心の読める僕が君に出会って変わった物語

 「蒼唯のお父さん、後どれくらいで到着しそう?」
 「えっと、仕事が終わりのメッセージをもらって十分くらい経ったしあと少しで来るはずなんだけど」
 「了解!蒼唯のお父さんが来たら私は別の場所に行くから、その後は二人で話してね」
 「ありがとう、わざわざついてきてくれて」
 父さんに「父さんと話したいことがあるんだけど、今日会える?」とメッセージを送ると急な連絡なのにも関わらず父さんからすぐに「仕事を早めに切上げる。どこへ行けばいい?」とメッセージが届いて、僕らは離婚前に通っていたファミリーファミレスに集合する予定を立てた。
 紫音は「やっぱり愛されてるじゃん」と言っていたけど、僕はやはり不安を拭えずにいた。
 人は上辺ならいくらでも取り繕うことができるからだ。
 本来なら取り繕うことは悪いことじゃない。でもこの力のせいで僕はその人の本音が聞けてしまう。
 きっと優しい父さんは上辺では僕に優しく接してくれるに違いない。
 心配なのは心の声の方だ。
 心の声を隠すことができた紫音でも、心の声を偽ることはできなかったし実際にそれを実現できた人を僕は見た事なかった。
 心の声では嘘をつけない。
 僕は内容がどうであろうと父さんの僕への本音が否応なしに聞こえてしまうんだ。
 僕はなんと言われるだろうか。
 あまりの不安の感じ様に紫音も父さんがファミレスに到着するまでは一緒に居てくれていることになった。
 一人でいつまでも悩んでいるよりも紫音のように明るい人が傍に居てくれるだけで随分と気持ちが楽になった。
 ……恋心を自覚してしまったせいでちょっとだけ、本当にちょっとだけ、ドキドキもした。
 「蒼唯!」
 (あぁ!本当に蒼唯だ)
 ファミレスすぐ横の曲がり角からスーツを来た父さんが出てきた。
 父さんの額には秋も終わるというのに汗が滲んでいた。
 本当に仕事が終わってすぐに来てくれたんだ。
 父さんばかりに気が向いていると左手のブレスレットが振動して慌てて紫音の方を見た。
 (それじゃあ、あとは頑張ってね!)
 紫音は父さんにぺこりと一礼し、父さんが出てきた方とは逆の側の曲がり角を曲がって去っていく時にまた紫音の声が頭に響いた。
 (困ったら蒼唯の気持ちを素直に伝えてごらん。案外、人って言うのは実際に口に出して言わないと何も伝わっていないものなんだから。蒼唯はもっと自分に素直に生きてみてもいいと思うよ)
 紫音はそれだけ言うとすぐに姿が見えなくなった。
 紫音は何が伝えたかったのだろうか?
 「蒼唯、元気にしてたか?」
 「え!?あ、うん」
 いや、今はそれどころじゃない。
 やっと父さんに会えたんだ。今はそれに集中しないと。
 久しぶりに見た父さんは記憶の中よりも白髪が増え、僕が大きくなったからか、なんだか小さく見えた。
 「とりあえず、店入るか?」
 「うん」
 平然を装って発した声は震えていた気がした。
 中に入ると案内されたのは偶然にも昔いつも使っていた厨房横の角のテーブル席だった。
 (蒼唯、背が伸びたなぁ。もう越されてしまっただろうか?)
 席に座る時も仕切りに父さんの心の声が聞こえてくる。
 「それで、いきなりどうしたんだ?何か困ったことでもあるのか?」
 「それは……」
 しまった。父さんに会うこと自体が目的で会った後のことを何も考えていなかった。
 会いに来ただけ。なんて言ってわざわざ慌てて来てくれたのに面倒くさいやつだと思われないだろうか。
 父さんにだって、今の父さんの生活があるだろうに、僕がそこに割って入っても良かったのだろうか?
 「どうした、蒼唯?」
 『困ったら、蒼唯の気持ちを素直に伝えてごらん』
 さっき聞いた言葉がやけに耳に残っていた。
 素直な気持ちを伝える……自分に素直に生きる……。
 そんなこと、僕がしてもいいのだろうか。
 心の声が聞こえる前までは、多分僕もそうやって生きてきた人だった。
 でも心の声が聞こえるようになって、人の本音が聞こえるようになった。
 そこで僕の生き方は間違いだったんだと気がついた。
 (あいつがいると場がシラケるんだよな)
 今だって、そんな言葉たちが僕の頭から離れない。
 『誰かの物語ではいい主人公でも、違う視点からだと悪役になったりする』
 これも紫音が言っていた。
 なんだか今日の紫音はいいことばかりを言う。
 そしてそれを全部覚えている僕も僕だなって思って暗かった気持ちが前向きになる。
 僕は最初、出会う人全員に対していい人で居られるように努めた。
 そしてそれが失敗に終わり、いつしか人が嫌いになって避けるようになった。
 紫音やみんなのおかげで今は多少だけど人と話すようになった。
 それでも今だって人と話して嫌われるのは嫌いだ。
 でも今この瞬間だけは悪役でもなんでもいいから、父さんとただ話してみたいと思った。
 悪役でもいい。そう思うと心が少し軽くなった。
 悪役でいいなんて思えたのはこれが初めてだ。
 意を決して父へ向かって口を開いた。
 「父さんに……久しぶりに、会いたくて」
 「俺に、会いに?」
 やっぱり僕の声は少し震えてしまっていた。
 父さんは驚いた顔をして(そうか)と心の中で呟いた。
 さぁ、どう反応されるだろうか。
 面倒くさいやつと思われるだろうか。
 それとも用もないのに呼んだことを怒るだろうか。
 父さんは席から身を乗り出し、右手を上へ振り上げた。
 「っ……!」
 僕は咄嗟に身構えたが次に訪れたのは空を裂くような平手の音でも、鈍い痛みでもなかった。
 「よく来たな。俺も会いたかった」
 父の大きな手は僕の頭を優しく、包み込むように撫でていた。
 「メールくれてありがとうな」
 (こんなことならもっと早くに連絡してやれば良かった)
 肝心の父さんの心の声も僕を思うような言葉ばかりだった。
 今までの僕の不安は杞憂だったようだ。
 「……僕はもうそんなに小さくないよ」
 「俺からしたら蒼唯はずっと子供だよ」
 そう言って父さんも僕の頭をこねくり回し、父さんも僕も涙を堪えて笑っていた。
 それから父さんと今まで会えなかった時間を埋めるようにたくさん話をした。
 「今は母さんと二人で暮らしてる。料理が上達しちゃったよ」
 「いつかお父さんも食べたいな」
 (成長したなぁ)

 「今は三人の友達と一緒に学校を楽しく過ごしてる」
 「そうか。友達は大切にするんだぞ」
 (友達と楽しそうでなによりだ)

 そんな感じで、父さんが心から僕のことを思っていてくれていたことが話をするたびに分かっていった。
 「父さんは今は何してるの?」
 今まで穏やかな顔で話を聞いてくれていた父さんの顔が途端に曇った。
 「仕事は離婚する前とは変わらないところに勤めてるのだが……」
 父さんの話も徐々に歯切れが悪くなっていく。
 (この子にそんなことを話してもいいものだろうか。傷つくかもしれない)
 僕は父さんがさっき、咄嗟に隠した左手を見た。
 確かにその内容は僕にとって酷なことだけど、なにより父さんが僕のこと心配してくれていることが嬉しかった。
 「話してみてよ。大丈夫だから」
 (……この子はこんな顔をすることができたのか。本当に優しい子だ)
 父さんが僕の顔を見るくらいで安心できたらなら本当に良かったと思う。
 「実は……父さん、今は再婚して新しい人と暮らしているんだ」
 父さんは左手を隠していた手を退けると僕が昔見ていた指輪と同じ場所に別の指輪がついていた。
 「少し前に新しく息子も産まれたんだ。今は三人で暮らしてる」
 「僕……弟ができてたんだ」
 「報告できずにすまなかった」
 父さんは僕に頭を下げた。
 「父さん!?」
 でも下げている頭を戻してよ、なんて言えなかった。
 (本当にごめんな)
 父さんの今の謝罪の気持ちは決して口だけのものではなかったから。
 僕は心が読めるだけで記憶まで読めるわけじゃないけど、きっと父さんはこのことをずっと負い目に感じていたんだろうなってことはよく分かった。
 だから僕が呼んだ時に無理をしてでもすぐに来てくれたんだ。
 父さんは本音で、本当のことを話してくれてたんだ。
 「実は……父さんからずっと連絡が来ないことってことは僕は父さんに嫌われてるのかもしれないって今まで思ってたんだ」
 だからこそ、僕も父さんに本音で語りたいと思った。
 僕と真剣に向き合ってくれている父さんに、自分を押し殺した都合のいい返事ばかりで逃げたくないなんてない。
 「でも、父さんと母さんが離婚したのは僕が二人の気持ちなんて考えずにわがままばかり言っていたせいだから、父さんに会いたくても我慢しなきゃってずっと思ってた」
 (……っ!)
