平常心、平常心とひたすら心の中で唱えながら、何回か復習を繰り返した。休憩時間はそろそろ終わりだ。
「ありがとうございました。そろそろ戻ります」
「最近あんまり出来ていなかったみたいだったけど、分からないところあったら俺で良ければ聞くよ」
響也さんが楽譜から目を上げれば、トレードマークの黒縁眼鏡のレンズが優しく揺れた。
「はい、前に響也さんにも言われたスティックの癖がまた出てきちゃったみたいで……。意識して練習するようにって先生が」
「そっか。でも意識しすぎると、ちょっとテンポが走っちゃうところがあるから、難しいところだよね」
テンポが走っちゃったのは、違う理由なんだけれど……。
「だけど、和音のドラムは和音らしさが出ていてすごく好きだよ」
「僕らしさ……?」
ドキッとした。すごく好きと言われたのはドラムの話で、それ以外の話はしていないというのに。
ちょっと喋ろうかと言って、響也さんは自分が座っているスツールを僕の方へ寄せた。
「ヴィジュアル系バンドってさ、自分が目立ってなんぼなところがあってさ」
響也さんはドラムセットに貼ってあるブラックスワンの文字を見ながら笑った。
「ちょっと疲れてたのもあったんだよね、あの頃」
「大学生の時でしたっけ」
「そうそう。実は、俺も和音と同じようにまだこういう音楽をやっているんだってこと、親にはきちんと伝えていないんだ」
「え……」
うん、と言って響也さんはグラスの中身を飲んだ。
「うち、実はクラシック一家でさ、親父はオペラの舞台監督、母がソプラノ歌手、叔母はピアニストっていう」
「すごい」
「はは、当然将来は俺もクラシック音楽に携わるだろうと周囲からは思われてた」
「ですよね」
「とはいえ俺の実力なんてちっぽけなもんでさ、ある時ピアノコンクールで自信を叩きのめされて、クラシックはきっぱり辞めようって思ったんだ。当然反対されたけどね。何のために音楽をやっているのか分からなくなったのに、どこを探してもだれに聞いても答えは見つからないんだ、バンドでドラムを叩いてもどこか違うと思っていた。あ、もちろんドラムそのものは好きだよ。リズムに身体を合わせると、自分の感情がフラットになる気がするんだ」
「あ、分かります!……ってすみません生意気なことを」
「いや、分かってくれて嬉しいよ」
響也さんが語ってくれたエピソードに思わず大きな声を上げてしまった僕へ、響也さんは嬉しそうに笑って応えてくれた。
「人に言われて音楽をして、人に言われて進路を決めてきたから、自分で何かを考えるってことが出来なくてさ。恥ずかしい話、女の子に言われて流されて付き合うなんてことも多かった。自分の行き先が分からないまま生きていていいんだろうか、って思っていた時にあいつらと会ったんだ。四人で声を合わせるってことがすごく楽しくて。そこから自分の道が分かってきたんだ。だれかより目立とうとかだれかに勝とうとかじゃなくて、だれかを活かす歌い手になりたいって」
「だれかを活かす歌い手……」
まさしくそれは、響也さんの声を好きになった理由だった。だれをも押し退けず、それでいてだれよりも意志が強い。自分の行き先が分からなくて悩んでいたなんて思えない。けれど、そんな響也さんも、僕のように悩んでいた時期があったんだと知った。
「親はまだ俺がクラシックの道に戻ることを諦めてなくてね、それでちょっと絶縁状態になっているんだけど……、和音が勇気をくれたんだ」
「え、僕が?」
そう、と響也さんは頷いた。
「前に和音の話を聞いたことがあったよな。いつかお母さんに分かってもらいたいって。その時和音が本当にやりたいことなら絶対分かってくれると言った言葉、あれは俺自身に対する気持ちでもあるんだ」
「響也さん……」
「和音が頑張っているのを見ていると、俺も頑張ろうって思える。和音に会えて良かった、うちに来てくれてありがとう」
「そんな……。あの、響也さんが貼ってくれたポスターのおかげです。こちらこそありがとうございます」
響也さんの気持ちに、もし少しでも僕の話したことが足しになるのなら、こんなに嬉しいことはない。
けれど、言葉以上の意味をそれは持っているように感じてしまう。和音に会えて良かった。そんな風に言われたら、僕の気持ちが完全に証明されてしまう。
顔が赤くなっていくのが分かる。響也さんの顔が見られなくて、意識して下を向いてグラスを片付けた。
「じゃあ片付けてきます」
「うん、ありがとうな」
少し重たいドアを開ける。後ろから声が追いかけてきた。
「あのさ、音楽以外のことで俺の心を動かしたのは、和音が初めてだよ」
足が止まった。このまま振り向いたら、顔が赤いのがモロバレだ。
「そ……それは僕の方です。エンシオの歌に会わなかったら、ドラムを諦めてたんですから」
「いつかさ、俺たちのフェスのバックでドラム叩いてほしいな。曲作りにも」
僕の夢の話。歌維人さんたちにもそんな風に言ってもらえて嬉しかったのを覚えているけれど、響也さんに言ってもらえると泣きそうなくらいに嬉しさが込み上げてくる。ドラムの話なら顔が赤くてもおかしくはないだろう。僕は振り向いて、頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張ります」
ドアを閉めると、そのままずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。放心してしまいそうだ。たくさんいたという彼女でさえも動かせなかったものを、もし僕が動かせたのだとしたら。
