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 無事に講習会を終えた帰り道で、俺はあの町へ寄ることにした。

 比良坂すずの家がある町。
 ついでに言えば岩清水沙耶と桃城流星も住んでいるあの町だ。

 彼らとはあれから一切連絡を取っていない。
 というより、最初から連絡先さえ交換していなかった。

 美波がいなくなった今、彼らと俺には何の接点もない。
 美波の体は比良坂すずに返還され、今頃はただの一女子高生として日々を過ごしているだろう。
 俺のような大人が割り込むには、彼らの青春は眩しすぎる。

 ちなみに桃城流星が制作したあのショートムービーは、例のコンテストで一次審査も通らなかったようだ。
 公式ホームページに通過作の一覧が載っていたが、そこにそれらしきタイトルは見当たらなかった。

 まあ妥当だろう。
 あれからいくらか修正を加えたとはいえ、どう見ても素人の作品の域を出ていなかった。

 それに内容が内容である。
 有名人でもない平凡な学生の日常を切り取ったホームビデオなど、他人からすれば何の価値もないのである。

 ただ、俺たちにとってはそうじゃない。
 あれだけ大事な思い出が詰まった映像は他にない。

 たった三分程度の、素人が作った出来の悪いショートムービーだけれど。
 あそこに映っていたのは比良坂すずではなく、あきらかに美波だった。

 彼の生きた夏の証が、あの映像に残っている。
 それはコンテストで受賞するよりもずっと、俺たちにとって価値のあるものだった。


 やがて件の街へ入ると、ハンドルを握る手は自然とあの場所を目指していた。

 美波を迎えに、毎朝向かったあの定位置。
 比良坂すずの家の近所にある公園のそば。
 あそこで待っていれば、美波は必ず俺の前に現れた。

 その場所に辿り着いて、俺は車を停めた。
 エンジンを切って外に出ると、生ぬるい風が肌を撫でる。
 すでに西の空は夕焼けの色が濃くなっている。
 もうじき日没だった。

 比良坂すずの家の方を見てみたが、彼女の姿は見当たらない。
 彼女の家族も、それから岩清水沙耶と桃城流星も、今は近くにいる気配がない。

(……何をやってるんだろうな、俺は)

 これではただの不審者だ。
 ストーカー呼ばわりされても否定できない。

 美波はもうここにいないのだ。
 いくら角膜が残っているとはいえ、今ここにいるのは比良坂すずである。
 俺とは何の関係もない、一人の女子高生。
 そんな彼女に接触したところで、ただ困らせてしまうだけだろう。

(帰るか)

 これ以上彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。

 俺は比良坂すずの家に背を向けて、車の方へ一歩踏み出した。

 そのときだった。

 道の先に、一人の少女の姿が見えた。

 下校途中だろうか。
 見覚えのある制服を着ている。
 ついでに言えばその顔も、この上になく既視感があった。

(あれは……)

 比良坂すずだった。

 彼女は夕焼けを背に、愛らしい顔にほんのりと微笑を浮かべて、やわらかそうな髪を揺らしながら歩いてくる。

 まるで示し合わせたかのように姿を現した彼女に、俺は息を呑んだ。

 神様のいたずらか、それとも。

 その場に立ち尽くした俺のもとへ、彼女の足はどんどん近づいてくる。
 やがて俺の目の前まで迫って、そして……何も言わずにその場を通り過ぎていく。

 こちらとすれ違う瞬間も、視線一つ寄越すことはない。

 彼女は俺のことなど何も知らない。
 だから、一点の曇りもない瞳をまっすぐ前に向けたまま、俺の脇をすり抜けていく。

 その横顔を見つめながら、俺は、

「……美波!」

 思わず、その名を呼んでしまっていた。

「えっ?」

 不意に声をかけられた彼女は、不思議そうにこちらを見て足を止めた。

(しまった)

 つい、話しかけてしまった。

 話しかけられずにはいられなかった。

 美波はもう、ここにいないというのに。

 比良坂すずはきょとん、としたまま小首を傾げて、恐る恐るといった様子で尋ねてくる。

「あの……。どこかでお会いしましたっけ?」

「あ、いや」

 今この体に宿るのは比良坂すずであって、美波の記憶は残っていない。
 だから、彼女が俺のことを覚えているはずはない。
 俺たちは一切面識のない、赤の他人なのだ。

 わかっている。
 頭ではわかっているのに。

「俺のこと、覚えてない……よな?」

 つい、期待してしまう。
 彼女の中のどこかに、美波が存在しているのではないかと。

「ええと……」

 比良坂すずは思案するように視線を泳がせ、うーん、と小さく唸っている。
 彼女がいくら記憶をたどったところで、俺のことなど思い出せるはずがないのに。

 彼女を困らせてしまっている。
 それを改めて自覚したとき、俺はやっと我に返った。

 大の大人が一体何をやっているのだろう。

 申し訳なさと不甲斐なさとがないまぜになって、思わず自嘲の笑みが漏れる。

 こんなんじゃ、美波(あいつ)にも笑われてしまう。

「……ごめん。人違いだったみたいだ。急に声をかけて悪かったね」

 このままではリアルに不審者として通報されてしまう。
 さっさと退散してしまおうと再び車の方へ歩み寄った俺の背中に、

「待って」

 と、今度は比良坂すずの方が俺を呼びとめた。

「あの。本当に人違いですか? 私、あなたのことは思い出せないんですけど……なんだか、前にもどこかで、あなたに会ったことがあるような気がするんです」

 その言葉に、心臓が揺さぶられる。

 彼女の中に、何かが残っている。

 体が覚えているのか。
 あるいは右目の角膜がそうさせているのか。

 かすかな希望が胸に芽生えて、そこへ縋りつきたくなる。

(でも……)

 だけど美波は、自分のことを『(わたし)』だなんて言わない。
 本物の美波は、たとえ記憶喪失になっても、自分が男でありたいと思う心を忘れなかった。

 だから、今ここにいる彼女はやはり『比良坂すず』なのだ。

 俺が愛していた、『美波』ではない。

「ごめん。やっぱり人違いだったみたいだ」

 震えそうになる口元に無理やり笑みを浮かべて、俺はそう言った。

「そう、ですか……」

 どこか残念そうにする彼女に背を向けて、それじゃ、と今度こそ車に乗り込む。
 運転席に腰掛けてフロントガラス越しに前を見ると、視線の先で、比良坂すずがぺこりと頭を下げてから、自宅の玄関扉の奥へと消えていった。

 その様子を見届けた途端、ふっと全身から力が抜けて、思わず苦笑が漏れた。

「……俺もいい加減、前に進まなきゃな」

 ハンドルを握って、道の先を見据える。

 美波はもういない。

 けれど、思い出は確かにこの胸の中にある。
 だから俺は、この記憶を抱いて、これからも生きていくのだ。

 他の誰でもない、『美波』のことを愛していたから。
 その思い出を大切にして、これからも生きていく。

「じゃあな、美波」

 秋の夕空に呟いた声は、エンジンの音に紛れて消えていった。



(終)