 父さんは今にも涙が流れそうな目で僕を抱きしめた。
 「嫌ってなんているものか!俺はずっと蒼唯のことを愛してた。離婚もお前が原因なんかじゃない。蒼唯が一人で抱え込むことなんて何も無いんだ!」
 (こんなに追い込んでしまったなんて……本当にごめんな)
 「こんな不甲斐ないお父さんを許してほしい……。こんなことになるのなら、蒼唯に俺からすぐに連絡を取れば良かった。蒼唯はお母さんについて行ったから、てっきり俺のことは嫌いだと思っていたんだ。そんな俺が蒼唯を置いて新しい場所で家族を作っているなんて知ったらきっと裏切ったと思われてしまうと、そんな自分勝手な思い込みばかりをしてしまっていた……」
 僕の肩に回された父さんの腕は昔のようにとても大きく感じた。
 僕は思わず父さんのスーツを裾を引っ張った。
 「離婚したのだって父さんと母さんが合わなかっただけなんだ。決して蒼唯が原因じゃない!蒼唯は俺たちを最後の最後まで繋ぎ止めてくれていた二人の宝だったんだ」
 父さんは今にも消え入りそうな声で呟くように言った。
 「……それを聞いて安心したよ」
 驚いたように顔を上げた父さんに僕は慣れない笑顔でニコッと笑ってみせた。
 「またこうやって会いに来てもいい?」
 「あぁ!もちろんだ」
 僕はハンカチを父さんに手渡すと、父さんは情けないなと言いながらそれを受け取り涙を拭いた。
 その後父さんに奢りで食べたオムライスは昔と全く変わらない味がした。


 「ご馳走様でした。父さん、今日はありがとう」
 「いいんだ。今まで辛い思いをさせてた分をこれから償わせてくれ。帰りは送って行こうか?」
 「友達と来てるから大丈夫。早く帰って弟の面倒でも見てあげて」
 料理を食べた後、デザートのバニラアイスまで奢ってもらい僕らは店を出た。
 父さんがお会計している間にブレスレットで紫音に合図を送ったし、もう少ししたら紫音はこのファミレスに戻って来るはずだ。
 それまで待って、合流してから電車で帰ると七時を過ぎる頃だろうか。
 紫音も居るしできるだけ早めに帰らないとなぁ。
 紫音がここについたらまたブレスレットに合図が来るはずだし、待ち時間ギリギリまで父さんと話すために駐車場まで一緒に向かった。
 「またいつか僕にも弟を紹介して欲しいな」
 「もちろんだ。彰って名前で最近四歳になったばかりなんだ。俺も仕事の都合が良くければすぐに会いに行くからいつでもメッセージをくれ」
 「うん。楽しみにしてる」
 父さんはニコッとした顔で笑うと車に乗り込んだ。
 エンジンをつける音を聞いて、この車の向かう先が僕の帰る場所と同じでないことに少しだけ寂しさを感じてしまう。
 「そうだ!シオンちゃんにもよろしく言っといてくれ。最初蒼唯と一緒に居るあの子も見違えるほど美人になってびっくりしてしまったよ」
 「えっ?なんで紫音を知って……」
 父さんとの話で大輝や乃々さん、紫音の名前までは紹介していない。
 父さんに僕の友達の名前をいきなり言っても混乱するだけだろうから僕は父さんとの話の中では「友達」としか言っていないはず。
 父さんはなんで知ってるんだ?
 頭がこんがらがってどうにかなりそうだった。
 「あれ、人違いだったか?確か、昔小学校は違ったけど蒼唯と同い年のシオンちゃんって子がこの辺にいなかったか?ほら、よく公園で見た……」
 (やっぱり人違いだったか?碧唯を迎えによく公園に行っていたはずなんだが……高校生にもなるともう誰が誰だか分からなくなってしまうな。俺ももう歳か)
 「でも、蒼唯達が引っ越す前にどこかへ行ってしまったようだし俺の人違いだったんだろう。混乱させて悪かったな。俺もそろそろ帰るよ。蒼唯の言う通りたまには家族孝行しないとな」
 「う、うん……。気をつけて帰ってね」
 「蒼唯もな。身体に気をつけて過ごすんだぞ」
 父さんは車を出し、駅とは逆の方向へ走り去って行った。
 車へ向かって手を振り、車が交差点を左折して見えなくなると手を下ろし考え込んだ。
 父さんの言っていたシオンと紫音は同一人物なのだろうか。
 父さんの言った通り紫音もここに昔住んでいたと言っていた。
 紫音のお母さんの死とお父さんの育児と仕事の両立をきっかけにお父さんの職場の近くに引っ越したとも。
 確かな情報は少ないけど、少なくともここまでは父さんが言っていたことと完璧に辻褄が合っている。
 もしかして僕は昔に紫音に会っているのか?
