恋の隔たりは、三年が相場だと決まっている。
 交際してから三年経つと、破局を迎える恋人たちというのは実に多いらしい。
 僕と彼女の年の差もちょうど三年で、だからという訳ではないけど。せめてあと一年。
 あと一年早く生まれてきたなら、貴女の背中に追いつけたのかもしれないと、そんなふうには思う。

 *
 
 愛用しているライトブルーのトートバッグに、必要な荷物を詰め込んでいく。大学入試の過去問、参考書、ノート、筆箱、スマホ、財布、キーケース、ミネラルウォーター。
 重みを増したバッグを肩にかけたら、姿見で身だしなみを確認する。
 自室の扉を開くと、最悪にも、ちょうど隣室から出てきた弟と対面した。
 チッ、とあからさまな舌打ちをされる。
 僕は彼が洗面台に向かうのを横目に、平然を装いながら階段を下る。
 弟は二個下の中三で、つまりは受験生だ。主に母さんから過剰な期待を押しつけられていて、有名な進学校に合格するために、家にいる間はずっと机に向かっている。
 ストレスが溜まっているのか、最近はやたら僕に当たってくるようになってしんどい。
 この間なんか夕食の席で、自分はお前みたいな落ちこぼれにはならないだのなんのと悪態をつかれた。母さんまで「あなたは景みたいになっちゃだめよ」と深刻な表情で加担する始末だった。
 受験生がいる家庭特有のピリついた空気が苦しくて、夏休み初日にもかかわらず、僕はいつものように外出を決意したのだ。
 白のスニーカーを履き、玄関ドアを押し開けると、途端にむっとした熱気に包まれる。鋭い日差しが痛いくらいに肌を刺して、年々厳しくなる夏の暑さにうんざりする。
 僕は肩からトートバッグを外し、車庫に停めてあるクロスバイクの荷台に置いて、ロープでぐるぐると固定した。
 キーを挿し込み、手押しで道路の方に運んでから、サドルに跨がってペダルを踏む。車輪が回転し、前進する。景色が緩やかな速度で後方に流れていく。額から幾度も汗が伝って、それをシャツの袖で拭う。
 ほどなくして、目的地である高架下の河原に辿り着いた。
 地元の図書館に寄るという手もあるけど、前に一度、同級生にばったり出会してしまったのをきっかけに、候補から外している。
 適当にそこらでバイクを停めて、僕は高架下の影に入った。直射日光を避けられるだけで、ずいぶんと暑さがマシになるような気がした。
 僕は一人きり、河原の石段に腰を下ろして、目の前に広がる川の流れを見つめる。高架の影が切れた遠くの水面が、日を浴びてキラキラと光っている。
 思いだすのは奈津ちゃんのことだった。
 僕がこの場所に執着し続けるのは、彼女と過ごした日々の記憶が愛しいからに他ならない。
 奈津ちゃんは、優しくて気の強い女の子だ。家が近所で幼い頃によく遊んでもらっていた。
 一際記憶に残っているのは、小二の夏のある日のこと。気弱な僕はクラス内で浮いていて、下校中に同級生からの悪意に襲われていた。
 ありふれた嫌がらせだった。同じクラスのいかにも意地の悪そうな集団に、通学路から外れた川橋の袂に連れて行かれた。
 ちょうど、今僕の真上に架かっているこの橋だ。
 「おい、飛べよ」
 集団のなかの一人の男子が言った。
 その一言は瞬く間に伝播して、次第にかけ声は大きさを増していった。
 「飛ーべ! 飛ーべ!」
 彼らは言いながら、声に合わせて手拍子を始める。
 僕は大人しく、背負っていたランドセルを下ろした。欄干に近付いていって、柱の間から川面を覗く。
 浅瀬だった。透き通った水は川底を透けさせ、ごつごつした岩らしきものが窺えた。ところどころに、ビニール袋やペットボトルなどのゴミが浮いている。
 僕は小さな体で欄干をよじ登る。取り巻くかけ声は止まない。隙間に足をかけながら、これは死んじゃうのかな、と他人事みたいに思った。
 僕は支柱を支えに両足を乗せて、いよいよ向こう側に飛ぼうとした。
 「ちょっと、なにしてんの!」
 その時、怒号が響いた。
 気がつけば僕は、後方に体を引かれて盛大に尻もちをついていた。咄嗟に伸ばした手のひらが、熱いアスファルトに面して焼けた。
 顔を上げる。
 晴天の青空を背景に、見知った顔があった。
 奈津ちゃんだった。すごい剣幕だ。普段の柔和な顔つきからは想像できないくらい凄まじいものがそこにあった。
 女子の成長は早いから、五学年である彼女は僕らなんかより体つきがしっかりしていて、とてもたくましく見えた。
 奈津ちゃんは彼らをキッと睨みつけて威圧する。
 「あんたたちさ、こんなの立派な犯罪だよ!」
 犯罪という言葉に、彼らは身を竦ませる。急に怯えた様子で、よく分からない小言を漏らし始める。
 僕は奈津ちゃんが着ているチュニックの裾を引っ張って、懇願するみたいに口を開いた。
 「ねえ、なつちゃん。ぼくは大丈夫だよ」
 「大丈夫ってなにが? 傷つくのに慣れることを大丈夫って言うの?」
 彼女の怒りの矛先は、たちまち僕に向けられた。
 どこからかずっと蝉の鳴き声がしていて、耳を劈くようなそれが煩かった。
 奈津ちゃんの背後で、彼らが一斉に逃げだす。
 そうして、住宅街から離れた閑静な橋の上に、僕たちだけが取り残される。
 「そうやってなんでも諦める癖がついちゃうとさ、いつか死にたくなるよ。それで、きっと後悔するんだよ」
 奈津ちゃんがそっと呟く。
 独り言みたいな口調だった。
 でも、その言葉が僕に対して向けらているということは、よく分かっていた。
 「後悔って?」
 「例えば、私と一緒にいられなくなる」
 「それは嫌だ」
 素直な気持ちが口をつく。
 「でしょ? だから、簡単に自分を諦めないこと」
 そう言って、奈津ちゃんは僕の頭を撫でた。
 いつだって僕の心を見透かしたみたいに、欲しい言葉だけをくれる彼女のことを、ずっと好意的に思ってきたけど。
 この瞬間、それは特別になった。
 奈津ちゃんと一緒にいたいがために、僕は死なずにいられる。どんなに辛い現実を目の前にしても、生きたいと思える。
 
