あれから、風奏は音楽室に行くようになった。ピアノを弾くこともあるし、ただ、ピアノを眺めたり、触れたりするだけの時もあった。どうしても最後まで弾くことはできないが。
そして、音楽室に行くと、
「よぉ!よく飽きねぇな、お前。」
と千絃が話しかけてくる。いつも、千絃に会える。風奏の最近の楽しみだった。
「千絃もね。」
と言い返す。
最近、千絃はよく授業に参加するようになった。といってもまだまだサボりがちだ。先生に怒られている姿を見たことがない。許されているのだろうか。それとも、常習過ぎて相手にされないのだろうか。と風奏が考えていると、千絃に声をかけられた。
「風奏と一緒にいた、姫路だっけ?」
「うん、姫路英子。」
「そいつは?」
「今日は村雨くんにお昼誘われたみたい。」
英子に音楽室でピアノを弾いていると言うと、
「え?藍川も一緒?いいよいいよ、ゆっくりしてきなよ。あたしは村雨くんといるからさ。」
と嬉しそうに言っていた。
勘違いをされてる、、。と思ったが、どうせ訂正しても英子はますます1人で盛り上がると考え、やめた。
その英子は、あのシャーペンの一件から律と仲が良くなったみたいだった。
「おーい!誰だぁ?私の音楽室にいるのは?」
と突然声が聴こえた。
風奏はビクッと肩を上下させた。
「なにビビってんだよ。この学校の音楽教師だよ。」
千絃が呆れたように言う。
丸メガネをかけたショートカットの女性が入ってきた。まだ若そうで、20代くらいに見えた。
「なんだ、千絃かよ。って、、お前は?彼女?嘘だろ!早まんな、ほんとにこいつでいいのか?」
「あ?うるせぇよ。」
「あのぉ、違います、、。」
美人音楽教師は1人で変な方向へ行っている。
「違う?なーんだ。つまんねぇ。」
「は?どっちだよ!」
この2人の関係って、、?なんか仲良し、、?風奏が1人で考えていると、
「あー、こいつわたしの甥っ子。で、わたしは藍川笙子(あいかわしょうこ)。2年担当の音楽教師。こいつがいつも迷惑かけてごめんね。」
「は、はぁ、、。私は、1-D組。潮見風奏です。い、いえ。迷惑かけてるのって私の方です。」
「そうだぞ。俺、かけられてる方だから。」
横から突っ込む千絃。
「ふーん、そんなこと言って嬉しいくせに。」
「は?い、いや、そんな訳ねぇだろ!!」
「あんなこと言ってるけど、ほんとは君のこと良く思ってるから、気にしないでね。これからも良くしてやってよ。」
と笙子は風奏に耳打ちした。
「はぁ、、?」
と曖昧に頷いた。
「じゃあ、またな。」
と忙しそうにピアノの上に置いてあった資料を持って去っていった。
なんだかんだ言って、仲が良かったな、、。と微笑ましく思った風奏だった。


雨の降ってきた放課後。
風奏は帰る前にピアノに触れたいと思い、音楽室に寄った。
「千絃?まだいたんだ。」
引き戸を開けると目の前に千絃がいた。
「あぁ、風奏か、、。」
「此処に来たくなっちゃって。」
と声をかけてピアノの椅子に座った。
「千絃はさ、音楽って、なに?」
「は?」
「千絃自身にとって、音楽ってなに?」
風奏はピアノの鍵盤を指で触れながら訊いた。
「幸福、、。」
とても小さい声で千絃は呟いた。
「けど、、怖い。」
下を向いて続けた。
「え?」
「無茶苦茶、怖い。」
「そっか。実は私も。ものすごく、怖い。音楽が何故かものすごく、怖い。」
少しずつだけど、風奏は、自分の心のうちを語ってみようと、知ってもらおうと思い始めていた。
「は?お前に、なにがわかんだよ?」
急に千絃の声が鋭くなった。
「え、、?」
「知らねぇだろ。本当の、怖さなんて、、。」
──知らない。
けど、声は出なかった。
これが本当の怖さなのかは、知らない。
けど、怖いのは、事実だった。
でも自分のことをしゃべる勇気なんて無かった。だから、声が出なかった。
自分の弱さにうんざりする。ずっと逃げてばっか、、。でも、、。やっぱり、まだ、弱いままだから。
それに、千絃は、もっと辛い思いをしてるんじゃないかって、何故か感じた。
具体的にはよく分からないけど、大きな、とても大きな恐怖を持っているんじゃないか、うずくまる千絃の姿を見て、風奏はそう感じた。
千絃は壁にもたれかかって、両耳を両手で覆っている。
「ごめん、、。」
風奏は呟いたが、千絃の返事は無かった。
ふと、千絃のイヤホンが指の合間から見えた。
いつも、着けている、イヤホン。
それでも、周りの音が聴こえているから、すごい。
周りの先生からもイヤホンについても、授業中居なくても怒られない。
本当に、何者なんだろう、、。千絃って、、どんな人、、?
今更ながら、風奏は悲しくなった。
千絃の存在が、遠くに感じた。
だって、千絃のこと、なにも知らないから、、。
その事実が、怖くなって逃げたくなった。
「ごめん、私、行くね。」
風奏は、椅子から立ち上がった。
「風奏」
千絃が名前を呼んだ。
「え、、っと、、なに?」
出て行こうとしたのが見えたようだ。
「悪い。つい、、。風奏のこと、なにも知らねぇのに、勝手なこと言った。わかってねぇの、俺の方だ。ごめん。」
「え?うんん。私の方こそ、ごめん。」
すごく弱気な千絃の言葉に風奏もつられて謝った。それだけ、千絃のネガティブな言葉に虚をつかれた。
「あ?俺、風奏に謝って欲しいわけじゃねぇ、、。ただ、、お前に、、。」
「ん?」
いつもの威勢が戻ってきたと思えば、また空気が抜けた風船のように声が萎んだ。
「風奏に、、酷いこと言ったから、ゆ、ゆる、、許して、欲しい、んだよ。」
耳を真っ赤にしながら訴えた。
俯いていて、風奏にはよく顔が見えないが、顔も真っ赤なのだろうか、と想像したら、可笑しくなって思わずふき出してしまった。
「あ?なにがおかしいんだよ?」
「ごめん、千絃のこと別に怒ってないし、許すよ。」
微笑みながら返した。
「ありがと。」
消え入るような声が聴こえた。
こうやって、一歩ずつ、一歩ずつ、知っていけばいいのかな?そしていつか、知ってもらえるのかな?強く、なれるかな?いや、ならなきゃ。そして、知らなきゃ。
心の中で、誓った風奏だった。
「なに1人でニヤニヤしてんだよ。」
と突っ込まれた。
さっきの落ち込みようは何処へ行ったのだろうか。もう、いつもの千絃に戻っていた。
それが嬉しくて、
「べっつにー?」
笑顔で応えた。
千絃の耳も、元に戻っていた。