 そんなことを考えていると左手のブレスレットから振動が送られてきた。
 同時にスマホにも『いまファミレスの入口付近にいるんだけどどこにいるの?』とメッセージが入った。
 慌ててファミレスの入口まで戻ると紫音は一目散に僕の方まで駆け寄ってきた。
 「どうだった?お父さんとはお話できた?」
 (上手くいっているといいんだけど……)
 紫音の顔は笑顔だったが、僕を励ます準備はしていてくれたみたいだ。
 「うん。また会う約束までしてきたよ。紫音のおかげだよ。本当にありがとう」
 「私は何もしてないよ。蒼唯が頑張ったんだって!」
 まるで自分事のように喜び、興奮気味語りかけてくるテンションは帰りの電車を降りるまで続いた。
 「本当に上手くいって良かったよ!私、失敗してたらどうやって励まそうかずっと喫茶店でシュミレーションしてたんだからね」などとしきりに言っていたのは僕を父さんと会うように勧めた張本人として責任を感じていたからなのだろう。
 安心が一転して興奮しているように見えた。
 だけどそのせいでずっと聞きたかったことは聞けず仕舞いで、結局僕は紫音と昔会ったことがあるのかどうかは分からないまま別れてしまった。
 その時はどうせまだ『お手伝い』は続くんだからまた明日聞けばいいと思って、モヤモヤはしていたものの大して重く受け止めずにいた。
 でも、あの時無理をしてでも聞いとけば良かったと悔やんでも悔やみきれない後悔になってしまった。
 「おい!蒼唯!」
 「あ、おはよう大輝。乃々さん……どうしたのそんなに慌てて?」
 いつもは教室で話しながら待ってくれているはずの二人が何故か昇降口まで降りて僕を出待ちしていて、何が何だか分からず混乱した。
 酷く狼狽する乃々さんを宥めながら大輝は落ち着きもなく声を荒らげて言った。
 「昨日の夜に紫音が倒れて意識がまだ戻らないって!」
 「うそでしょ……」
 震える手で触ったブレスレットからはいつまで経っても紫音からの返信は帰ってこなかった。
 「紫音!」
 病室のドアを開けると紫音は白いベッドの背もたれに体を預けるように力なく座っていた。
 「蒼唯……授業はどうしたの?まだお昼だよ?」
 「すっぽかしてきた。紫音が倒れたって聞いて心配で」
 そんな中でずっと返事が来なかったブレスレットが突然震え始めたらすぐに向かうに決まってる。
 「もう大丈夫なの?」
 「……うん」
 「そんなわけないでしょ。ならなんでそんなに泣きそうな顔をしてるんだ」
 「泣いてなんかない」
 紫音は強がって目の下に溜まっていた涙を拭った。
 いつもそうだ。紫音は肝心な時に話をはぐらかそうとする。
 「紫音。何があったの?」
 「だから、何も無いって」
 紫音の口調は珍しく強気だった。
 多分僕もそれに触発されてしまった。
 僕らの口調は徐々にエスカレートしていく。
 「何もないことはないでしょ?大輝や乃々さんもずっと心配してたんだよ」
 「そう。なら二人にも大丈夫だよって言っといて」
 「だから、大丈夫なんかじゃ……」
 「もううるさい!」
 初めて聞く紫音の怒号だった。
 途端に病室は静寂に満ち、窓からの風と紫音の鼻をすする音だけが響いた。
 「何も知らない人には分からないよ……」
 僕は何も言えなかった。
 最近聞こえていた紫音の心の声は病室に入った時から何も聞こえていなかった。
 それだけ紫音と僕の間に心の壁ができてしまっているんだ。
 「ごめん……配慮が足りてなかった」
 僕はすぐに謝ったけど、紫音はずっとワナワナと震えていた。
 「蒼唯、今日で『お手伝い』は終わりにしよう」
 「えっ……」
 「蒼唯だって、この日をずっと待ち望んでたでしょ?」
 「それは……」
 確かに最初紫音に『お手伝い』をお願いされたときはすぐにでも辞めてやると思っていた。
 でも、紫音と色んなことして、色んな場所に行って、心から信用できる友達もできた。
 だから今はそんなこと思っていない。
 それに……僕は紫音に恋をした。
 ルールに反していると分かっていてもその思いは止められなかった。
 心を読む力を手に入れて、人を信じることができなくなって、灰色で止まっていた僕の時間を再び進めてくれたのは紫音。誰でもなく君なんだ。
 「ルール二、『お手伝い』が終わったらそれまでのことをきれいさっぱり忘れること。覚えてる?」
 そんなこと言わないでくれ。
 僕はやっと人と過ごす楽しみを見つけたところなんだ。
 やっと君が好きだと分かったところなんだ。
 「もうここには来ないで。そう二人にもそう伝えて。今までありがとう。それじゃあ」
 僕が何か言う隙もなく、紫音に病室から追い出されてしまい、閉められたドアの前に立ちつくした。
 なんでこうなってしまったのだろうか。
 紫音の身に一体何があったのだろうか。
 さっきから振動しているスマホを見ると大輝や乃々さんから大量のメッセージが届いていた。
 「紫音は無事なのか?」
 「紫音は大丈夫なの?!」
  二人からのメッセージは紫音のことで同じような言葉ばかりが送られてきていて、僕はなんて返せばいいか分からずスマホも乱暴にポケットに閉まった。
 「あら紫音ちゃんのお友達?今から検査の時間だから後でもいいかしら」
 近づいてくる看護師さんに気がつかず、下を向いていた顔を持ち上げる。
 目の前には薄いピンクの服を着た、おばちゃん看護師と若い一つ結びの看護師の二人が立っていた。
 さっき話しかけてくれたのはおばちゃん看護師の方で、気さくな人のようで普段の紫音となら会話が弾みそうだなぁとぼんやり思った。
 「すみません……」
 「いいわよ。私はこの子をエントランスまで送ってくるからその間は紫音ちゃんのこと任してもいいわね?」
 「はい。分かりました」
 「それじゃあ僕、行くわよ」
 若い方の看護師に指示を出すとおばちゃん看護師は僕の背中を半ば強引に押して足を動かせた。
 (紫音ちゃんの友達だなんて酷な事ね……。全部忘れられてしまうと言うのに。ただの高校生がこんな思いをするなんて)
 全部忘れる……?
 どいうことだ。
 紫音の入院は怪我や病気が原因じゃないのか?
 「あの……紫音ってどこが悪いんですか?」
 そういうとおばちゃん看護師は怪訝そうな顔をした。
 (何も知らないのね……。なら、教えてあげることはできないわ)
 「ごめんなさい。それは言えないの」
 おばちゃん看護師はそれ以上は心の中でも紫音の身体のことには言及しなかった。
 多分今の僕の発言でこの人と僕の間にも心の壁ができてしまったんだ。
 (ごめんね、蒼唯……寂しいよ……)
 押されながら病室を離れているとそんな紫音の声が僕の頭に響いたが、今の僕には紫音に確認を取る術もなかった。
 病院を出た後も学校へ行く気分にはなれず、僕はそのまま家へ帰った。
 大輝と乃々さんには紫音の要望通り、紫音の身体は大丈夫。でももう会いにこないでと言っていたことをメールで伝えた。
 大輝からも乃々さんからも鬼のようにメッセージと着信があったけど今の僕にはそれに返信する元気もなく、スマホの電源を切ってベッドの上に投げ捨てた。
 『何も知らない人には分からないよ……』
 紫音の言葉が耳にこびりついて離れない。
 僕はこの一年間で紫音のおかげで色んなことを知れて、多くのことができるようになった。
 僕一人なら絶対に得ることのなかった体験もたくさんした。
 紫音のおかげで僕の人生は元の、人を嫌っていた頃とは比べ物にならないくらい明るいもの変わった。
 でも、僕は紫音に何をしてあげられた?
 紫音に「何も知らない」と言われて僕は言い返すことすらできなかった。
 実際に僕は紫音のことを全然知らなかった、知ろうとしてこなかったから。
 いつもはぐらかしてくるからなんて勝手に自分で逃げ道を作って、紫音の出してるサインに気がつくことすらできなかった。
 結局、僕は父さんと母さんが離婚した時から根の部分が変わってないんだ。
 根本的で肝心なことに気がつかない。
 結局、僕は自分のことしか見ていなかったんだ。
 そう思うと紫音に与えられてばかりの自分が途端に醜く見えた。
 「蒼唯〜!帰ってるの?」
 静かだった家に母さんの声が響いた。
 今日は仕事が早く終わったのかな?
