「で? わたしにもその『白ちゃん』って人の存在を覚えているか、聞きたいの?」

 先生は落ち着きを保ったまま、静かに瞳を閉じた。

「お、覚えてますよね? あ、あの……先生のクラスの……職員室の前に飾られている絵の……」

 わたしは必死だった。

 原田先生は知らないと言ったけど、あの時、一緒に話していた志木先生ならわかるかもしれないと思ったからだ。

「だ、誰も覚えてないとか、ありえない」

 答えを待つ前に、思わず心の声が口から出ていた。

「桃倉さん…」

 勘違いだ。そんな覚えはない。

 またそう言われるのだと思った。でも、

「悪いことは言わない。もう二度と、その名前を口にしない方がいいわ」

 やっぱりこの人は知っていた。

 声を落として淡々とそう告げられる。

「ど、どうして……」

 ぞくっとした。

 先生を見ていると、視界が回るように感じた。

 あれ、この人、誰だったっけ?と不思議な感情に取りつかれる。

「いい? 彼が大切なら、もう……」

 忘れなさい。と、彼女は言った。

「み、みんなもそうやって知らないふりをしてるってことですか?」

 忘れるために。

「違うわ。みんなは本当に忘れてしまったの。でも、でもあなたは……」

 先生は悲しそうに私の瞳を見つめる。

麻子(あさこ)、もう遅い」

 後ろから突然聞こえた声に、先生の表情が変わった。背の高い、日本人離れした整った面持ちの男性が立っていた。

「そんなでかい声で話してたら、嫌でも聞こえる」

「ろ、ロイ!」

「何だよ、おまえ。この学校の生徒は任せとけって言ってたくせに、ひとり見逃す気だったのか?しかもわざと」

「お、覚えているはずないのよ、この子だって」

 普段の姿とは別人のように取り乱す、そんな先生に驚いた。

 それでも状況がわからないため、私は整理できない頭を抱えたままただ茫然とふたりの会話を聞き入っていた。

「どんな情がわいたかは知んねぇけど、ちゃんと言ってやんないと、この子のためにもなんねぇと思うぞ」

 そして、ロイと呼ばれたそいつは私に瞳だけ向け、簡単に言った。

「おまえがちゃんとあいつを忘れてやらないと、あいつは生きたまますべての能力を奪われることになる」

「は?」

 な、なにを言っているの?

 突然の状況に混乱しきってわたしの脳は正常に機能していない。

「つまり、人でなくなる」

 冷静に言い放たれた言葉だったけど、なぜかそれはすんなり入り込んできて体が硬直した。

「ひ、人で……」

「ろ、ロイ!」

 言われている意味を理解しようと必死に頭を働かせたけど、頭の中はただ真っ白なままで、まったく働きそうにない。

 そんなとき、また先生が大声をあげた。

「いい加減にして。これ以上は……」

「麻子、こんなうそ、すぐにばれる。おまえだってわかってるんだろ」

 な、なに、言ってるの?の、能力を奪う?

 わたしはつかいものにならなくなった頭を必死に整理しようとする。

 それをかまわず、またロイが続けた。

「あいつは、ここの時代の人間じゃねぇ」

「え…」

「もっともっと先の時代から、タイムマシンを不正使用して、この時代に逃げてきやがった犯罪者だ」

「……は?」

 た、タイムマシン?

「で、俺らが時空を守ってる。まぁここで言う警察ってわけ。あいつを捕まえにここまで来たんだ。ただ、証拠がなかったから長い間あの学校に張り付いて観察させてもらってたんだけどな」

 たんたんと語るロイという男は、頭がおかしいのではないかと思えた。

 信じられなかった。

「な、何言ってるの? 白ちゃんがそんなわけないじゃない! 中学校の時から知ってるって子もいるのよ!」

 わたしは必死に怒鳴っていた。

 だって、白ちゃんと同じ中学で過ごした子の話を聞くたびに羨ましくなっていたことはまぎれもない事実だ。でも、ロイは首を振った。

「あいつの時代では、簡単に人の心を支配することだって可能なんだ。なんてぇか、技術の進歩ってか、ここで言うとどういった言葉にすればいいのかわかんねぇけどさ。実際、おまえのその感情もあいつに操られてるだけだろうし……」

「や、やめて、ロイ!」

 先生が必死に抵抗しているようにも見える。

 何も考えられなくなったわたしは、ただ呆然とその様子を眺める。すべての音が徐々に消え行き、スローモーションにさえ感じられる。

 それでもロイの指がわたしの額に触れたとき、いつの間にか腰が抜けたわたしは情けなくももう動けなくなっていた。

(あ、操られている……)

 その言葉が、わたしのガラスの心を粉々にした。

「桃倉、こっちだ! 走れ!」

 遠くの方で、声が響いたのはそのときだった。

 目の前でまばゆい光がぱんっと音を立ててはじけて飛んだように辺りはその明るい色に包み込まれた。

 気付いたら、だれかに腕を掴まれ、全力で走り出していた。

 心地よいほどの勢いで風を切る。前方から飛びこんでくる光で前はよく見えなかったけど、それでもその腕の温もりに涙がでた。

「あいつらの次の地点は……そうだな、十七分後に北北西の1、3キロ離れた川沿いの橋の下に隠れている。すみやかに回り込め」

 うしろの方で、静かにそんな声が響いた気がした。それでもわたしは必死に走り続けた。