あっという間に背中が見えなくなり、(ぼく)は呆気に取られる。

「何だったんだ? もしかして、まだ付き合う段階まで行ってないってこと?」

 半ば助けを求めるような気持ちで隣の彼女に目をやれば、

「桃ちゃんは純情だから、告白なんてできるタマじゃないよ。子どもの頃からずっとすずにべったりだったけど」

 隣の彼女も呆気に取られているのか、先ほどよりもいくらか落ち着いた様子で冷静に返事をしてくれる。その証言からすると、彼は比良坂すずに片想いしているか、あるいは両片想いの状態にあるのかもしれなかった。

「とりあえず、幼馴染ってことか。それじゃあ、キミも?」

「そ。あたしは岩清水(いわしみず)沙耶(さや)。桃ちゃんと三人で、小学校の頃からずっと一緒。高校も同じだし、三日前の事故の時だって直前まで一緒にいたよ。本当に全部忘れちゃったの? ……ていうか」

 彼女——岩清水沙耶はそこで一度切ると、改めてこちらに体を向け、じとっと怪訝な視線を送ってくる。

「あんた、本当にすず?」

 その問いに、どきりとする。
 自分は比良坂すず。そのはずだけれど、感覚的にはそんな自覚は一切ない。

「なーんか怪しいなぁ。まるで別人みたい。実は中身が入れ替わってるんじゃないの?」

「な、なんでそう思うの?」

「なんでも何も、いつものすずと全然違うじゃん。いくら記憶がないからって、ここまで根本的に性格まで変わったりするかなぁ?」

 意外と鋭い。ただテンションが高いだけの女子高生ではなかったのか。

「いつもの(ぼく)って、どんな感じなの?」

「『ぼく』?」

「あ」

 しまった。
 つい無意識のうちに一人称を『ぼく』にしてしまっていた。
 世の女子高生の大半は、自分のことを『ぼく』とは呼ばないだろう。もちろんゼロではないだろうが、その少数派に比良坂すずが入っている可能性は低い。

「すずは自分のことを『ぼく』だなんて言わないよ。何より、すずは根っからのド天然で、彼氏がどうとか付き合うとかそんな話は一切しない。桃ちゃん以上に純真な箱入り娘で、いつもふわふわーってしてて」

 聞けば聞くほど、頼りなさげな女の子に思える。確かに今の疑心暗鬼な自分とは似ても似つかない気がする。

「らしくないよ。本当にどうしちゃったの? 本当に、記憶が混乱してるだけ?」

 記憶の欠如で性格が変わる、というのは、全く無い話ではない気もする。けれど、自身の性別にまで違和感を覚えるのは、さすがに稀なケースなのではないか。

「わからないよ。(ぼく)だって、まだ何も思い出せないんだから……」

 そう言いかけたところで、ふと脳裏を過ったのは、一人の男性の顔だった。まつ毛の長い妖艶な瞳に、左目の下に見える泣きボクロ。
 唯一、彼の顔だけは確かに見覚えがあった。

「そういえば、さっき井澤先生がここへ来たんだ」

「井澤先生?」

 沙耶は不思議そうに小首を傾げる。

「学校の先生だよ。今は担任じゃないって言ってたから、一年の時の担任じゃないかな」

 比良坂すずは現在高校二年生。だとすれば、必然的に井澤先生は去年の担任ということになる。

「なに言ってんの?」

 と、沙耶は不可解そうに眉根を寄せて言った。

「あたしとすずは去年も同じクラスだったけど、担任は白山(しらやま)先生だったよ。井澤なんて、そんな名前の先生は聞いたことないよ」