 僕は重い体を無理矢理動かして二階の自室から一階のリビングまで歩く。
 「まだ学校の時間じゃないの……って酷い顔!体調悪いの?」
 「いや……別に体調は大丈夫。熱もないよ」
 「そう。なら何かあった?」
 母さんは荷物を置くとダイニングテーブル用の椅子に座り、僕を手招きして呼んだ。
 どうやら僕も座れということらしい。
 今は人と話している気分なんかではなかったけれど、勝手に帰ってきた身として怒られないだけマシだと思うことにして僕も椅子に座った。
 「それで何があったの?」
 「……」
 少しばかりの沈黙が続いた。
 今の僕にはこの状況をなんて説明すればいいかすらも分からなかった。
 母さんに言いたいこと、伝えたいことはたくさんある。
 僕らのこの関係は最初は心の声を読めることを広めると紫音に脅されて始まった。
 その時は、紫音のことは所詮は他人だとずっと思っていた。
 次第に紫音のことを友達だと言えるような関係になって、一緒に大輝と乃々さんの恋を叶える計画を企てたパートナーのような存在になった。
 そして、僕は禁止されていたけど、紫音に恋をした。
 『お手伝い』のルールでお互いへの恋を禁止してるのに僕はそれを破ってしまった。
 それくらい彼女のことが、どうしようもないくらい好きだった。
 昨日、それが紫音への二度目の恋になるかもしれないとも知った。
 一度目は転校前の小学生の時。唯一心を読める力を否定せずに受け入れてくれた金木犀を腕いっぱいに抱えて僕を慰めてくれた女の子……シオンに。
 二度目は今の、僕が心を読めると知ってなお、明るい陽だまりへ連れてきてくれた紫音に。
 結局その二人が同一人物であるかどうかはまだ確認できていないけど……。
 これまでの紫音と僕の軌跡や、紫音の入院がきっかけで起きた紫音の態度の変化。そして、突然の縁切り。
 僕はそれを母さんに伝えることができなかった。
 今まで人を避けて、話してこなかったからそのやり方が分からなかった。
 こんなところでつけが回って来るなんて思ってもいなかった。
 黙りこくっていると母さんはため息をついた。
 (この子はまたこんなことになって……)
 やっぱり、僕は何をしても駄目なやつでしかないんだ。
 僕には紫音の隣に立つなんて、ましてや恋心を抱くなんて分不相応だったのかもしれない。
 この一年間ももしかしたら夢だったのかも……。
 「蒼唯の悪いところよ。いつも自分一人でなんでも背負おうとするところ」
 母さんはテーブル越しの僕の額にデコピンを強烈な一発食らわせた。
 「いたっ!」
 「いい?蒼唯は一人で塞ぎ込まないでもっと人に頼りなさい。人を頼ることも紛れもないその人の力よ」
 母さんの目はしっかりと僕を捉えていた。
 「昔私たちが離婚してすぐの頃、蒼唯がショックで部屋に閉じこもって『僕のせいだ』なんて悲しそうな声で自分を責めているのを聞いちゃったことがあったけど、あの時の私は何も言ってあげられなかった。私のせいでこの子がこんなになっているのに蒼唯に「あなたのせいじゃない、気にしないで早く立ち直って」なんて言う資格はないと思っていたから。でも私はあの時の選択を後悔してるの。無理をしてでも蒼唯のことを抱きしめてあげるべきだった」
 母さんは僕の左手を両手で優しく握った。
 その手は幼い頃に握って以来の力強くて暖かい手だった。
 「でも僕が無理に二人が一緒に過ごすようにしてたから……!そんなことしなければもしかしたら関係だって良くなっていたかもしれないのに!」
 「離婚は蒼唯のせいなんかじゃない。それはただ、私とお父さんが合わなかっただけ。蒼唯がそんなことをしていなくても遅かれ早かれこうなっていたと思う。でも蒼唯のその気遣いは何よりも嬉しい。そしてごめんなさい。今まで蒼唯の思いに気がついてあげられなくて」
 母さんは頭を下げた。
 ここまで母さんと面と向かって話したのはこれが初めてだった。
 心が読めるようになって、母さんが僕をなんと思っているのか分かってしまうからと母さんとすらも会話を避けてしまっていたんだ。
 実際は僕への負い目からきていた母さんと僕の間にある心の壁のせいで何一つ、僕は母さんのことを知ることはできなかったというのに。
 「でももう後悔しないようにしたい。今度は今深刻そうな顔をする蒼唯の力になりたい。今更都合のいいようだけど、こんなお母さんを蒼唯は許してくれるなら何があったかゆっくりでいいから話してみてほしい」
 「それはずるいよ……僕が母さんを許さないわけないじゃないか」
 母さんは僕に向かってはにかんだ。
 それから僕はダムが決壊したように涙を流しながら今までのことと今の紫音について話した。
 僕が話している間、母さんはずっと真剣な顔で黙って聞いてくれた。
 「そっか。その紫音ちゃんって子に蒼唯は救われたのね」
 「うん。でも紫音とはもう縁を切られた。僕には何をするべきかがもう分からないんだ」
 「そんなの答えは一つよ」
 僕がさっきまで頭を抱えて悩んでいた問題を母さんは話を聞いてたった一分足らずで結論を出してしまった。
 「蒼唯、あなたは今どうしたいの?」
 僕がどうしたいか……?
 そんなの決まってる。
 「もう一度、紫音に会いたい」
 僕はあの悲しそうな声で「寂しい」と言っていた紫音を見なかったことにはしたくない。
 僕のブレスレットにわざわざ振動を送ってきたということは紫音は本心では誰かに助けてもらいたいと思っているはずだから。
 「僕はまだ紫音に紫音自身のことを何も聞けてない!」
 「ほら、もう答え出てるじゃん」
 母さんはまるで僕の心にもう答えがあるだろうと言わんばかりに胸の辺りを親指で指さした。
 「蒼唯までさっき私が言ったような後悔をしなくていいの。来ないでと言われようがそれが彼女のためにならないと思ったんなら後悔する前に行動しなさい」
 母さんは立ち上がり座っている僕の背中からハグをした。
 母の温もりってこういうことなんだろうな。
 荒れていた心が少しづつ凪いでいっているように感じる。
 「明日は学校に一日欠席の連絡を入れといてあげる。ただし今回だけだからね」
 母さんは回していた腕を引っ込めると今度は僕の背中を押すようにバシッと叩いて喝を入れた。
 「紫音ちゃんとしっかり話してくるように。いいね?」
 「……うん!ありがとう母さん」
 「どうってことないよ……そうだ、買い物に行かないと行けないんだった。直ぐに行って来るから、それじゃあ」
 そそくさと出ていく母さんの手には車の鍵だけで財布なんて握られていなかった。
 (ありがとうなんて言うのは私の方よ。蒼唯、私の子供に生まれてくれてありがとう)
 いつまでも出発しない車からまるで何かを堪えるように震える声が僕の頭の中にずっと響いていた。
 僕は紫音にもう一度会いに行かせて欲しいと昨日の夕方にメールを送ったけど朝起きて、病室の前に来るまでき既読がつくことは無かった。
 面会時間は朝の十時から。
 朝一番で行って紫音が僕と話してくれる気になるまで何時間でも、何日でも待ってやるという意気込みで僕は学校を休んで病院へ向かった。
 いざ紫音のいる病室の前立つと、このまま僕が病室に入った時紫音はなんと思うだろうかと考えて、この後に及んで尻込みした。
 昨日母さんが言った通り、自分がやるべきだと思ったなら後悔する前にやるべきだと僕も思う。
 でも僕は人からの罵声や批判を受け流せる程強くない。
 ましてや好きな人からのそんな言葉なんて想像したくもない。
 でも、他の誰でもない紫音のためなんだ。
 紫音の病室の引き戸を前にして深呼吸をした。
 紫音は確かに寂しいと言っていたんだ。
 ここでこのドアを開けずに引き返してしまったら僕はこの先一生引きづることになる。
