こちらの声に気づいたのか、母はうっすらと目を開けて僕らの方を見た。
 そうして緩慢な動作で腰を上げると、よたよたと危なっかしい足取りでこちらへ歩み寄ってくる。

「どなた……?」

 見た目通りの弱々しい声で言う。
 半ば呆然としていたらしい凪は、慌てて背筋を伸ばして答えた。

「ご、ご無沙汰してます。あの、俺……美波さんの同級生だった井澤凪です。覚えてますか?」

 彼もどうやら緊張しているらしい。

 母は最初のうちこそぼんやりと首を傾げていたが、やがて思い出したのか、それまで虚ろだった両目を大きく開かせる。

「凪くん?」

 ハッと口元に手を当てた母は、そのまま黙り込んでしまった。
 久しぶり、とか、大きくなったねとか、そういった言葉も頭に浮かばない様子だった。
 嫌な沈黙が流れる中、ちりんと、窓辺の風鈴が鳴る。

 やがて再び口を開いたのは凪の方だった。

「急に訪ねてすみません。まさかこちらにいらっしゃったとは……」

 気まずそうにする彼と同じで、母もぎこちない動作で視線を逸らす。
 と、その瞳が今度は僕の顔を捉えた。

「そちらのお嬢さんは?」

 母と目が合って、僕は息を呑んだ。

 十年前、最後にケンカをした母が目の前にいる。
 凪の話によれば、母はあの日、僕が自殺をしたと思っているらしいのだ。

 あのとき母に浴びせられた言葉で、僕は確かにショックを受けた。
 けれど、そのせいで死のうだなんて思ったわけじゃない。
 僕が死んだのは僕の不注意のせいであり、それを母が自分のせいであると思い込むのは心外である。

「ええと、こちらは……」

 凪は僕のことをどう説明するか迷っていた。
 だから僕は、

「母さん」

 と、自分の声で彼女に語りかけた。

「僕のこと、わかる?」

「え……?」

 母は不可解そうに眉を顰める。

 当たり前の反応だった。
 見知らぬ女子高生が、急に自分を母と呼ぶのだ。
 それも十年前に死んだ実の娘と同じ、自らを『僕』と呼ぶ少女が。

「僕のこと、覚えてる?」

 もう一度そう聞くと、

「な、何なの。あなたは……」

 母は戸惑いと恐怖とが入り混じった目で、僕を見つめていた。
 冗談ならやめてほしいとでも言いたげな、疑いの念がありありと見て取れた。

「別に信じてくれなくてもいいんだけどさ。ただ、伝えておこうと思って」

 僕は正直に言おうと思った。

 別に信じてくれなくてもいい。
 十年前に生きていたときでさえ、僕の思いは母に伝わらなかったのだから。

 ただ、もしもこれが母と会う最後のチャンスだとしたら、せめて自分の言葉で伝えておきたかった。

「十年前のあれは、自殺じゃないから」

 それを口にした瞬間、時が止まったような気がした。

 母はぽかんと口を開けたまま、何の反応も示さなかった。

 僕は構わず続けた。

「僕は死ぬつもりじゃなかった。だから、母さんのせいじゃないから」

 僕の伝えたかったこと。

 十年前の真実。

 それを目の前で打ち明けられた母は、

「……何を言っているの?」

 やけに低い声で、恨みがましい目をこちらに向けて言った。

「十年前って、それは……美波のことを言っているの?」

 みるみるうちに、その顔には怒りの色が満ちていく。
 まるで触れられたくない傷に塩を塗り込まれたような、激しい拒否感を露わにしていく。
 そして、

「勝手なことを言わないでちょうだい!」

 半ばヒステリックに、母は声を荒げた。

「わ、私はあの日、あの子にひどいことを言ったの。……いいえ、あの日だけじゃない。私はずっと、毎日のようにあの子のことを否定して、あの子の心を追い詰めてきたのよ!」

