エンシオの出番が終わり、ライブの音や観客の大きな声援から耳を休ませるために、僕はフェスの会場をあとにした。
長野の高原にあるこのイベント会場は、冬の間はスキーの出来る見晴らしのとても良いところだ。高原だから夏でも快適で、来てよかったな、と展望デッキで伸びをする。
フェスの日は、事務所休みにするから和音君も休んで、という高杉さんの言葉をいいことに、僕は一ファンとしてエンシオの初フェスを楽しむためにやって来た。メンバーには内緒で。
久しぶりに事務所のスタッフとしてではなくて、エンシオの音楽を吸収したかった。泣きたくなるような込み上げる思い。自分の気持ちを代わりに歌ってくれる。止まりかけた足を動かす力をくれる。元気や勇気をくれるし、癒やしてもくれる。
僕の薬みたいな歌。
「よし、帰るか」
母さんへお土産は買ったし、明日からは普通に大学とドラムのレッスンだ。帰りの新幹線のチケットも取ってある。そんなにのんびりもしていられない。
「何がよし、だ。顔も見せないで」
背後からそう声を掛けられて、飛び上がるほどびっくりした。よく知っている声。僕の大好きな人の声。
少し不機嫌そうに聞こえたその声に、そろそろと振り向く。
「何で来るって言わないのさ」
「来るならスタッフスペース取っておいたのに」
「水くさいぞぉ」
響也さんと、詠汰さん奏さん、歌維人さんが並んでいた。特に響也さんは腕組みをして、眼鏡のブリッジを人指し指でくいと上げている。ただし眼鏡の奥の目は優しく笑っていて、本気で怒ってはいない。その姿がさまになりすぎていて、格好良さにドキドキしてしまっている僕は、こんな時になんて不謹慎なんだろう。
「い、いやあ、アルバイトのくせにスタッフスペースなんて」
「分かるだろ? うちの事務所は今や和音なしじゃ成り立たないんだから」
奏さんが笑って言った。
「そ、それにしてもよく分かりましたね。後ろの方にいたのに」
「それは、な」
「ね」
「響也がな」
歌維人さんが奏さんと詠汰さんの言葉を引き継いで、響也さんを軽く肘打ちする。響也さんはごほんと咳払いをして、もう一度眼鏡のブリッジを上げた。
「じゃあ、俺たち先に戻ってるから」
「じゃあな、響也、和音」
「え、え?」
示し合わせたように、響也さん以外の三人が手を振って会場へ戻って行く。
お客さんはみんなフェスに夢中で、展望デッキにほとんど人はいなかった。
ごくりと、自分の喉が鳴るのが分かった。響也さんの表情は相変わらず優しいけれど、少しいつもと違うように感じる。
「ステージから見えたよ。和音の顔」
「え……」
「左の後ろの方にいただろ、分かるって」
「うそ」
思わずそんな言葉が出た。会場には大勢の人がいて、その中から僕の顔なんて分かるわけがない。
「嘘じゃない。和音のことはどこにいても分かる。メンバーにはさっき伝えた。すごく大事にしたい人が出来たって。どこにいても分かるくらい大事な人が」
「……響也さん?」
今聞いた言葉が、高原の綺麗な空気に乗って、ふわふわと僕の元へ届いた。どう理解したら良いか分からない僕の周りを、言葉は舞う。
視線の置きどころに困り、いつものように顔がどんどん赤くなるのが分かる。
「音楽以外のことで俺の心を動かしたのは、和音が初めてだって、前に言ったの覚えてるか?」
挙動不審な僕に優しい目を向けながら、響也さんは言った。
「……はい」
「守りたいなんて傲慢なことを言うつもりはない。そんなことを俺がしなくても、和音は強いから。だけど、一番近くで和音の声を聞きたい。そういう存在になりたい」
昇華させようと決めていたもうひとつの夢。響也さんを好きでいること。それは、もう声にすることはないと思っていた。それを諦めなくても良いのだろうか。