 *

 川のせせらぎが耳に触れている。
 こうして河原の風景を眺める度、僕は奈津ちゃんを鮮明に思う。例えば、自信に満ちた笑顔とか、大人びた言葉遣いとか、真っ直ぐに伸びた背筋とか、そういったことを思う。
 小学校の卒業に合わせて、彼女はいなくなった。父親の転勤の関係で、上京してしまったのだ。現在は都内の大学に通っているらしいと、風の噂に聞いた。
 彼女と会えなくなってから約七年、片時も忘れたことはないし、何なら忘れられないし。他に目移りするなんてのは以ての外で、あの日僕にくれた「自分を諦めない」という言葉は、今だって人生の指針になっている。
 別に、彼女の住居が離れた地に移動したからって、会えないことはないんだろうけど。会おうと努力すれば、方法はいくらだってあるんだろうけど。
 それでも、会いに行く言い訳が見つからない。彼女に対する想いは執着みたいで、ストーカーじみていると受け取られたって文句のつけようもない。
 僕はため息を吐く。未だに初恋の女の子に縋っている自分は、もしかすると異常なのかもしれないと思って。
 過去の記憶を追い払うように首を振る。熱気に、額から汗が滲んだ。
 喉の渇きを覚えた僕は、トートバッグからミネラルウォーターを手にした。すでに生温くなった水を容器の三分の一ほど飲む。
 次に、持参してきた参考書を取りだす。物思いにふけるのはやめにして、目的の勉強を少しでも進めたい。ページをめくって、事前にマーカーを付けておいた箇所を順繰りに注視する。
 来年に迫る受験の対策。僕は身の丈に合わない大学を志望していて、現状の学力では合格ラインに届いていない。進路相談でも、担任に渋い顔をされたほどだ。
 でも、これが最後のチャンスだから。
 諦めたくない。
 たった一年だけでも、彼女と同じキャンパスに通うために。

