やっぱりアルバイトは必須だな。そんなことを考えながらスタジオを出た時だった。
 受付の前に設置されている掲示板に、何かポスターのようなものを貼っている人がいる。黒い髪で黒縁眼鏡を掛けた背の高い男性。 じろじろ見たらいけないような近付きがたい雰囲気があって、その人の作業が終わるまで、なるべく気配を消して廊下の端のベンチにそっと座っていることにした。
「無理言ってごめん。貼らせてもらってありがとう」
「全然いいよ。自分とこにスタジオあるなんてすごいぜ?」
「今の俺たちにはまだ早いんじゃないかって、社長には言ったんだけどさ」
「んなことあるか。今や大注目のボーカルグループなんだから、自分のスタジオで、たくさん曲作ってくれよ」
「頑張るよ」
「じゃあもし応募者いたら、事務所に連絡してもらうようにするな」
「よろしく」

 受付の人との会話を聞いて、震えが走った。見たらいけないと思って、そっちを見てはいない。けれど、ボーカルグループ、曲作り、そして何よりその声。繋ぎ合わせれば、彼が何者か想像がついてくる。でも、まさか。
 その人がスタジオを去ったのを確認して、ドキドキしながら掲示板に向かい、ポスターの文字を追う。エンシオが所属する事務所のスタジオ管理アルバイト募集。じっと見ていたら、受付の人が僕に声を掛けた。
「興味あります? エンシオって知ってるかな。四人組のボーカルグループで」
「知ってます」
「音楽始めたばかりの頃は、ここのスタジオ使って収録とかしててね。大きな事務所に引っ越して、新しくスタジオも作るとかで人手が足りてないみたいで」
「エンシオが……このスタジオに」
「メンバーの響也が前にバイトしてたよしみでね。あ、もしそのアルバイト興味あったら、事務所に連絡してみて下さい。すぐにでも面接したいって言ってましたよ」
「は、はい」
 受付の人は他の作業に忙しいらしくて、掲示板の前に突っ立っている僕のことなんか気にもしていない様子だ。ただ、響也が貼っていったであろうアルバイト募集のポスターを、僕はじっと見つめ続けた。
 はいとは言ってみたけれど、そんなエンシオがいる事務所のスタッフなんて出来るわけない。音楽は好きだし、何よりエンシオが好きだけれど、そんな浅い理由で面接してくれるわけがない。
 わけがない? それはだれが言った?
 勇気を出して何かを決めた時には、いつもそばにエンシオがいた。ドラムを続けたいと思った時、みんなで音楽コンテストに出たいと言った時、ドラマーになることを夢じゃなくて目標に据えた時。
 今、僕の目の前に一番大きな波が来ている。これを諦めてしまっていいのか? 溺れるかどうかは進んでみなきゃ分からない。
「あ、あの。僕連絡してみます!」

 スタジオを出てすぐにポスターに書いてあった高杉さんという人の連絡先に電話をした。指先が震えて思うように画面を押せない。思わず声だけの乾いた笑いが喉を通る。
「はい、高杉です」
「あ、あの、音楽スタジオの、ポスターを見て。その、スタジオ管理のアルバイトに応募したいのですが」
「ああ、ポスター見てくれたの。ありがとうございます。仕事内容が多いのと土日もあるので、求人情報サイトだとあまり人気がないんですよね、そのへんも了解してもらえると」
「見ました。大丈夫です」
「良かった。それじゃあ、あとは面接を受けに来て欲しいんですけど。来週の月曜日にしてもらってもいいですか?」
「分かりました」
「学生さんですか?」
「はい、大学生です」
「じゃあ夕方以降がいいね。六時にポスターに記載のビルへ来て下さい。引っ越し中なのでごちゃごちゃですけど」
「分かりました」
「じゃあよろしくお願いします」
「お願いします。ありがとうございます」

 通話を終えて、息を大きく吐き出した。ものすごく緊張して、ちゃんと話せていたか分からないくらいだ。
 メンバーがいるかもしれない事務所へ、アルバイト募集の面接に行く。そんな出来事が自分の身の上に起こるなんて。ダウナー気味だったあの頃の僕に言ったって、信じやしないだろう。
 高校生の頃の僕、聞いてくれ。これは本当だ。ドラマーへの夢を後押ししてくれた、あのエンシオの響也が貼っていった一枚のポスターが、僕の運命を変えていくんだ。