意識が戻って最初に感じ取ったのは、濃い消毒液のにおいだった。

 病院か、あるいは学校の保健室か。
 そういった場所でしか嗅いだことのない、強いアルコールのにおい。

 ゆるゆると(まぶた)を上げてみると、視線の先には真っ白な天井が見えた。
 無機質で清潔感のあるそれは、その場所がやはり病院か何かの一室であることを物語っている。

「ああ、比良坂(ひらさか)さん。気がつきましたか」

 不意にそんな声が聞こえて、ぼんやりとしたまま目だけを動かしてみると、右の方から誰かが近寄ってくるのがわかった。

 白衣に身を包んだ、看護師らしき女性だった。
 どことなく緊張した面持ちで、脇の手すりから身を乗り出し、こちらの顔を覗き込んでくる。

 自分はどうやらベッドに寝かされているようで、やわらかな布団に身を預けたまま、力なく彼女を見上げた。

「ご気分はいかがですか? どこか痛んだりしますか? ご自分のお名前はわかりますか?」

 矢継ぎ早に質問を投げかけられて、まず何から答えればいいのかわからなかった。
 未だ判然としない頭をなんとか働かせ、一つずつ返答を探していく。

 ご気分は、——それほど悪くはない。
 どこか痛んだり、——も、特にはない。
 けれど、

「名前……?」

 はた、と気づく。
 自分の名前が、とんと思い出せない。

「お名前、わかりませんか?」

 女性はわずかに声のトーンを落とし、慎重に確認する。

 彼女はつい先ほど、こちらを見て『比良坂さん』と言っていたはずだ。
 ということは、それがおそらくは自分の名前なのだろう。

 自分は、比良坂。
 比良坂なにがし。
 そのはずなのに、どうもしっくりこない感じがする。

「比良坂さん。比良坂すずさん、ですよ。思い出せませんか?」

「すず?」

 比良坂すず。
 やけに愛らしい名前だな、と思った。
 けれどそんなことよりも、

「僕は、男じゃないんですか?」

 こちらが最も疑問に感じたことを口にすると、途端に女性は困惑の色を露わにした。
 その反応から、自分が何か見当違いのことを口走ってしまったのだと理解する。

(僕は……男じゃ、ない?)

 すずという名前は、基本的には女性に対して付けられるものだ。
 ならば必然的に、自分は女性ということになる。

 けれど、そんな自覚は一切なかった。

 そもそも、自分に関する情報が何一つ思い出せない。
 自分の顔も、年齢も。
 何も覚えていない。

 なのになぜか、違和感だけが確かにある。

 自分は、本当に女だっただろうか。
 声は、こんなにも高かっただろうか。
 腕は、こんなにも白かっただろうか。

「僕は」

 仰向けのまま、右手をそっと胸元へ当ててみる。
 するとそこには、病衣の布越しに、ささやかな膨らみが感じられた。

「僕は、女……なんですね」

 その事実が、なぜだか酷く悲しかった。