 母さんや大輝や乃々さんにも顔を向けできない。
 今、覚悟を決めるべきだ。
 (紫音……)
 僕が思い切ってドアを開ける瞬間、病室内から男の人の声が頭に響いた。
 しまった!誰かいたのか。
 そう思った時にはもう手遅れで僕の手は止まることなく扉を開けていた。
 「ん?君は……」
 「お、おはよう……ございます……」
 中にいたのは少し白髪の混ざったスーツ姿の男性。
 年は僕のお父さんより少し年下くらいだろうか。
 どことなくほっそりとした印象がして、眼鏡をかけているその顔からはやつれているというか疲れているような気配が感じられる。
 ベッドに横たわっている紫音は寝息を立てて眠っていた。
 「君は紫音の友達かな?」
 「同級生の比奈蒼唯です……あなたは?」
 「私は紫音の父の翔吾です。いつも紫音と仲良くしてくれてありがとう」
 確か紫音はお父さんと一緒にここへ引っ越して来たと言っていたはず。
 この人が……。
 なら、悪いことをしてしまった。
 仕事で忙しい中紫音に会いに来ているはずなのに時間を取らせてしまった。
 さすがに今は家族である翔吾さんに時間を譲るべきだろう。
 いくら今の僕でもそのくらいの気遣いはしなければ。
 「お取り込み中すみませんでした。また時間を置いて来ます」
 「大丈夫だよ。今日は入院のための荷物を届けに来ただけなんだ。僕ももうすぐ仕事に行ってしまうしね」
 「そう……ですか」
 そそくさと踵を返していた足を止めて病室の中へ入る。
 紫音が寝ているベッドの近くまで行くとドアは勝手に閉じ、僕らの間には気まずい沈黙が流れた。
 こういう時に紫音が居てくれたらと猛烈に感じる。
 紫音のお父さんと一体何を話せばいいというのか。
 「蒼唯君、君学校はどうしたんだい?この時間ではもう授業が始まってるんじゃないのかい」
 「それは……」
 僕らの間に起こった騒動について娘さんと話すために一日学校を休んで来ました、なんて紫音のお父さんに言えるはずもない。
 なんと説明すればいいかと言葉が見つからなかった。
 「……いや、今それを聞くのはやめよう。私は今は君に娘のためにここへ来てくれたことへただ感謝するべきだからね」
 「いえ、そんな……ただ僕がそうしたいと思っただけなので」
 「なら何も変わらない。それだけ娘のことを思ってくれているということだろう」
 紫音の意見を押し通すところや、僕の言葉を言い換えて褒めてくれるところはきっと翔吾さん由来なんだろうなと思うくらい二人の考え方は似ていた。
 「紫音に友達ができること自体がそもそも喜ばしいことなんだ。紫音はこんな身になってしまったせいでそれを叶えることにとても苦労しているはずだから」
 「……紫音はいったい何を抱えているんですか?」
 翔吾さんに聞くのは卑怯だとも思ったけれど紫音に直接聞いても教えて貰えない可能性もある。
 なら、今日の収穫として情報は一つでも分かっていた方がこれからに活かしていけるはずだ。
 「僕も教えてあげたいところなんだが、看護師さん達と同様、紫音から口止めされているんだ。それを聞きたいなら紫音本人から直接聞かなければならない。力になれずにすまないね」
 「いえ、すみません急にこんなことを聞いてしまって」
 翔吾さんだって紫音のことが不安だろうに無遠慮なことを聞いてしまった。
 翔吾さんの心の声でも紫音について言及している声は聞こえない。
 紫音の話題について翔吾さんと僕の間には心の壁があるか、翔吾さんと紫音の固い約束が翔吾さん自身の決意として心の壁の役割を果たしているのだろう。
 それだけ翔吾さんは律儀な人だということがうかがえる。
 「気にしていないよ……そろそろ僕は仕事に行くよ。今は寝てるけど紫音もあと少ししたら起きるはずさ」
 「ありがとうございました。お仕事頑張ってください」
 「あぁ、ありがとう」
 翔吾さんは椅子に置いていた鞄を手に取り、出口の方へと歩いて行くと僕の隣で足を止めた。
 「そうだ、そんな君に一つ頼み事をしていいかな?」
 「なんですか?」
 「これを、紫音が起きた時に渡して欲しいんだ」
 翔吾さんは鞄から一冊の手帳を取り出した。
 表紙には黄色を基調とした花が散りばめられていて、その中には金木犀の花もあった。
 「これは?」
 「紫音がつけている日記だよ。僕は蒼唯君に紫音の病状をいうことはできないが、それを読んだら何か分かるかもしれないね」
 「いいんですか?!」
 「僕はそれを君に渡しただけだ。それを君がどうするかは蒼唯君次第だよ」
 「ありがとうございます!」
 (紫音の大切な友人なんだ。これくらいはさせて欲しい。素直に教えてあげられなくてすまない……)
 手帳を受け取ると翔吾さんは病室を出ていってしまった。
 そんな翔吾さんを見送り、僕は寝ている紫音の横の椅子に座った。
 翔吾さんが紫音について「病状」と言っていたからには入院の理由は怪我ではなく、病気なのだろう。
 顔色もいいし、寝顔だけ見るととても病人のようには見えない。
 まじまじと顔を見ていると、その顔が紫音の寝顔だということをふと認識した途端顔が熱くなって思わず顔を逸らした。
 いったい何をしてるんだ僕は。
 気を引き締め直して、さっき手渡された手帳を見つめた。
 冷静になって考えると紫音の日記と言っていたけど無許可で見ていいものなのだろうか。
 日記ってあんまり人に見られたくないものだよねと一瞬開くのを躊躇った。
 でも、縁切りを宣言された僕にはもう失うものなんてない。
 少しでも紫音のことが分かるなら読もう。
 「紫音ごめんね。日記読ませてもらうよ」
 聞こえてなんてないだろうけど、一言言ってから満を持して表紙を捲る。
 『私へ。今まであったことを忘れないようにするために今日あったことを日記に書くようにすること』
 一ページ目に書かれていたのは紫音が自分に向けたメッセージだろうか?
 今日あったことを忘れないようにするため。
 『全部忘れられてしまうと言うのに』
 昨日の看護師さんの心の声を踏まえるとこの言葉には何か含みがあるように感じる。
 また一ページ捲る。
 これは紫音が小学五年生の頃のものだろうか?
 『病院で頭に異常が見つかったと言われた。今まで発見されたことのない病気みたいで私はこれからどんどん思い出を忘れていってしまうらしい。お医者さんからこれまでのことをこの先思い出せるようにと言われて日記をつけることにした。お父さんにも天国にいるお母さんにも心配をかけないように毎日頑張って日記をつける!』
 『昨日行った病院よりも大きな病院で色んな検査を受けた。たくさんの大きな機械で頭を調べてもらった。でも、そこのお医者さん達も見たことの無い病気だったらしい。私いったいどうなっちゃうんだろう?』
 紫音が抱えているもの、それは思い出……つまり記憶がなくなっていく病気だったのか。
 そう思うと合点が行く気がした。
 あの看護師さんの発言の意味も翔吾さんが言っていた友達を作るのが難しいと言っていた意味も紫音が記憶を無くしていくからだと考えれば理解できる。
 思い返してみれば、紫音が一度学校に遅刻しそうになっていた時、友達との会話が噛み合わなくて困っていた紫音が心の中で「寝坊したせいだ」と言っていたけれど、これは寝坊したせいで日記を読んで記憶を確認することが十分にできなかったからだと捉えることができる。
 続きのページには病院での検査や紫音の病状も書かれている一方で紫音の私生活や思い出の日記もたくさん書かれていた。
 僕は夢中になって紫音の日記を読んでは捲った。