 過去問を解こうとして、序盤で躓く。基礎ができていないのかもしれない。自分の不出来さに落胆しながら、参考書の例題に目を通す。
 それにしても暑い。
 時刻は正午に差しかかろうとしている。
 お金がもったいないけど、せめて日が暮れるまで、どこかカフェにでも入ろうか。
 「景くん!」
 突然、誰かに名前を呼ばれた。
 声のする方に顔を上げると、知らない女の人がいた。
 遠目から見ても分かるほど、綺麗な容姿をしている。緑ばかりの田舎の風景に、彼女は何だか馴染まない。
 僕は半ば呆然として、駆け寄ってくる彼女の姿を眺める。
 柔らかそうなブラウンベージュの髪に、印象的なヘーゼルの瞳。服装は白のブラウスにイエローのタックパンツ。足もとは鮮やかなグリーンのパンプス。
 こちらの名前を知っていて、親しげに近寄ってくるからには面識があるはずで、僕は彼女の容姿と過去の記憶とを照らし合わせてみる。
 ただでさえコミュニティに所属してこなかった僕だから、相手が年上の異性となれば、思い当たるのは一人しかいない。
 彼女は僕の目の前で足を止めた。
 息を切らしているけど、透き通った肌はどこまでも涼やかで、汗一つかいていないように見える。
 「もしかして、奈津ちゃ…奈津さん、ですか?」
 目の前の彼女と記憶のなかの奈津ちゃんが結びつかなくて、気軽に奈津ちゃん、とは呼べなかった。
 彼女は満足そうに頷くと、当たり前のように僕の隣で膝を折って屈む。
 「良かった。君が私を忘れられるはずがないから」
 ずいぶん確信的な物言いだ。
 奈津さんは口角をきゅっと上げて、魅力的な笑みを浮かべる。その自信に満ちた表情だけが、昔の彼女を思わせる。
 「なんで?」
 問い質したいことはいくつもあって、でも上手く言葉にはならなくて、咄嗟に疑問詞だけが口から零れる。
 「だって、君は私を好きだったでしょ?」
 奈津さんは膝の上を軸に頬杖をついて、小首を傾げた。口もとにはやはり綺麗な微笑をたたえている。
 たぶん、「忘れられるはずがない」という自身の言葉に対しての理由だろう。
 ずっと、見透かされていたんだ。
 その事実に顔が熱くなって恥ずかしいのに、どうしてか彼女から目が離せない。
 「今でも私のことは好き?」
 続けて、奈津さんが僕に問う。
 「はい」
 喉奥から絞りだすように答えると、彼女は目を細めてはにかんだ。
 「良かった。あの夏の日のことは覚えてるかな? 君は同級生に揶揄されて、本当に橋の上から飛び降りようとしてた。あの時からずっと君が心配で、忘れられなくてさ。今更だけど、会いに来ちゃった。この辺ずいぶん探したんだよ」
 「本当ですか?」
 「うん。私も景くんが好きだよ。今までも、この先も」
 一体何が起きてるんだろう。
 急展開に頭が追いつかなくて、混乱する。長年思い焦がれた彼女は隣にいて、僕を好きだと言ってくれて、そんな嘘みたいな現実が信じられない。
 「ところで、君はなにしてたの?」
 奈津さんが僕の手もとの参考書を覗く。
 「こんなところで勉強?」
 「家には居づらくて」
 「居心地悪いんだ?」
 「はい。それに」
 「それに?」
 僕は心を落ち着けるように息を吸った。
 「貴女と同じ大学に行きたいから」
 想いが通じあった今、この告白に彼女は喜んでくれるだろうという淡い期待があった。
 それなのに、奈津さんは何だか傷ついたような顔をしていた。
 「意味ないよ、そんなの」
 奈津さんは僕の手から強引に参考書を取り上げて、立ち上がり、そのまま向かいの川に放り投げた。バシャ、と音が鳴って水飛沫が跳ねる。
 「どうせ君には無理だよ」
 追い討ちをかけるように彼女が呟く。
 その姿が、一瞬周りの人たちに重なる。母や弟や担任教師に言われているような錯覚に陥る。
 僕は何が何だか分からないまま、川べりに駆けた。水面を揺蕩う書籍は、当然使い物にならないだろう。ぐっしょりとしたそれを拾い上げると、印刷の文字が滲んでいた。
 「私ならここにいるじゃない。私が欲しいだけなら、頑張る必要なんかないよ」
 「でも、ずっとここにいるわけじゃないでしょう?」
 大学のことはよく分からないけど、彼女は一時的に地元へ帰ってきたに過ぎないんだろう。
 「いるよ」
 奈津さんはあっさり言い切った。
 彼女は石段の上に佇んだままだから、ずぶ濡れの本を片手に川べりに立っている僕からすると、見下ろされるかたちになっていた。
 「ずっと、景くんの隣にいてあげるから」
 彼女が続けて言う。
 僕にはもったいないような、好きな人からの甘やかな言葉に、素直に喜べない自分がいた。
 「私、気がついたんだよね。君の隣にいた時はいつも心が軽かったなって。だから、私のこと幸せにしてくれる?」
 断る理由はなかった。
 でも。
 じゃあ、どうして彼女はそんなに悲しそうな顔をするんだろう。
 「それは、本心ですか?」
 「まさか私を疑うの?」
 「疑ってるとかそういうんじゃないですけど……」
 「じゃあなに?」
 奈津さんが睨むみたいに僕を見下ろす。
 怒りに満ちた声音には、やはり隠しきれない悲痛が滲んでいるように思う。
 何が心に引っかかっているんだろう。
 僕は彼女にどうしてほしいんだろう。
 ほんの一瞬だけ思考して、辿り着いた答えはひどく単純だった。
 「僕は、今の貴女を知りたいです」