「え?此処が?どうなるの?」
「だから、此処が、過去分詞になるの。名詞を修飾してるの。わかる?」
「はぁ、、。」
「風奏、、。あんたよく高校受かったわね。」
としみじみ言う英子。
「う、うぅ、、。」
さりげなく、アンタバカ、と言われてショックを受けている風奏。
「此処の範囲、中学の範囲だし。」
英子に追い打ちをかけられる。
「うぅぅ、、。」
「だから、舐めてたらダメだからね、って言ったでしょ。でも、よくこの学力でテストまで1ヶ月過ぎても勉強しないってすごいわね。いい度胸してるわ。」
「ガーン!!」
最後の一突きで風奏は完全に撃沈した。
「千絃にも言われたんだよね。『お前馬鹿かよ』って。」
「藍川くん、なかなかの毒舌ね。」
自分は毒舌と思ってない英子。
内心呆れる風奏。
「が、頑張るからさ、教えて下さい。お願いします。」
と丁寧に頭を下げた。
「えぇ。任せときなさい!100点はもちろん、、いえ、多分無理だけど、赤点は回避させてあげるわ。」
「あ、赤点?」
「嘘よ。50点くらいね。頑張れば、80点取れるかな?」
面白がるように英子は微笑む。
「中学の範囲わかんねぇのかよ。やっぱ馬鹿だな、お前。」
といきなり横から声がした。
「うわっ!」「ひゃっ!」
横には千絃がいた。
「いたの?」
「あん?いちゃ悪ぃかよ。」
「いや、いていいけど。」
風奏と英子がいるのは1-D組の教室。
昼休みに、英子が
「勉強教えてあげるわ。」
と売店には行かず、風奏に付きっきりで教えていた。
今日は教室に千絃が来ていないと思っていたので、2人は驚いて飛び上がった。
「おい、ちづ、逃げんじゃねーよ!」
と律が叫ぶ。
「あー?逃げてねぇし。覗きに行っただけ。」
と千絃は律の元に戻って行った。
千絃は律のノートを写させてもらっている。
授業をサボりがちだから、見せてもらっているようだ。
「ホラ、藍川が気になるのはわかるけど、今は自分の勉強の方が大切よ。」
と英子が風奏に囁いた。
「うん、、。いやっ!違うから!」
「わかった、わかった。頑張るわよ。」
それから2人は約3週間の間、テスト勉強に勤しんだ。


ついにテスト当日が訪れた。
英子の努力のおかげか、はたまた風奏の真の実力か、それはわからないが、風奏はテストになかなかの手応えを感じていた。
「英子!やっと終わった!意外といけたかも!」
「舐めてたらダメよ。、、って何回言ったら分かるのよ。」
やっぱり、この子、馬鹿かも、、。と呆れ気味な英子だった。
「あ〜!終わったー!!やっと解放だぜッ!」
と大きな声が聴こえた。
千絃だ。
テスト終わりで明るい雰囲気の教室の一際大きな声だった。
「ちづ、今日俺ん家集合な。」
「おう!やっとだな。」
「テスト期間挟んじまって、手が鈍ってねぇといいけど、、。」
「なに言ってんだよ、りち、お前テスト期間もやってただろーが。」
「あ、バレた?」
風奏にはわからない話で千絃と律は盛り上がっていた。お互い、ちづ、りち、とあだ名で呼び合い、仲が本当に良さそうに見える。
風奏には話の内容が全くわからず思わず首を傾げた。
「今日は村雨くん、藍川と会うのか、、。」
残念というふうに眉を顰めた。
確かに残念だ。と思い、風奏も賛同した。
久しぶりに音楽室に行けると思っていたのだった。
そんな風奏は楽しそうに笑う千絃を横目で眺めていた。