響也さんへの思いが、喉から溢れて溺れてしまいそうなくらいなのに。こんなに思っていることを伝えてしまったら、この恋は泡となって消えてしまったりしないだろうか。
伝えるのが怖い。
下を向いた僕に、響也さんの優しい声が降ってきた。
「和音に嫌われたくない。だけど本当のことだから言う。俺は和音のことが好きだ。和音の気持ちを聞かせて欲しい」
もう気持ちをせき止めることは出来なかった。
響也さんに言わなくちゃ。声に出さなくちゃ。この気持ちを伝えなくちゃ。
「好きです。僕も、響也さんが、好きです!」
目をつぶって、両手のこぶしにぎゅっと力を入れる。声に出してしまったこの言葉は、もう取り消しが出来ない。響きに変わって空気の中を伝わり、響也さんに届くまでコンマ数秒。
「ありがとう。すごい嬉しい」
思い切って目を開けてみる。黒縁眼鏡の奥の目は真っ直ぐに僕を見つめてくれていた。
「和音の声も、和音のドラムも、いつでも一番に俺に聞かせて」
僕の耳は、柔らかく響く響也さんの声を、幸せの形として認識した。
「はい!」
響也さんの声は、いつでも僕を強くしてくれる。
僕もいつかそうなれるように頑張ります。だから、待っていて下さい。
「それじゃあさっそく、今度の仕事前に宿題がちゃんと出来ているかチェックするぞ」
「へ?」
「教えただろ、ドラムセットのチューニング方法。抜き打ちでテストするから」
「ええっ?」
「当たり前じゃないか、伝説のブラックスワンを継承するのは和音なんだから」
「それにしても急すぎます」
「そんな甘いことじゃ許さんぞ」
「響也さん、キャラ変しすぎです!」
ははは冗談、と僕の頭をぽんぽんと優しく撫でる響也さんは、ボーカルグループ・エンシオの中音域担当。黒縁眼鏡がよく似合う、僕の大好きな人だ。僕は、その人がいるステージを目指して、夢を諦めない。
終わり
長野の高原にあるこのイベント会場は、冬の間はスキーの出来る見晴らしのとても良いところだ。高原だから夏でも快適で、来てよかったな、と展望デッキで伸びをする。
フェスの日は、事務所休みにするから和音君も休んで、という高杉さんの言葉をいいことに、僕は一ファンとしてエンシオの初フェスを楽しむためにやって来た。メンバーには内緒で。
久しぶりに事務所のスタッフとしてではなくて、エンシオの音楽を吸収したかった。泣きたくなるような込み上げる思い。自分の気持ちを代わりに歌ってくれる。止まりかけた足を動かす力をくれる。元気や勇気をくれるし、癒やしてもくれる。
僕の薬みたいな歌。
「よし、帰るか」
母さんへお土産は買ったし、明日からは普通に大学とドラムのレッスンだ。帰りの新幹線のチケットも取ってある。そんなにのんびりもしていられない。
「何がよし、だ。顔も見せないで」
背後からそう声を掛けられて、飛び上がるほどびっくりした。よく知っている声。僕の大好きな人の声。
少し不機嫌そうに聞こえたその声に、そろそろと振り向く。
「何で来るって言わないのさ」
「来るならスタッフスペース取っておいたのに」
「水くさいぞぉ」
響也さんと、詠汰さん奏さん、歌維人さんが並んでいた。特に響也さんは腕組みをして、眼鏡のブリッジを人指し指でくいと上げている。ただし眼鏡の奥の目は優しく笑っていて、本気で怒ってはいない。その姿がさまになりすぎていて、格好良さにドキドキしてしまっている僕は、こんな時になんて不謹慎なんだろう。
「い、いやあ、アルバイトのくせにスタッフスペースなんて」
「分かるだろ? うちの事務所は今や和音なしじゃ成り立たないんだから」
奏さんが笑って言った。
「そ、それにしてもよく分かりましたね。後ろの方にいたのに」