 *

 とりあえず場所を移そうという話になって、僕たちはモールの最上階にあるレストラン街に来ていた。ちなみにあの河原からここまで来るのに、川沿いを歩いたり電車に揺られたりで、一時間ほどかかっている。
 道中、奈津さんは僕に「景くんはあの頃のままだね」と言った。
 それの意味するところが分からなくて、「そうです?」と尋ねると、彼女は顔をくしゃっと歪めた。感情の起伏を押さえつけるみたいな表情に見えた。
 奈津さんの提案で、僕たちは少し価格帯の高そうなイタリアンの店に入った。
 店内は意外にも空いていて、すぐに奥まった席へと案内される。彼女を向かいのソファ席に促し、僕は手前の椅子を引いて座った。
 メニュー表を開くと、写真はなく淡々と見慣れない料理名だけが並んでいて、その隣にはそれなりの値段が記載されていた。
 料金のことは気にしなくていい、と奈津さんは言うけど、何だか申し訳ない気持ちになる。
 僕はシェフおすすめの季節のパスタとジンジャーエールを頼み、彼女は明太クリームパスタとスパークリングワインを頼んだ。一緒に飲まないのかと誘われたけど、僕は断った。飲み物一つに、彼女との距離を感じてしまうのが寂しいと思った。
 「さっきの話の続きだけどね、君から見て、やっぱり私は変わったのかな?」
 頼んだ料理がテーブルに運ばれてくる。
 奈津さんはフォークでパスタを丁寧に巻いた。爪に塗られたマニキュアが塗装中の壁みたいに剥がれていた。
 「変わったように見えます」
 「どの辺が?」
 「外見もまあそうですけど。なんていうか、昔の貴女はもっと余裕がありました。いつだって自信に満ちていて、正しさの象徴みたいだった」
 彼女はフォークを口に運んで、ゆっくりと咀嚼した。そして何を思ったのか、テーブルの脇に置かれた調味料のケースからペパーソースを取って、それを盛大に振りかけた。
 毒々しい朱色の液体が飛び散って、パスタの表面を埋め尽くす。これじゃあ本来の味が分からなくなりそうだ。
 「子どもっていうのは大体みんなそういうものなんじゃないの? 特別なのはむしろ君の方だった。君は幼い時から他人の心情ばかりを伺って、周りに合わせて動くことに命をかけるみたいな馬鹿な生き方をしていた」
 「僕は変わるべきですか?」
 「ううん。そんな君だから好きだよ」
 奈津さんがワインを勢いよく飲む。
 「私、アルコール駄目なんだ」と彼女は言って、さらに呷った。
 僕もジンジャーエールを一口飲んで、ようやく核心に触れた質問をする。
 「奈津さんが僕を探していたという言い分を一旦信じるとして、ずっとここにいるなんてのは嘘でしょう? そもそもあまりに急だし、なにがあったんです? 教えてください」
 「まったく疑り深いんだなあ、君は」
 奈津さんは一杯目を飲み干して、通りかかった店員に再び同じワインを注文している。その頬は微かに紅潮し、露出した部分の腕がまだらに赤くなっている。
 「いつまでになるかは分からないけど、しばらくここで落ち着こうと思ってるのは本当。辞めちゃったんだ、大学。中退したの」
 彼女は言いながら、自嘲的に笑う。
 「理由を聞いてもいいですか」
 僕は驚きを隠せないまま、遠慮気味に尋ねた。
 「なにもかもに疲れちゃって。私、自分がこんなに駄目な人間だって知らなかったから。もっと上手く生きれるつもりだったから」
 奈津さんはそこで一息置いて、さっき注いでもらった二杯目のワインを自傷するみたいに呷った。
 「君は知らないだろうけどさ、朝早くに起きて、顔を洗って、出かける準備をして、そういう当たり前ってすごく苦痛なことだよ。ねえ、景くん。生きてるだけで心はすり減っていくし、大事なものは損なわれていく。それは取り返しのつかないことなんだって、君はちゃんと分かってるの?」
 口を開く度、彼女の声は湿りを帯び、瞳は涙に濡れていった。
 僕は何も言えないまま、言い訳するみたいにパスタを咀嚼した。奈津さんも血まみれのようなパスタを口の中に詰め込んでいた。
 「要するに、貴女は僕に助けを求めているんですね?」
 一通り食べ終えた後、僕はそう切りだした。
 奈津さんは三杯目のワインを飲んでいた。
 「貴女は僕自身が好きなわけじゃなくて、貴方を好きでいる僕が好きなんでしょう?」
 「うん、そうかもね」
 呆気ないほど簡単に彼女は頷く。
 伏せられた目に、もう涙は溜まっていなかった。