胸のドキドキは抑え込んでも抑えきれないほどに膨らんでいく。QED。恋心の証明完了。
「ありがとうございました。そろそろ戻ります」
「最近あんまり出来ていなかったみたいだったけど、分からないところあったら俺で良ければ聞くよ」
響也さんが楽譜から目を上げれば、トレードマークの黒縁眼鏡のレンズが優しく揺れた。
「はい、前に響也さんにも言われたスティックの癖がまた出てきちゃったみたいで……。意識して練習するようにって先生が」
「そっか。でも意識しすぎると、ちょっとテンポが走っちゃうところがあるから、難しいところだよね」
テンポが走っちゃったのは、違う理由なんだけれど……。
「だけど、和音のドラムは和音らしさが出ていてすごく好きだよ」
「僕らしさ……?」
ドキッとした。すごく好きと言われたのはドラムの話で、それ以外の話はしていないというのに。
ちょっと喋ろうかと言って、響也さんは自分が座っているスツールを僕の方へ寄せた。
「ヴィジュアル系バンドってさ、自分が目立ってなんぼなところがあってさ」
響也さんはドラムセットに貼ってあるブラックスワンの文字を見ながら笑った。
「ちょっと疲れてたのもあったんだよね、あの頃」
「大学生の時でしたっけ」
「そうそう。実は、俺も和音と同じようにまだこういう音楽をやっているんだってこと、親にはきちんと伝えていないんだ」
「え……」
うん、と言って響也さんはグラスの中身を飲んだ。
「うち、実はクラシック一家でさ、親父はオペラの舞台監督、母がソプラノ歌手、叔母はピアニストっていう」
「すごい」
「はは、当然将来は俺もクラシック音楽に携わるだろうと周囲からは思われてた」
「ですよね」
「とはいえ俺の実力なんてちっぽけなもんでさ、ある時ピアノコンクールで自信を叩きのめされて、クラシックはきっぱり辞めようって思ったんだ。当然反対されたけどね。何のために音楽をやっているのか分からなくなったのに、どこを探してもだれに聞いても答えは見つからないんだ、バンドでドラムを叩いてもどこか違うと思っていた。あ、もちろんドラムそのものは好きだよ。リズムに身体を合わせると、自分の感情がフラットになる気がするんだ」
「あ、分かります!……ってすみません生意気なことを」
「いや、分かってくれて嬉しいよ」
響也さんが語ってくれたエピソードに思わず大きな声を上げてしまった僕へ、響也さんは嬉しそうに笑って応えてくれた。
「人に言われて音楽をして、人に言われて進路を決めてきたから、自分で何かを考えるってことが出来なくてさ。恥ずかしい話、女の子に言われて流されて付き合うなんてことも多かった。自分の行き先が分からないまま生きていていいんだろうか、って思っていた時にあいつらと会ったんだ。四人で声を合わせるってことがすごく楽しくて。そこから自分の道が分かってきたんだ。だれかより目立とうとかだれかに勝とうとかじゃなくて、だれかを活かす歌い手になりたいって」
「だれかを活かす歌い手……」
まさしくそれは、響也さんの声を好きになった理由だった。だれをも押し退けず、それでいてだれよりも意志が強い。自分の行き先が分からなくて悩んでいたなんて思えない。けれど、そんな響也さんも、僕のように悩んでいた時期があったんだと知った。
「親はまだ俺がクラシックの道に戻ることを諦めてなくてね、それでちょっと絶縁状態になっているんだけど……、和音が勇気をくれたんだ」
「え、僕が?」
そう、と響也さんは頷いた。
「前に和音の話を聞いたことがあったよな。いつかお母さんに分かってもらいたいって。その時和音が本当にやりたいことなら絶対分かってくれると言った言葉、あれは俺自身に対する気持ちでもあるんだ」
「響也さん……」
「和音が頑張っているのを見ていると、俺も頑張ろうって思える。和音に会えて良かった、うちに来てくれてありがとう」
「そんな……。あの、響也さんが貼ってくれたポスターのおかげです。こちらこそありがとうございます」
響也さんの気持ちに、もし少しでも僕の話したことが足しになるのなら、こんなに嬉しいことはない。
けれど、言葉以上の意味をそれは持っているように感じてしまう。和音に会えて良かった。そんな風に言われたら、僕の気持ちが完全に証明されてしまう。
顔が赤くなっていくのが分かる。響也さんの顔が見られなくて、意識して下を向いてグラスを片付けた。
「じゃあ片付けてきます」
「うん、ありがとうな」
少し重たいドアを開ける。後ろから声が追いかけてきた。
「あのさ、音楽以外のことで俺の心を動かしたのは、和音が初めてだよ」
足が止まった。このまま振り向いたら、顔が赤いのがモロバレだ。
「そ……それは僕の方です。エンシオの歌に会わなかったら、ドラムを諦めてたんですから」
「いつかさ、俺たちのフェスのバックでドラム叩いてほしいな。曲作りにも」
僕の夢の話。歌維人さんたちにもそんな風に言ってもらえて嬉しかったのを覚えているけれど、響也さんに言ってもらえると泣きそうなくらいに嬉しさが込み上げてくる。ドラムの話なら顔が赤くてもおかしくはないだろう。僕は振り向いて、頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張ります」
ドアを閉めると、そのままずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。放心してしまいそうだ。たくさんいたという彼女でさえも動かせなかったものを、もし僕が動かせたのだとしたら。
胸のドキドキは抑え込んでも抑えきれないほどに膨らんでいく。QED。恋心の証明完了。