 言いながら、わなわなと震える両手で自分自身の体を抱く。
 その瞳は絶望の色に染まり、目尻からは大粒の涙がぼろぼろと溢れ始める。

「あの事故が自殺じゃなかったなんて……そんなわけがないじゃない!」

 悲痛な叫びが、庭に響き渡る。

 きっとこの十年間、母はこうして苦しみ続けてきたのだろう。

「私は最低な母親なの。だから……あの子が自殺したのは、私のせいなのよ……!」

 十年前の事故が母の心にどれだけの傷を負わせたのか、僕はまざまざと見せつけられた気分だった。

 母は僕の心を追い詰めてしまったと後悔しているようだけれど、むしろ、それによって追い詰められているのは母の方だったのだ。

「母さん、違うよ。十年前のあれは、自殺じゃなかったんだよ」

「あなたに何がわかるの」

 僕が訴えても、母は頑なに耳を傾けようとしない。

「あの子のことを何も知らないくせに。わかったようなことを言わないで!」

 何も知らないくせに——と、一体どの口が言うのか。
 僕は半ば無意識のまま、ぎり、と歯を食いしばっていた。

 わかってないのはどっちだ。

 僕は、それまで胸に押し込んでいた感情を抑えきれず、気づけば声を張り上げていた。

「わかってないのは、母さんの方でしょ!?」

 途端、母はびくりと怯えた目でこちらを見た。
 きっと、こうして言い返されることなんて予想もしていなかったのだろう。

「母さんは結局、何もわかってないんだよ。僕の気持ちなんて、何も」

 あれから十年もの歳月が経っているというのに。

 僕が事故に遭ったあの日からずっと、母は同じ場所から動けないまま、もがき苦しんでいるだけなのだ。

「もちろん、母さんに否定されるのはつらかったよ。僕の性別だとか、好きなものだとか、全部否定されて、わかってもらえないのがすごくつらかった。……でも、母さんの気持ちだってわかるよ。母さんは僕に、『普通の』女の子として、ごく一般的な生活を送ってほしかったんでしょ? この世で生きていくためには、その方がずっと過ごしやすいはずだから」

 周りがそうであるように、女の子は男の子に恋をして、自身を可愛く着飾ってデートする。
 僕もそんな風に生きられたら、きっと今よりも少しは悩みが少なかったはずだ。

「母さんのその気持ちは、僕に対する優しさだったってわかってる。だから……母さんのこと、恨んでなんかないよ。僕は、自殺するつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ」

 そこまで言い切ったとき、母はふらりと体のバランスを崩して、芝生の上に尻餅をついた。見開いた目をこちらに向けたまま、口をぱくぱくとさせている。

「……な、何なの、本当に。ねえ、凪くん。これは一体どういうつもりなの? イタズラなら今すぐやめてちょうだい!」

 尚も母はヒステリックに叫ぶ。

 やはり、僕の言葉は届かないのか。

 たまらず涙が零れそうになるのを、僕は必死で堪えた。
 母の前で最後に見せる顔が、泣き顔になるのは嫌だった。

 僕はもはや居た堪れなくなって、その場から逃げ出すようにして走り出した。

「美波!」

 後ろから凪の声が聞こえたけれど、立ち止まることはしなかった。
 そのまま車の横を通り過ぎて、息が切れるまでがむしゃらに走った。



 やがて桜ヶ丘パークのところまで走ってきたところで、体力の限界がきた。
 比良坂すずの体は華奢で筋力もなく、たった数十メートル走っただけで足が震えてくる。

「大丈夫か?」

 車で追いかけてきた凪が、窓から顔を出して聞いた。

「うん……」

 肩で息をしながら、僕は乱れた呼吸の合間に返事をする。

「僕は……ただ伝えたかっただけだから。自分の口から、母さんに。こうして言葉で伝えておけば、たとえ今はわかってもらえなくても……いつかまた、母さんが今日のことを思い出して、そのときは今度こそわかってくれるかもしれないでしょ? 今の凪みたいにさ」

 凪はあの事故から十年の歳月をかけて、僕の気持ちを確かめにきてくれた。

 なら母だって、いつかは僕の真実を知ろうとする時がくるかもしれない。

 このまま僕の記憶が消えて、いずれ比良坂すずに戻ったとしても。母が今日のことを覚えてさえいれば、いつかはわかってくれる日が来るかもしれない。

 たとえその瞬間を僕が見届けられなかったとしても。
 この思いが母に届く可能性が少しでもあるのなら、それでいい。

「その……ごめんな。俺、何もしてやれなくて」

 凪はいつになく申し訳なさそうな顔で言った。

 一体何を言い出すのかと思った。
 彼にはこれ以上になく世話になっている。
 今日だって、車の送迎だけでも往復で六時間近くかかるというのに。

「俺にできることがあったら何でも言ってくれ。できる限りのことはする。だから遠慮なく言ってほしい。何か、他にしたいことはないか?」

 僕のしたいこと。

 残された時間の中で、今の僕にできること。

 乱れた自分の呼吸音を耳にしながら、ぼんやりと考える。

(そうか)

 大事なことを忘れていた。

 僕はまだ、凪に恩返しをしたことがないのだ。