 『お父さんがいつも検査を受けている病院の近くに引っ越しすることを提案してきた。お母さんと過ごしたこの家にもう住めなくなるのは嫌だったけど、お父さんの疲れた顔を見るのも嫌だったから、いいよって言っちゃった。お母さんのお墓参りだけは絶対に毎月来ようと決めた。だから、これを見た私は今月はいつお墓参りに行くかちゃんと決めておくようにしてね』
 『中学生になった。友達ができるか不安だったけどさっそく二人友達ができた。入学式の日から友達ができて安心した。二人の名前は加賀大輝君と佐倉乃々ちゃん。これからの学校生活は楽しく頑張っていこう!』
 『高校はお父さんの負担にならないように公立で家から一番近い学校を受けることに決めた。幸い学力的には問題なくいけそう。大輝も乃々ちゃんも同じ学校らしいし楽しく過ごせそう!油断大敵というし受験勉強もこれから頑張る!』
 ページを捲る度に紫音のことが分かっていく。
 それと同時にやっぱり今まで僕は紫音のことを何も知らなかったんだなと痛感した。
 そんな日記の中でも特に驚いたページがあった。
 紫音が引っ越す直前の日記だ。
 『公園で遊んでいると一人で泣いている男の子が居た。その子は心が読めるらしい。思っていたことを当てるクイズはなんと全部正解だった!心が読めるのはすごいことだと私は思ったけど、男の子は嫌なことまで聞こえてしまうからこんないらないと言って悲しそうにしてた。昔お母さんは私が泣いているとお庭の金木犀の花を私の頭にかけていい匂いにして励ましてくれたから、家の金木犀の花を取りに行ってその子にもしてあげた。男の子も元気になってくれて明日も遊ぶ約束をした。その子の名前は――比奈蒼唯君』
 僕のお父さんが言った通りだったのだ。
 僕と紫音は昔会っていたんだ。
 しかも、ただ会っていただけじゃない。
 あの時、心を読める僕を唯一受け入れてくれて励ましてくれたあの女の子は昔の紫音だった。
 なんで僕はそのことに今まで気が付かなかったのだろうか。
 思えば、紫音が僕の引っ越す前の住所を知っていたのはこれが理由だったのか。
 僕の初恋の人はこんなにも近くにいて、僕はまたその子に恋をしていたのだ。
 日記には僕らが再開してからのことも書いてある。
 『交通事故に会いそうな子供を庇おうとすると同級生の男の子がそんな私たちを庇ってくれた。私も子供たちもほぼ無傷の軽傷だったけど、庇ってくれた同級生は頭を打ったから病院へ運ばれて行った。入院してたのが私の通ってる病院というので看護師さん達に事情を説明してお見舞いにいくとなんとその男の子は心が読めると言っていた!名前は比奈蒼唯君。六年前、引っ越す前まで公園で一緒に遊んでいた子だった!?向こうは気がついてないみたいだし、このままバラすのももったいない気がするし、明日また会う約束を取り付けたからその時までにどうするか考えれよう。ちょっとばかりの恨みもあるし、どうしてやろうかな?』
 この恨みというのは紫音が心の中で言っていた『邪魔が入った』の真意なのだろうか、それとも殺人鬼呼ばわりされたことへの文句なのだろうか。
 僕の入院していた病室がすぐに分かったのも、紫音がお母さんのお見舞いでここに通っていたからではなく、紫音自身の病気のためにここに通っていたからだったのだ。
 『蒼唯と『お手伝い』という名目で私が今まで病気のせいで我慢してたことを一緒にしてもらうことにした。蒼唯は心が読めるから人を嫌ってるみたいだけど蒼唯に対して絶対に心を読ませない!って念じると聞こえなくなるみたいだからこれで蒼唯も私の心を読むことが無くなって少しは楽になるはず!まさか病気のせいで心を閉ざしてた経験がここに来て活きるとは!三つのルールはとってつけたようなものだけど、これはお互いのために必要なものだから私も守るようにしないと』
 『大輝と乃々ちゃんの告白が終わった。大輝は乃々ちゃんに告白して振られて、乃々ちゃんはなんと私に告白してくれた!男の子らしい性格をしていた乃々ちゃんを女の子のように大切に優しく接してくれたことが嬉しかったって言ってて私も嬉しかったけど、病気のせいで恋人のことを忘れるなんて事態に陥らないためにもその告白は受け入れられなかった。でも、これからも友達として仲良くしようと約束した。蒼唯も一人で乃々ちゃんと話に行くなんて言っていて成長を感じれたし、私が居なくなってももう蒼唯は一人でやっていけそうで安心した』
 『今月のお母さんのお墓参りには蒼唯にもついてきてもらった。蒼唯は金木犀の花を見て、昔会った女の子の話をしてくれたけどまだその子と私が同一人物とは気づいてないみたい。初恋の人だったなんて告白もしてくれたのに!でもその後蒼唯は離婚してから会ってなかった自分のお父さんと会って無事仲を取り戻したみたいだし忘れてたことも許してあげようかな』
 次々に明らかになっていく真実に僕は息を飲んで紫音の丸い字を目で追った。
 「んんっ……」
 日記に集中しているとベッドから紫音の声がして慌てて顔をあげると紫音はいつの間にか身体を起こしていた。
 「紫音……」
 「それ、見ちゃったんだ」
 紫音は僕が持っている黄色の手帳を指さした。
 「ご、ごめん……」
 「いいよ。どうせお父さんが蒼唯に渡したんでしょ?というか、それ以外考えられないし」
 昨日の感情のままに荒れていた紫音とは変わって今日はとても冷静だった。
 「私の病気のこと、どこまで分かった?」
 「……脳の異常で、今までの記憶が徐々に無くなっていくって」
 「そう。もっと正確に言うと長期記憶の中の、思い出なんかを記憶するエピソード記憶が消えていく病気。さらに追加で言うと記憶が無くなっていく早さは私の成長していくに連れて早くなっていくの。それが私の病気。この病気になったのは私が初めてで先生と一緒に『青春亡失症候群』って名付けた」
 青春亡失症候群……。
 「早くなるって……今はどこまでの記憶があるの?」
 「日記を見なかったらせいぜい二週間前程度の記憶しか今の私には残ってない」
 僕は絶句した。
 今の紫音は僕と出会った日のことすら覚えていないことになる。
 紫音は十七年も生きてきたのに、今はある記憶は二週間程度しかないなんて……。
 「記憶が無くなる進行速度が今より早くなって、紫音の持ってる記憶が全部なくなったら……どうなるの?」
 「この病気自体が世界で初めての症例だからまだなんとも言えないけどおそらく脳死と同じ状態、つまり植物人間になるだろうって先生は言ってた」
 「脳死……」
 「そう。だからみんなが私のせいで傷つかないように昨日はもう来ないでって言ったのになんで昨日の今日で来ちゃうのさ」
 紫音は笑ったけど、その顔はいつもの眩しいほどの明るい笑顔じゃなくて苦しさにまみれた絞り出したような笑顔だった。
 みんなが傷つかないように……。
 日記にも書いてあった通り、『お手伝い』のルールはそれぞれ一つ目の関係を口外しないことは紫音が居なくなった後でも周りに不信感を与えないため。二つ目の『お手伝い』が終わったらその内容を忘れることはいつまでも僕が紫音のの思い出を引きづらないようにすること。三つ目のお互いのことを好きにならないことは、紫音が「恋人を作る気はない」と言っていたように残された相手、置いていってしまう自分のことを考えて作ったルールだと推測できる。
 「紫音とちゃんと話したいと思ったんだ。何も知らないでこのまま終わらけなんて嫌だったから」
 「いいんだよ。どうせ私は全部全部忘れちゃうんだから。このまま私と居てもいいことないよ?」
 いつも快活に振舞っていた紫音がこんな思いを抱えていたなんて。
 紫音が自暴自棄になったように言った言葉に僕は無性に悲しくなった。
 今の紫音はまるで、一年前の僕を見ているようだった。
 人と関わることを避けて、ただ何もかもを諦めて絶望している様子が。