「それは、な」
「ね」
「響也がな」
歌維人さんが奏さんと詠汰さんの言葉を引き継いで、響也さんを軽く肘打ちする。響也さんはごほんと咳払いをして、もう一度眼鏡のブリッジを上げた。
「じゃあ、俺たち先に戻ってるから」
「じゃあな、響也、和音」
「え、え?」
示し合わせたように、響也さん以外の三人が手を振って会場へ戻って行く。
お客さんはみんなフェスに夢中で、展望デッキにほとんど人はいなかった。
ごくりと、自分の喉が鳴るのが分かった。響也さんの表情は相変わらず優しいけれど、少しいつもと違うように感じる。
「ステージから見えたよ。和音の顔」
「え……」
「左の後ろの方にいただろ、分かるって」
「うそ」
思わずそんな言葉が出た。会場には大勢の人がいて、その中から僕の顔なんて分かるわけがない。
「嘘じゃない。和音のことはどこにいても分かる。メンバーにはさっき伝えた。すごく大事にしたい人が出来たって。どこにいても分かるくらい大事な人が」
「……響也さん?」
今聞いた言葉が、高原の綺麗な空気に乗って、ふわふわと僕の元へ届いた。どう理解したら良いか分からない僕の周りを、言葉は舞う。
視線の置きどころに困り、いつものように顔がどんどん赤くなるのが分かる。
「音楽以外のことで俺の心を動かしたのは、和音が初めてだって、前に言ったの覚えてるか?」
挙動不審な僕に優しい目を向けながら、響也さんは言った。
「……はい」
「守りたいなんて傲慢なことを言うつもりはない。そんなことを俺がしなくても、和音は強いから。だけど、一番近くで和音の声を聞きたい。そういう存在になりたい」
昇華させようと決めていたもうひとつの夢。響也さんを好きでいること。それは、もう声にすることはないと思っていた。それを諦めなくても良いのだろうか。
響也さんへの思いが、喉から溢れて溺れてしまいそうなくらいなのに。こんなに思っていることを伝えてしまったら、この恋は泡となって消えてしまったりしないだろうか。
伝えるのが怖い。
下を向いた僕に、響也さんの優しい声が降ってきた。
「和音に嫌われたくない。だけど本当のことだから言う。俺は和音のことが好きだ。和音の気持ちを聞かせて欲しい」
もう気持ちをせき止めることは出来なかった。
響也さんに言わなくちゃ。声に出さなくちゃ。この気持ちを伝えなくちゃ。
「好きです。僕も、響也さんが、好きです!」
目をつぶって、両手のこぶしにぎゅっと力を入れる。声に出してしまったこの言葉は、もう取り消しが出来ない。響きに変わって空気の中を伝わり、響也さんに届くまでコンマ数秒。
「ありがとう。すごい嬉しい」
思い切って目を開けてみる。黒縁眼鏡の奥の目は真っ直ぐに僕を見つめてくれていた。
「和音の声も、和音のドラムも、いつでも一番に俺に聞かせて」
僕の耳は、柔らかく響く響也さんの声を、幸せの形として認識した。
「はい!」
響也さんの声は、いつでも僕を強くしてくれる。
僕もいつかそうなれるように頑張ります。だから、待っていて下さい。
「それじゃあさっそく、今度の仕事前に宿題がちゃんと出来ているかチェックするぞ」
「へ?」
「教えただろ、ドラムセットのチューニング方法。抜き打ちでテストするから」
「ええっ?」
「当たり前じゃないか、伝説のブラックスワンを継承するのは和音なんだから」
「それにしても急すぎます」
「そんな甘いことじゃ許さんぞ」
「響也さん、キャラ変しすぎです!」
ははは冗談、と僕の頭をぽんぽんと優しく撫でる響也さんは、ボーカルグループ・エンシオの中音域担当。黒縁眼鏡がよく似合う、僕の大好きな人だ。僕は、その人がいるステージを目指して、夢を諦めない。
終わり