 *

 「昼間から飲みすぎなんですよ」
 僕は不平を零しながら、寂れた駅のホームで奈津さんに付き添っている。
 レストランで会計を済ませて早々に帰ろうという流れになったはいいものの、電車待ちの間に突然、彼女はホームの端で蹲った。
 華奢な腕は依然真っ赤になっていて、触れると熱かった。
 僕は自販機でスポーツドリンクを購入し、彼女に手渡した。
 「ねえ、帰りたい」
 「すぐ帰れますよ」
 奈津さんは今、母方の祖母の家に泊まっているようで、僕の最寄りと二駅しか違わないそうだから、送っていくつもりだ。
 「家に着いたら、もう君に会えなくなるのかな?」
 「なんでですか?」
 「今の私を知って幻滅したんでしょ?」
 「してませんよ」
 幼い頃憧れた彼女は、今ではひどく弱りきっていて。でも、そんなことが、嫌う理由になるわけもない。
 僕は奈津さんが落ち着くまで、辛抱強く待っていた。屋内の涼しいところに移動したかったけど、彼女はそれを頑固として拒んだ。結局、売店で日傘を買ってきて、簡易的な日陰をつくった。
 時折向けられる、周りの視線が痛い。
 三十分が経過した頃、奈津さんはおもむろに立ち上がった。
 「大丈夫ですか?」
 「うん」
 確かに肌の赤みは引いていた。
 僕たちはそのまま到着した列車に乗り込み、帰路に着いた。

 奈津さんの最寄り駅から祖母の家までは、そんなに長い距離じゃなかった。
 およそ十分ほど住宅街のなかを進んだ後、「ここまででいい」と彼女は言った。この辺から道が狭くなり、込み入ってくるからということだった。
 連絡先の交換を提案すると、奈津さんは驚いたように目を丸くした。
 「そんなに意外ですか?」
 「うん。やっぱり君も変わったのかもね」
 「変わってませんよ。だって僕は、未だに貴女を引きずってるんですよ」
 不思議だ。彼女を前にしていると、僕はいつもより自然体でいられる。心が軽いようで、たまに重いようで、そんな矛盾が愛おしいと思う。
 「また会ってくれるかな?」
 「はい。いつでも」

