小学校、中学校、高校と進学するにつれて私は人格が変わってきたと感じる。

正確には、私はただ一連の流れに沿って成長しているだけで、
「学校」という存在が節目の役割を果たしているだけなのかもしれない。

でも、どんなに自分が変わっても、
今の自分が一番、自信を持って好きだと言える。

そんな人になりたいと思っていた。

小学校六年生。
「このクラスなら大丈夫だ。」
そうホッと胸を撫で下ろした。

全然、「大丈夫」じゃなかった。

高校三年生。
「このクラスでやっていけない、不安しかない。」
(お先真っ暗だ。)
本気で、そう思った。

文化部なんて、私を含めて一人か二人。
運動部ばかりで所謂「陽キャ」しかいなかった。

クラス替えを考えた先生は、
どうして私をこんなところにひとりぼっち?

思い当たったのは、中学校での私。

自分の中に高い壁を築き上げてのみ、
生き残ってきた。

そんなことができた私なら、
「大丈夫」とでも思った。
そのことに、嫌気がさし、
でも決まりきったことはどうしようもない。
運命のイタズラだと思えば、一年くらいのりきれる。

知らない人しかクラスにいないと、
人は、本当にどうでも良く振る舞える。

ある映画で、
“You know, freedom is not free.”
というセリフがあった。

でも私にとってあの頃は、
Freeだった。

自分を着飾らなくてもいい。
どうせ、誰も私を知らないから。

フレンドリーにならなくてもいい。
どうせ、もう少しで卒業だし。

無理して好かれようとしなくていい。
どうせ、私だって好きにならないし。

それまで、好かれよう、いい子でいようと
努力してこなかったくせに、
こう思ったら、心が幾分と軽くなった。

本当にどうでもいいから、気が楽で、
ずっとヘラヘラ笑っていればいいやって思った。

実際、その方が楽だし、楽しかった。

正直な自分でいられたし、本当に思っていることを気にせず口に出せた。

学んだこともたくさんあった。
今まで「陽キャ」として少し分かり得ない生物だと思っていたけど、
そんなことなかった。

彼らはただ、好きなことを好きなようにやって、
楽しく生きているだけだって考えることができた。
そして、それがたまたま「陽」と分類されるってこともわかった。

所謂「陽キャ」「陰キャ」なんていう単純なグルーピングで、
人間は、そう簡単な分け方をすることなんてできなかった。

不安でしかなかったあのクラスで、
生き残ることを手伝ってくれて、

もう一度、人を信じる力をくれた、

そんな人に出会った。

こんな私でも、誰かは認めてくれる。

誰かに認めて欲しくて、
私という存在がこの世で誰かの幸せにつながっているって思わせてほしい。

人間は、意外と単純なのかもしれない。

私とは正反対の人生を歩んでいると思っていた人から、
まるで二つの双曲線が交わるように、

学びとり、学ばせる。

その交点に位置しているときに、

心を開いて、相手とまっすぐ対面すれば
私は今まで以上の私になる。

心を開かない私の心を無理にこじ開け、
この世界にはまだTrustが存在することを身をもって教えてくれて、
そんな人がいたから、今の私がいる。
人生は点つなぎのよう。
一点でも欠けると、全く違う絵になる。

人生はパズルのよう。
ひとピースでも欠けると完成することはない。

そんな当たり前のことを感じて、
私の人間性、アイデンティティが確立された。

そんな、高校時代だった。