 だから僕は紫音を助けたかった。
 紫音が僕にしてくれたように、今度は僕が紫音を助ける番だと決意した。
 「損得の話じゃない。僕は紫音とただ一緒に居たいんだ。だから、もっと君のことを教えて欲しい」
 紫音は激昂して涙を流しながら声を張上げた。
 「だからもういいんだって!私は何をしても忘れてしまうの!これから蒼唯とどんなことをしたとしても次の日の私には蒼唯のことすら分からなくなってるかもしれないんだよ?!なんでそんなこと言えるの……」
 紫音の声は涙で掠れ、病室の中は紫音の嗚咽が響いた。
 「それは……僕は紫音が好きだから」
 「えっ……?」
 下を向いていた紫音は驚きで顔を上げて僕を見た。
 「紫音は心の読める僕を受け入れてくれて、何もかもを諦めていた僕を陽の当たる所まで手を引いてくれた。僕が色んな体験をして、諦めていた友達でさえ作ることができたのは紛れもなく紫音のおかげなんだ。そんな紫音に僕は二度目の恋をしちゃったんだ」
 「二度目って……蒼唯昔のこと、気がついたの?」
 「紫音の日記を見て分かったんだ。僕の初恋の人は紫音、君のことだったんだね。それに気が付かず本人に初恋の人だと話していた自分が恥ずかしいよ」
 僕は椅子から立って紫音のすぐ横まで近寄っ手跪いた。
 「『お手伝い』の『お互いを好きにならない』ってルールは破っちゃったけどさ、僕にも告白をさせて欲しい。紫音、僕は君が好きだ。だからいつまでも紫音の隣に僕を居させて欲しい」
 紫音は何も言わなかった。
 ただ、再度下を向いた紫音からは時々鼻をすする音と、涙がこぼれ落ちていた。
 「あのルールはさ、私たちの関係を言いふらさないことも、関係が終わったら全部忘れることも、お互いを好きにならないことも全部、私が居なくなっても蒼唯が大丈夫なように考えて設定したのにさ。大輝と乃々ちゃんのことも無事に終わってもう未練はないとか思ってたのに台無しだよ本当に」
 「ごめんね」
 紫音が言った『時間がない』というのは紫音のに記憶が全てなくなってしまうまでの時間だったのだ。
 紫音はどこまでいっても人のことを一番に考えるような人だった。
 顔を上げた紫音の顔は涙でぐしゃぐしゃだったけど、その少し笑った顔は世界一可愛いと思った。
 「蒼唯と会った時ね、病気の進行が激しくなってずっといっその事死んでしまいたいって思ってた。子供を事故から庇った時、私は人の役に立って死ぬ事ができるんだって思ったのに、蒼唯が私たちを助けたせいでそれも邪魔されちゃってさ。話を聞けば蒼唯は私の事忘れてるし、心が聞こえるからってこの先まだまだ人生があるくせにこの世の終わりみたいな顔をしてたから、蒼唯を連れ回してたのは最初は腹いせみたいなものだったの」
 『邪魔が入った』
 僕が最初、紫音のことを殺人鬼だと勘違いしてしまったきっかけの言葉はそんな理由だったのか。
 あの言葉はこれから何もかもを忘れて植物人間になるくらいなら人の役に立って死にたいという紫音の悲痛な思いから来ていた言葉だったのだ。
 「でも、蒼唯と一緒に過ごしていくうちにまだ死にたくないなって思うようになった。まだ蒼唯とやりたいこと、話したいこといっぱいあるのにって思うようになったんだ……だけど、そんな思いもきっとこれから先もずっと生きていく蒼唯には重荷になってしまうと思って突き放したのに蒼唯はそんな私のことなんて考えずに好きだなんて言ってくれちゃってさ」
 紫音は大粒の涙を何度も拭った。
 「どうしたら許してもらえる?」
 「……もう離れないで。私が全部を忘れてしまうまで、蒼唯声を聞かせて。私も蒼唯のことが大好き」
 紫音は僕に抱きついた。
 僕の肩は紫音の涙を含んで濡れて、紫音の肩もまた、僕の涙で濡れてしまっていた。
 「うん。これから毎日ここに来るよ。最後まで思い出を一緒に作ろう」
 二人で抱き合いながらいつまでも泣いた。
 僕のこの恋は長い期間続かないかもしれない。
 でも、今の一分一秒を大切にして、たとえ紫音が忘れてしまうとしても紫音とできる限りの思い出を作り続けたいと思った。
 「これからよろしくね、蒼唯」
 「うん。これからはずっと一緒に居よう」
 しかし、不幸というのは唐突にやってくるものでその日の病院の帰り道、僕は交通事故に巻き込まれた。
 僕は意識不明の重体で病院へ運ばれ、紫音が全ての記憶を失うその日まで僕が目を覚ますことはなかった。
 「蒼唯!蒼唯目を覚まして!」
 蒼唯を病院から出たのを見送った数時間後、蒼唯は血まみれで意識不明の状態で病院へ運ばれてきた。
 飲酒運転をしていたトラックが歩道へ突っ込み、蒼唯はそれに巻き込まれたらしい。
 「危ないですから下がってください!」
 「蒼唯!死なないで蒼唯!」
 私の声は届くこともなく、蒼唯は手術室へ連れていかれ、容態が容態のため、手術は難航し、次に蒼唯が出てきたのはその日の深夜だった。
 手術が終わるまで私はずっと無事を祈りながら手術室の前で待った。
 途中で蒼唯のお母さんと合流し、続けて蒼唯のお父さんも駆けつけた。
 二人は離婚したというのに、蒼唯の無事を祈る気持ちは一緒だったみたい。
 「あなたは?」
 日記にはいつも蒼唯を公園に迎えに来てたのはお父さんばかりで私は蒼唯のお母さんとは面識のなかったはず。
 そんな蒼唯のお母さんに尋ねられた時、どう答えようか迷った。
 『これからはずっと一緒にいよう』
 そう言ってくれた蒼唯が頭によぎり、私は「蒼唯の……恋人です」と答えた。
 二人は意外そうな顔したけど、私も一緒に蒼唯を待つことを許してくれた。
 勝手に恋人と名乗ってしまったけど、今度は蒼唯と一緒にそう名乗りたい。
 だから、蒼唯無事でいて!
 願いが届いたのか手術室から出てきた先生は「もう生死に関わるところからは脱しました」と言ってくれた。
 私たちはそれに安堵して、私は蒼唯が目覚めるのを隣でずっと待った。
 けれど、待てども待てども蒼唯が起きることはなかった。
 先生達もその異常に気がついて精密な検査をしたが原因は分からなかった。
 何日も、何週間も毎日蒼唯の病室へ通い、隣で蒼唯が起きるのを待った。
 しかし、蒼唯の声を聞ける日はいつまで経っても来なかった。
 私の記憶も徐々にすり減っていき、最近では毎日読んでいた日記の存在すらも忘れてしまうこともあった。
 私はいったい、いつまで蒼唯のことを覚えていられるだろうか……。
 そんな不安が毎晩私を襲った。

 そして蒼唯が眠り続けて三ヶ月が経った頃。
 「今日も……行かなきゃ」
 朝を起きて、何故か分からないが使命感に駆られてどこかの病室は向かった。
 どこへ向かっているのか分からないのに、身体がどこへ向かえばいいのかだけを覚えていてとても不思議な感覚だった。
 知らない病室のドアを開けると中には寝ている少年げ一人居た。
 私と同じくらいの歳だろうか。
 ってことは……あれ?私っていま何歳だ?
 「おはよう、――。」
 もはや、その少年の名前すら思い出すことはできなかった。
 だけど、その少年がとても大事な人だということだけが今の私には分かっていた。
 なんで大事なのかも分かっていないのに。
 「あなたの声が聞きたい。あなたと話してみたい。ねぇ、起きて――」
 私の声は彼には届いていないようで、少年はピクリとも動かなかった。
 私は彼の隣に置いてある椅子に座った。
 ――あれ?私なんで椅子に座ったんだっけ?
 目の前の少年は誰?
 なんで私はここにいるの?
 ここは……どこ?
 頭が割れるように痛かった。
 次の瞬間、私は強烈な目眩に襲われてベッドの上で眠る少年の上に覆い被さるように倒れ込んだ。
 こういう時、どうすればいいんだっけ?