 奈津さんと別れた後、僕は来た道を一人で戻り、途中で目についた小さな本屋に入った。個人でやっている小規模な書店だった。
 それでも時間は余って、チェーン店のカフェに入り、コーヒーを一杯で三時間粘った。
 そうして自宅に辿り着く頃には二十時を過ぎていた。
 玄関を抜けて、リビングを隔てる扉に手をかけた時、向こう側から喧騒が聞こえた。両親が言い争っている声だった。どうやら久しぶりに父さんが帰ってきているらしい。
 母さんの甲高い怒鳴り声を耳にした瞬間、僕は全部がどうでもよくなった。
 弟は自室で勉強に励んでいるだろうか。「俺はね、頑張って勉強して、こんな家早く出て行くんだ」といつの日か彼は語っていた。
 僕は後ずさって、そっと玄関から外に出た。
 夏の夜は蒸し暑いけど、昼間に比べればずっと涼しい。
 自転車に跨って、ゆっくりとペダルを漕ぐ。
 目的地はあの河原だ。他に行く当てが思いつかなかった。

 お気に入りの石段には先客がいた。家族みんなで仲睦まじく手持ち花火をしていた。兄弟なんだろう。小さな男の子と女の子が楽しそうに火花が散る様を眺めている。
 それで、いよいよ僕はやるせなくなった。
 急に奈津さんが恋しいと思った。
 僕は少し躊躇ってから、彼女の番号に電話をかけた。期待薄に思っていたけど、案外すぐに繋がった。
 「もしもし、どうしたの」
 電話越しに聞く奈津さんの声は、いやに冷めていたけど、たぶんそれは僕の意識が過剰になっているだけだ。胸に募る不安が五感を麻痺させているのだ。
 「僕と花火をしましょう」
 「え、急になに」
 「それから、夏祭りにも行きましょう。プールや海に行くのもいい。そういえば、九月にうちの高校で文化祭があるんですよ。関係者しか入れないらしいけど、僕の親戚ってことにでもして来てください。そうすれば、夏休みが終わっても会える理由ができます」
 僕は自分でもよく分からないままに捲し立てる。今までずっと何かが不安で、今日奈津さんと出会ってしまったせいで、それは致命的なほどに増大した。
 僕は今、彼女にとても会いたい。
 「ねえ、今君はどこにいるの?」
 「あの河原です」
 「ちょっと待ってて。会いに行くから」
 「いや、でも……」
 プツリと、通話が強引に切られた。
 せっかく彼女が会いに来てくれるというんだから、僕はそれ相応の準備をして待たなければいけない。

 またも自転車を走らせる。
 閉店間際のホームセンターで、花火のセットとローソク、ライター、プラスチックバケツを購入した。
 児童公園に設置された水道を借りて、バケツに水を汲む。
 それら全ての準備が整ってすぐ、奈津さんは姿を見せた。
 服装はそのままだけど、足もとは涼しげなサンダルに変わっていて、肩口まで伸びる髪も後ろで一つに結われていた。走ってきたのか、苦しそうに肩で息をしている。
 僕たちは並んで石段に腰かけた。先にいた家族連れはもう帰ったようだった。
 「すごいね。ここ花火していいの?」
 「はい。自己責任ですけど」
 ローソクにライターで火をつけて、僕たちは思い思いの花火を手に取る。
 先端に火を灯すと、一気に光のシャワーが溢れた。赤や青や緑の火花が夜闇を照らす。
 「ねえ、景くん」
 「はい」
 「私、年上が好きなの。だから早く、大人になってね」
 この人は本当に無茶苦茶言うな、と思わず笑ってしまう。
 「善処します」
 僕の返事に奈津さんは満足そうに笑った。僕の好きな自信に満ちた笑顔だった。
 僕と彼女の夏は終わらない。
 終わらせない。
 三年分の隔たりが埋まることはないけど、寄り添うことならできるから。
 こんな僕だけど、貴女の隣にいさせてほしい。