「教えてくれてありがとうな。ドラムのこと、前にもちらっと聞いたけど、もしかしたら話しにくいことがあるのかな、と思ってた」
 奏さん歌維人さん詠汰さんがそれぞれ事務所を出て行って、僕の机の横に響也さんが残った。空いている椅子を引き寄せて座ると、片腕に少し体重を掛けて僕の方へ近付いた。
「大丈夫? きつくない? 大学とアルバイトとドラムの両立」
「全然! 全然大丈夫です」
 僕は全力で首を横に振った。たしかに物理的には日曜日くらいしかゆっくり出来ないのはあるけれど、大切なものを失った時や、周りが羨ましくて悩んでいた時に比べたら、今は驚くほど心も身体も軽い。ひとつを除いては。
「親に……まだ話せていないのが、ちょっと……」
「ドラムのこと?」
「はい」
 響也さんの眼鏡の奥に見える目はまったく変わらない。同情や心配や、そんな気持ちでないことが分かって、僕はためらいがちに口を開いた。
「父はミュージシャンなんです。ドラムが家にあって、中学生の頃から僕もドラムをやるようになって。楽しくなって毎日叩いていました。父から教わるということはなかったので、叩いている音を真似したり自分で勉強したりして」
「すごいな」
「いえ、全然。だけど中学三年の時に父と母が離婚して。母は父のドラムを見るのも嫌になって。学校から帰ってきたら、ドラムがなくなっていました」
「……そうだったんだ」
「母の気持ちも分かるんで、しばらくはドラムから離れていたんですけど。やっぱりやってみたら楽しいし、みんなでひとつのものを作るっていいなって思って、今はまだ話せてませんけど、いつか母さんにも分かってもらえたらいいなと思ってます」
「そうだな。きっと分かってくれるよ。和音が本当にやりたいことなんだったら。絶対分かってくれる。頑張れ。今はドラムを貸すくらいしか俺には出来ないけど」
「いえ、めちゃくちゃありがたいです。予習と復習が出来るので、先生にも褒められました」
「良かったな。こないだ第二スタジオで和音が叩いているの、ちょっと聞いたよ。たぶん癖や余分な力が抜けてきたのかな、良い調子だと思う」
「本当ですか……?」
 まさか響也さんが聞いているとは知らなかった。顔が勝手に熱くなるのが分かって、思わず下を向いた。
「ははは、きっとブラックスワン効果だよ」
 響也さんが冗談で和ませてくれようとしている気持ちが伝わってきて、僕も顔を赤くしながら笑った。
「今度の新曲さ、奏も言ってたけど、夢は叶うものじゃなくて叶えるものだっていうのがテーマなんだ。和音は叶えようと頑張ってる。応援してるよ」
 響也さんは椅子から立ち上がると、見上げる僕の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。それはきっと他の三人と同じで、ありがとうや頑張れの意味なんだと思うけれど、僕には響也さんのぽんぽんがすごく特別なものに思えて、事務所から響也さんが出て行ったあと、頭を両手で押さえていつまでもその温かさを感じていた。

「ただいま」
「おかえり和音。母さん明日仕事だから、先にご飯食べちゃったわよ。おかずはレンチンしてちょうだいね」
「分かった」
 家に帰れば、いつも通りの生活が待っている。母さんは体調を崩して病院に通っていた時期もあったけれど、僕が大学生になって少しほっとしたのか、この生活に慣れたのか、最近は元気そうに新しい仕事を始めている。
「明日は朝から大学? そのあとは?」
「うん。それからアルバイトだから明日も遅いよ。先に食べてて」
「あんた、アルバイトたくさん入れているみたいだけれど、大丈夫なの? そんなにお金に困ってるわけ?」
「全然困ってないよ。友達と入った映画サークルが面白くてさ、いろいろ見て回ってるからどうしてもね」
「そう、映画ね。忙しいわりに最近楽しそうなのは、映画サークルが面白いからなのかしらね。ただ、無理は禁物よ。あと勉強が優先だからね」
「分かってる」
「じゃあ後片付けよろしくね。おやすみ」
「おやすみ」
 キッチンが僕だけになって音がしんとなる。響也さんにいろんなことを喋ってしまった自分を思い出して、茶碗にご飯をよそう手が止まった。
 冷静になってみれば、憧れのボーカリストにあんなことまで喋ってしまって、どうかしているんじゃないだろうか。
 けれど響也さんはちゃんと向き合ってくれたし、きっと分かってくれると言ってくれた。その声で、僕はすごく勇気をもらえた。
今日は話せなかったけれど、誤魔化すことはもうやめて、母さんには本当にやりたいことをきちんと自分の言葉で言えそうな気がする。
僕が最近楽しそうだと母さんは言っていたな。おかずとご飯を一緒に口に放り込みながら、きっとそれは響也さんのおかげだと思った。