 何も分からない。
 思い出そうとしても、何も思い出せない。
 ただ、何故か悲しいという気持ちが大きな波のように私を飲み込んだ。
 「あ、おい……」
 咄嗟に口から出た言葉の意味すら私には分からず、私そのままは意識を手放した。
 「――んんっ」
 目を覚ますと全身が金属バットで殴れつけられたかのように痛んだ。
 頭はぼうっとして、意識がいつまでもはっきりとしない。
 激痛の走る身体を何とか起こすと隣には驚いた顔で固まる母さんの顔があった。
 「……母さん?」
 「蒼唯!起きたのね!すぐにお医者さんが来るからね」
 「……ここは?」
 「ここは病院よ。あなたは交通事故に会って意識不明の重傷でずっと寝てたのよ!……本当に目覚めて良かった」
 母さんは僕の手を取って涙を流した。
 そういえば、僕は紫音の病室を訪ねた帰り道でトラックに……。
 だんだん思い出してきた。
 そうだ、僕は事故にあったんだ。
 全身が痛いのはそのせいか。
 記憶が鮮明になっていくにつれて、あることに気がつく。
 「待って、今ずっと寝てたって……」
 「えぇ。あなたは三ヶ月も寝たきりだったのよ」
 その言葉を聞いて血の気が引いた。
 「ごめん、行かなくちゃ」
 「え?」
 「紫音のところ」
 紫音と約束したばかりなんだ。
 紫音の記憶が全て無くなってしまうまで僕が隣に居るって。
 こんなところにいつまでもいる訳にはいかない。
 無理矢理にでも身体を動かして紫音の病室まで行かないと。
 点滴が刺さっているけど、点滴ごと動かせば問題なく行ける。
 今はとにかく紫音の所へ――
 「待って!」
 母さんは病室を歩いて出ていこうとする僕の手を掴んで止めた。
 掴まれた手や引っ張られた肩からは激痛が走った。
 「何をするの?!今は行かないといけないところが……」
 「そんな身体で行ってどうするの!それに……紫音ちゃんはもう……」
 「紫音がどうしたの?!」
 話しずらそうにする母さんを見て、埒が明かないと思い再度踵を返して出ていこうとあると母さんから衝撃の発言が聞こえた。
 「紫音ちゃんはもう二週間も前から意識がないの!」
 「えっ……そんな……は?」
 僕は絶望で膝から崩れ落ちた。
 「僕は……約束したんだ……紫音と一緒に居るって……」
 「蒼唯……」
 「くそっ!」
 僕は自分の脚に思っきり握った拳を打ちつけた。
 手にも足にも激痛が走ったけど、それでも僕への罰には全く足りない。
 何が一緒に居るだ!
 結局、僕は好きな人との約束すら叶えることができないのか?!
 何度も何度も僕は拳を自分の脚に打ちつけた。
 「蒼唯!もうやめて!」
 振り下ろしていた手を母さんが両手で必死に握って止めた。
 「どうしましたか……蒼唯君?!起きたのね!すぐに先生を呼んで!」
 看護師さんが部屋に着くなり、辺りがバタバタと忙しそうに動き始めた。
 「紫音ちゃんのことは残念だけど、私には蒼唯のことも大切なの。だから、今は自分の身も大事にしてちょうだい……」
 涙ぐむ母さんを見て、僕は力なく振り上げた手を降ろした。
 もう、僕には涙を流す気力すらなかった。
 紫音を一人にしてしまった。
 きっと記憶がどんどん無くなっていって、一人じゃ不安だったはずなのに。
 僕はこれからいったいどうすればいいっていうんだ。

 「紫音!ご飯できたわよ」
 「え、お母さん……なんで生きて……」
 「紫音?涙なんて流して何かあったの?高校で嫌なことでもあった?」
 お母さんは私の涙を拭って、頭を撫でてくれた。
 あれ?私、なんで泣いてたんだっけ?
 「今日は紫音の好きなグラタン作ったから元気出して!」
 「え?!グラタン、やった!」
 「あら、すぐに元気になっちゃって。全く作りがいのある子ね」
 急いで手を洗い、席についてグラタンを口いっぱいに頬張った。
 甘いホワイトソースとチーズにマカロニとベーコンとたけのこ。
 お母さんのグラタンだ。
 「久しぶりに食べたけど、やっぱり美味しいな」
 「久しぶりって、この前も食べたじゃない。秋になるとすぐにグラタンをリクエストしてくるんだから。やっと涼しくなってきた頃だっていうのに」
 「あれ?そうだっけ?」
 なんで私はお母さんのグラタンを久しぶりって思ったんだっけ。
 さっきから何か変だ。
 何か大事なことを忘れている気がする。
 「高校に入ってからどうなの?何かあった?」
 「楽しく過ごしてるよ!中学校からの友達二人と私と、もう一人の四人でよく一緒に過ごしてるの」
 あれ、もう一人って誰だっけ?
 大輝と乃々ちゃんのことは思い出せるのに、あと一人が記憶に霧がかかったかのようで、何も思い出せない。
 「そう、楽しそうでなにより」
 「お母さんは最近私がいない間は何してるの?」
 「私?そうね……。ずっと紫音のことを考えているわ」
 「私のこと?」
 「そう。紫音が毎日楽しく過ごせますようにって」
 「なにそれ、変なの」
 思わずぶっきらぼうに言い放ってしまった。
 もう一口、グラタンを頬張る。
 コリコリとたけのこの食感がした。
 「あれ?そういえばお父さんは?」
 そういえば食卓はいつも家族三人で囲むのが我が家のルールのはずなのに、席には私とお母さんの二人しか座っていない。
 料理だって、二人分しか並べられていないのを見ておかしいと感じた。
 「お父さんは、まだここにはいないから」
 「いないってどういうこと?」
 お母さんは悲しそうな顔をして席を立ち、座っている私を後ろから抱きしめた。
 「紫音が元気そうに過ごせているのを見れて本当に良かった。でも、そろそろお別れの時間よ」
 「なに……それ?私まだお母さんと一緒に居たい!」
 「私だって紫音と一緒に居たい。それこそいつまでもずっと一緒に」
 お母さんは泣いていた。
 テーブルの上にお母さんの涙がポツポツと落ちていく。
 「でも、それは今じゃない。紫音はまだここに来るべきじゃない」
 お母さんはテーブルがある方とは反対の、庭へ出入りするための大きな窓を開けた。
 「さぁ、行って。大丈夫、紫音ならどこへ行けばいいかきっと分かるはずだから」
 「なんで?!お母さんも一緒に行こうよ!」
 「それは無理よ。私はもうそちら側には行けない」
 「なら、私もここにいる!お母さんと一緒に居たいよ!」
 「紫音!!」
 泣き喚く子を一喝するような声でお母さんら私の声を遮った。
 「紫音、停滞してばかりじゃあ何も起こらない。きっと紫音なら大丈夫よ」
 すると、男の子の声が私の頭に響いた。
 『……ん、……おん!起きてよ紫音!』
 この声は……。
 「――蒼唯?」
 そう、蒼唯!
 なんで今まで忘れていたんだろう。
 私は病気が原因で倒れて……。
 そうだ!蒼唯は無事なの?!
 まだ意識が戻っていないはず。
 「さぁ、紫音。行って。あなたの大事な人が待ってるわよ」
 窓の向こうは闇で覆われていて先が見えなかった。
 でも、闇の向こうから匂う金木犀の甘い香りは私を呼んでいるような気がした。
 「ねぇ、お母さん。お母さんの最期に立ち会えなくてごめんなさい。私、ずっとそのことを後悔してた」
 すると、お母さんは優しく私に微笑んだ。
 「‎いいのよ。普段から紫音には言いたいことは言っていたし、それに今こうやってあなたに会えたもの」
 お母さんの優しさに涙が溢れそうだった。
 「ねぇ、私ね、今度お母さんに紹介したい人がいるの」
 「へぇ、どんな人?」
 「世界で一番かっこいい、私の大好きな人!」
 「そっか。なら楽しみに待ってる。だから今度は二人でゆっくりしてからこっちに来なさいよ」
 「ありがとう。お母さん」
 お母さんはまた、私の頭を撫でた。
 正直、まだお母さんと居たい。
 けど、それ以上に私は蒼唯に会いたかった。
 蒼唯が私を前向きな気持ちにさせてくれたんだ。
 「これも持って行きなさい。大事なものなんでしょう?」
 お母さんは私に白のブレスレットを手渡した。
 「うん。ありがとう!」
 私はそれを右手に着け、窓の外の闇へ金木犀の香りを辿って一歩、また一歩と歩き出した。