彼は返事をする代わりに、ふっと息を吐くようにして笑った。
そして、
「知りたいか?」
改めて、こちらに尋ねる。
「キミが望むなら、俺は俺の知っていることを全てキミに伝えよう。けれど、後悔するかもしれないぞ。それでも知りたいのか?」
「……そんなの」
後悔するかもしれない、なんて言われても、どうすればいいのかわからない。
そもそもこちらには判断材料がないのだ。
過去のことを何も思い出せない以上、『知りたい』という欲求以外に背中を押すものはない。
「知りたいに決まってるじゃないですか。自分が誰だかわからないなんて、こんな気持ち悪い状態はなかなかないですよ。私が比良坂すずじゃないというなら、私は、一体誰なんですか?」
井澤先生はスラックスの尻ポケットからスマホを取り出すと、軽く操作してから画面をこちらに見せる。
「この場所に見覚えは?」
彼がそう言って示したのは、一枚の風景写真だった。
どこかの川を撮ったものだ。
青々とした山をバックに、穏やかに流れる川の上を細い橋が横切っている。
橋はかなり簡素なもので、手すりすらない。
「ここは……」
どう見ても田舎の風景だった。
およそこの病院から見える景色とは似ても似つかない。
どこかの山間部にある川原だろうか。
おそらくはここから離れた場所。
であるはずなのに、なぜか、うっすらと見覚えがあるような気がする。
「この橋、なんだか知っているような気がする。ここは、どこなんですか? なんで私、ここに見覚えが——」
「この場所に行きたいか?」
再び質問が飛んできて、思わず顔を上げた。
すると、目の前に立つ彼はどこか寂しげな瞳でこちらを見下ろしていた。
「明後日になったら、俺はこの場所に向かう。もしキミが一緒に行きたいというなら、連れていってもいい。当日の朝に、この病院の前で待ってるから」
彼はそれだけ言うと、さっさとスマホを仕舞って踵を返す。
今はこれ以上話せないということだろうか。
「ま、待って。どうしてそんな回りくどいことをするんですか。どうせ教えてくれるつもりなら、今ここで話してくれたって」
「キミはまだ何も思い出せていないんだろう? もしかしたら、『本当のキミ』は思い出すのを嫌がっているかもしれないじゃないか」
私が、思い出すのを嫌がる?
あるのだろうか。そんなことが。
「キミが心の底から記憶を取り戻したいと思っているのなら、きっとあの街へ行けば自ずと思い出すだろう。明日一日、どうするか考えてくれ。明後日の朝六時に、俺はここを出発する」
それじゃ、と軽く手を振って、彼は病棟の角を曲がっていった。
その場に一人残された私は、それまで無意識のうちに張り詰めていた気持ちを解く。
じんわりと熱気を含んだ風が肌を撫でる。
夕焼け色に染まった空のどこかで、ヒグラシの声が響いていた。