
笑っている林さんの間に神木先生が立つ。
その目は赤く燃え、神木先生の背景には山火事が広がっていた。

「「あ、」」

そもそも、チャートを忘れてきた五十嵐君にも責任があるが、
林さんの発言もまずかった。

「「すみませんっ」」

同時に頭を下げる二人を眺めていた私は、
二人の仲の良さに思わず微笑んでしまった。

「全く、どいつもこいつも…」

と爽やかな朝には全く似合わないセリフを吐きながら、
神木先生は教卓に戻る。

その、どいつもこいつも、に私が含まれていると気づく頃、
記念すべき初の課外は終わっていた。

休み時間になり、
五十嵐君と林さんと席が近い私は決して休まらないことを予測した。

私の予想は的中していて、
休み時間だというのに二人は全く休まらない。

「うわー。さっきの数学めっちゃむずかった…」
「そもそも、チャート持ってきてなかったもんね。」
「いや、忘れたからしょうがないだろっ!」
「はいはい、ひなたにちゃんとお礼言わないとね。」

林さんに促された五十嵐君は隣に座る私に向かって、

「ありがとっ!」

と元気よく言った。

「どういたしまして。」

と五十嵐君の方を見て言うと、満足気に頷いた林さんが、

「私、文系だから、この数学の課外、本当は受けなくてもいいんだよねー。」

とつぶやいた。

「え、そうなの?」

と林さんが文系だということを初めて知った私が尋ねる。
そうそう、と林さんは首を縦に振った後、

「でも、夏休み暇だし、せっかくなら颯太に付き合ってあげてもいいかなーって。」

ハハッと笑った林さんの言葉を聞いて、

(あ、付き合うってそうやって使うんだ。)

と日本語を勉強する私。
土曜日の星宮君とのやりとりを思い出して、
顔が赤くなる。
そんな私に気づく様子もなく、五十嵐君は不意に

「な、下原は次の課外もでるの?」

次の課外、とは次の時間にある国語の課外のことだろうか、
そう思った私は、

「二限目の国語の課外のこと?参加するつもりだけど…」

と答える。

「あー、私もだよ!」

机から身を乗り出し、私に近づいた林さんと目が合う。

「ほら、私、国語得意じゃないけど、好きだから文系なんだよね。」
「そうだったんだ…」
「特に、国語の望月先生。可愛くて、ふわふわしてて、雰囲気が好きなんだー」

大学を卒業したばかりの新人教師、望月先生を思い出したのか、
うふふっと笑いながら上を見上げる林さん。
そんな彼女を見ていて、好きなものを好きってまっすぐ言えるの、
かっこいいなと思ってしまった。

大好きな先生を思い出してお花畑にいる林さんに、
現実的な声で五十嵐君が言う。

「ま、俺は理系だし、国語は捨て教科だから。じゃあ、これで。」
「捨て教科って何よ!」

と膨れる林さんを置いて、五十嵐君は教室から出ていく。
林さんと二人きりになった私は、何を話せばいいのか分からず、
平常授業よりも長い休み時間の時計が進むことを待つことにする。

五十嵐君の言葉に納得がいかない林さんは、
もう、とため息をついている。
そのため息を背景に、私は机の中に数学のチャートをしまい、
古文の問題集を机の上に出そうとした。

コツン、

空っぽのはずの机の中に、何かが入っていて
分厚い数学のチャートが入りきらなかった。

(なんだろう…?)

恐る恐る机の中に手を伸ばし、
中にあるものをとり出そうとする。

私たちが夏課外で使用している教室は、
二階にある学習室。
普段は、数学の授業で使用している少し広めの教室だから、
夏休み前に誰かが忘れ物でもしたのだろうか、という考えに行き当たる。

机の中にあったのは、一冊のノート。
A4サイズのノートで、私が使っている赤本ノートに似ている。
そこには黒いマジックで「数学」と記されている。

数学のノートの忘れ物。
それは、職員室に届ければいいだけ。
そう思った私の目に飛び込んだのは、
「星宮晴輝」という名前だった。

(え、星宮君の忘れ物…?)

「ひなた、どうしたの?」

机の中を漁ったっきり俯いて黙っている私を不自然と感じたのか、
うしろから林さんが声をかける。

「あ、いや、机の中にノートの忘れ物があって。」

どれどれ、と顔を覗かせた林さんが、あ、星宮のじゃん!
と口にする。

「星宮なら、夏休み明けに渡すしかないよね。
あの人、絶対家で勉強する派だから。」

そうだね、と頷こうとした私は、踏みとどまる。

「家で勉強する派だから…?」

私の疑問は、
思っただけじゃなくて、口に出てたみたいで、
林さんがうん、と頷く。

「私さ、星宮と小学校が同じで。あ、颯太もだよ!幼馴染ってやつ!
小学校の時は割と友達いっぱいって感じだったのに、中学校なってから一人でいる方が好き、
というかなんか大人になったんだよね。」

昔のことを懐かしむように、
林さんが話す。

「あ、でも、星宮には言っちゃダメだよ。私が言ったこと。
あの人、過去の話はあまりしたがらないからさ。」

ちょっと悲し気な顔で林さんが私に伝える。

「うん、わかった。」

そう答えた私だったけど、何をわかったのか、ちっともわかっていない。

「星宮に夏休み明け、渡すのお願いしていい?」

私の手元にあるノートを見て、林さんが言う。

「うん、もちろん。」

そう返しながら抱えたノートは、
明日の朝、星宮君に返せるということをなぜか私は、
口にすることができなかった。