井澤先生、かもしれない。
 遠くてはっきりとは確認できないけれど、確かな予感が胸に芽生える。
 彼はしばらくこちらと目を合わせていたが、やがてふいと顔を背けたかと思うと、そのままどこかへと歩き去っていく。

「まっ……待って!」

 (ぼく)は慌てて病室を飛び出し、彼の後を追った。
 これが最後のチャンスかもしれない。
 彼は一体何者なのか。
 なぜ(ぼく)のことを知っていて、(ぼく)も彼のことだけは見覚えがあったのか。それを確かめたい。

「廊下は走らないでね!」

 どこからか看護師の注意する声が聞こえたが、従う余裕はなかった。入院生活で鈍った足を必死で動かし、息を切らしながら、室内用のスリッパのまま外へ出る。
 そうしてやっと先ほど彼の立っていた場所まで辿り着いたものの、すでにそこには誰もいなかった。
 病院の裏手。コンクリートで囲まれた殺風景な狭い空間。こんな場所を人が通ることなんて滅多にないだろう。

(もしかして、見間違いだったのか?)

 乱れた自分の息遣いと、街の喧騒が遠くに聞こえる。誰もいない。まるで自分だけが世界から取り残されたような気がして、急に心細くなった。
 と、不意に肩のあたりに何かが触れて、(ぼく)は飛び上がった。

「わっ!?」

「あ、ごめん。驚かせちゃったな」

 聞き覚えのある声。
 振り返って見ると、そこにはいつのまにか、待ち望んだ彼の姿があった。

「井澤……先生?」

 清潔感のある黒髪に、まつ毛の長い妖艶な瞳。その左目の下には泣きボクロがある。
 彼は先日と似たラフな格好で、ぎこちない微笑を浮かべていた。何か言いたげな様子にも見えたが、こちらが話し出すのを無言で待っている。

「あ、あなたは一体誰なんですか? 学校の教師だっていうのは嘘ですよね」

「そうだな。あのときは、咄嗟に嘘を吐いて悪かったよ」

 どうやら隠す気もないらしい。しかし自分が何者であるのかは語ろうとしない。

「あなたは、(ぼく)とどういう関係なんですか? (ぼく)が記憶を失う以前にも会ったことがあるんですよね?」

「うーん……。会ったことがあると言えばあるし、ないとも言える、かな」

「は?」

 曖昧(あいまい)なことを口走る彼に、(ぼく)はつい怪訝な声を漏らす。

「どういう意味ですか、それ。会ったことがあるかどうか、答えは明確なはずでしょう」

「キミが『比良坂すず』であるなら、会ったことはないよ。でも、今のキミは()()()()()()だろう?」

 含みのある言い方に、思わず身構える。
 今の(ぼく)は、『比良坂すず』ではない。
 その発言からすると、彼はおそらく『(ぼく)』の正体を知っている。

「あなたは何か知っているんですか? (ぼく)のことを。どうして性別に違和感があるのかも、全部」