ここ数日、アルバイト先でドラムの練習をしていない。特別忙しいというわけでもなく、スタジオの掃除と管理、事務作業、来客の応対。慣れてきた仕事はトラブルもなく処理出来ている。
 休憩時間はきちんと取れているし、大学はテスト期間中だから早めに事務所へ来て練習することだって出来る。なのに、ドラムを叩きたいという気持ちにならないのだ。

「あれ、どうしたの。相枝君、またスティックの癖が戻っちゃってるよ」
 レッスンの日に先生からチェックが入ってしまった。
「すみません。練習出来てませんでした」
 ──嘘だ。練習する時間はある。恵まれた環境だってある。なのに、なぜか響也さんのドラムセットの前に座るとスティックが持てなくなってしまうのだ。
「響也のドラムセット使えるって聞いたよ。いいじゃん、上手くなれるチャンスなんだから遠慮しないでじゃんじゃん使わせてもらいなよ」
「はい。響也さんにもそう言ってもらってます」
「じゃあ、また来週も同じところにチャレンジだね」
「はい」
 テキストをリュックに仕舞いながら、ふと思った。先生は響也さんの過去を知っていたりするのだろうか。
「あの、響也さんってモテてたって聞いたんですけど」
 先生はああ、うんと笑いながら言った。
「めっちゃモテてたよ。バンドのライブの時もさ、けっこうメイク映えするのよあいつ」
 オフレコの話になったせいか、先生の口調もざっくばらんになる。昔の話を懐かしむように続けた。
「女の子の方からいつも告白されてね、あ、はいなんて答えるくせに、あいつは相変わらずバンドや音楽に夢中で、デートして来いよなんてけしかけても次のライブの曲作りが忙しいからなんて……たいして忙しくないのよ? たかが学生時代の趣味のバンドなんだから。そのうちあっちの、ボーカルの方に力を入れるようになって、メンバーとつるむようになったから、さらに彼女なんてそっちのけ。そりゃ、いくら顔が良くても嫌われるよね。そんなことの繰り返しだったな、あいつ」
「それが、彼女がすぐ変わる理由……だったんですかね」
「多分ね。あいつ、ちゃんと人を好きになったことないんじゃないかなぁ。勝手な憶測だけど」
「好きになったこと……」
「響也って作詞の方が多いでしょ? 恋愛や夢に向き合う歌を聞いてて、こうなりたいっていう願望を書いてるのかなぁなんて思ったこともあったよ。これも憶測だけどね。あ、これ響也には内緒ね」
「はい」
「今こうやって、少しずつ道は変わったけど、あの時夢見ていたことを忘れていないで、その夢を受け継いでくれる相枝君みたいな子が出てきて、響也やエンシオのメンバーは嬉しいと思うよ。伝えたかったことがちゃんと伝わってるんだから」

 レッスンの帰り道に遠回りをして、通っていた高校の前を通った。五階の一番端に音楽室はあって、生徒は階段しか使えないから、江崎君なんかはいつも面倒くさそうにしていた。
 高校を卒業してから初めてだろうか、母校を眺めるのは。
あの頃、ダウナーな自分を動かしてくれたのは、いつもエンシオの歌だった。居心地の悪い家を出て、居心地の悪い学校に来て、それでもドラムがあってみんなと音楽が出来たら楽しかった。予選で落ちても、ただの思い出作りだったとしても、表舞台には立てなくても、あの時響也さんをはじめエンシオの歌が僕に寄り添ってくれたおかげで、僕は良い高校生活が送れた。

 辺りはすっかり夜で、学校は非常灯の明かりにぼんやりと浮かんでいた。今もきっと、あの学校の中で夢を手放しそうな子がいるかもしれない。
 もし家や学校に居場所がなくても、きっと君だけの居場所はどこかにある。それが夢のありかだから。それだけはどうか手放さないで。

 もう一度学校を大きく眺めると、その場所をあとにした。少しすっきりした気分だ。響也さんもやっぱり人間で、何かにもがいていたのかもしれないと思うと、何となくもやもやが小さくなった気がする。
 どうして響也さんのことを考えると、もやもやが大きくなったり小さくなったりするんだろう。