低い、落ち着いた声だった。
 どことなく耳に心地良い響きだったが、もちろん聞き覚えがあるわけではない。
 フランクに話しかけてきたところを見ると、おそらくは親しい間柄なのだろうけれど。

「その……ごめんなさい。今は、事故のせいで記憶が」

 記憶がないので、あなたのことはわかりません。と、率直に伝えてしまってもいいのだろうか。

 言い方によっては、相手を傷つけてしまうかもしれない。
 特に恋人ともなれば尚更だ。
 そう思うと、何も言えなくなってしまう。

 そのまま黙り込んでしまった(ぼく)の方へ、男性は静かに歩み寄ってくる。
 カーテンの向こうから現れた彼の全身を改めて見上げると、その姿は思ったよりも年齢が上のようだった。

 およそ高校生には見えない。大学生、というよりは、新社会人といった風貌だった。
 おそらくは二十代の前半から半ばほど。清潔感のある黒髪に、白いワイシャツとダークグレーのスラックスというラフな出立ちだ。

「記憶喪失になったって聞いたけど、本当だったんだな」

 男性は形の良い目を細めて、神妙な面持ちでこちらを見下ろす。
 まつ毛の長い、どこか妖艶な眼差し。その左目の下には泣きボクロがある。

(泣きボクロ……)

 ふと、そのホクロに見覚えがあるような気がした。
 はっきりとは思い出せないけれど、ぼんやりとした既視感が脳裏を掠める。

「あの。あなたは、(ぼく)とどういう関係なんでしょうか」

 この人のことを何か思い出せるかもしれない。
 初めて得た感触に、自然と期待感が高まる。

「俺は、キミの通う学校の教師だよ。今は担任じゃないけど、前に受け持ったことがあったから」

「教師?」

 オウム返しに呟きながら、その事実を頭の中で咀嚼(そしゃく)する。

「教師……。そっか。それで見覚えがあったんだ」

「え。何か思い出したのか?」

「あ、いや。なんとなく見覚えがある気がしただけで。具体的なことは何も思い出せないんですけど」

 まさか両親よりも先に、学校の教師のことを思い出しかけるとは。

 いや。もしかしたら、この男性教師には過去に特別世話になったのかもしれない。さすがに恋人同士という間柄ではないだろうけれど。

「比良坂さーん。ちょっと失礼しますねー」

 と、そこへ今度は別の声が届く。
 サバサバとした女性の声。
 こちらの返事を待たずに、彼女は問答無用でカーテンを開けた。

「あら! ごめんなさい。取り込み中だった?」

 カーテンの向こうから現れた看護師の女性は、しまった、という仕草で口元に手を当てた。

「ああ、いえ。大丈夫です。もう帰るところでしたので」

 男性教師はそう言うと、どことなく慌てた様子でベッドから離れる。

「それじゃあ、俺はもう行くから。ゆっくり休めよ」

「えっ。もう行っちゃうんですか?」

 せっかく何かを思い出しかけているのに。
 それに、まだ大事なことを聞けていない。

「待って。あの。……先生の、名前は?」

 名前を聞けば、少しは何かを思い出せるかもしれないと思った。

井澤(いざわ)だよ。井澤(いざわ)(なぎ)

「井澤……先生」

 懐かしい響き、のような気がする。
 彼は看護師の女性に軽く会釈すると、そそくさと病室を出ていった。