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 見ず知らずの怪しい人間にのこのこついていくなんて、冷静に考えれば馬鹿げている。

 けれど、今の(ぼく)にとって『直感』というものは無視できない重要なものだった。

 あの人についていけば、何か大事なことを思い出せるかもしれない——そう感じる心のどこかに、『本当の自分』がいるような気がしたから。



 翌日の早朝。
 まだ両親が寝ている間に、(ぼく)は自宅を抜け出した。

 行き先は告げていないが、朝から出掛ける旨だけは昨日のうちに伝えている。
 きっと沙耶たちとどこかへ遊びに行くとでも解釈しているだろう。

 服装は、できるだけ動きやすいものにした。
 間違っても昨日のような丈の長いスカートは穿かない。
 比良坂すずの私服の中で最も中性的なものを、と探したが、明るい色のシャツにショートパンツというのが限界だった。

 始発電車に乗り、病院の最寄駅で降りる。
 街の中はまだ全体的に準備中といったところで、人通りは少なかった。
 それでも太陽はすでに顔を見せている。
 夏の朝はとても早い。

 病院の目の前までやってくると、約束通り、井澤先生がそこに立っていた。
 いつものラフなワイシャツとスラックス姿で、すぐ隣には何やら高そうな外車を停めている。
 どうやら今日は車で移動するらしい。

「やあ。来たな」

 彼は軽く片手を上げて言った。
 まるで(ぼく)がここへ来るのは当たり前だったかのような反応だった。

「おはようございます。井澤先生」

「ふふ。『先生』はもういいよ。教師というのは嘘だったって言っただろ?」

「井澤という名前は、本物なんですか?」

「ああ」

 彼はあらかじめ用意していたらしい名刺を胸ポケットから取り出して、こちらに差し出す。
 (ぼく)はそれを受け取って、この名刺は果たして本物なのだろうかと疑いながら目を通す。

 白い紙の表面には、確かに『井澤凪』という名前が黒々と印字されていた。
 そしてその隣に添えられている肩書きは、

「え。あなた、医者なんですか?」

 名刺には、どこかの病院の名前が記されていた。

「まだ研修医で、ついでに非常勤だけどな。うちの祖父が院長を務めてるから、俺も無理やり勤務させられてるだけ。医者として期待されてるのは俺の兄貴の方だから」

 (ぼく)は改めて名刺をまじまじと眺める。
 右下の方に、小さい字で病院の住所が書かれている。

 M県、氷張(ひばり)市。

 その地名に、どことなく聞き覚えがあるような気がした。

「氷張市……。って、ここから遠いんですか?」

「そうだな。車で三時間弱ってところか。たぶん、比良坂すずにとっては縁もゆかりもない土地なんじゃないか? 結構な田舎だし、よっぽどの理由がないとまず訪れない場所だと思うけど」

「でも(ぼく)、この地名に覚えがある気がするんです」

「まあ、そうだろうな」

 彼はそう言って、ふっと小さく笑った。

「それで、キミは俺と一緒に来るのか?」

 改めて聞かれて、(ぼく)は彼の顔をまっすぐに見上げて答える。

「もちろんです。そのために今日はここへ来ましたから」

「わかった。じゃ、助手席に乗ってくれ」

 促されるまま、車の右側へ移動する。
 そうして扉に手をかけようとしたとき、

「待てぇ————いっ!!」

 と、ひどく聞き覚えのある声が届いた。