その日の帰り道、昼間よりは若干控えめになった蝉時雨のなかで他愛もない話をしながら一ノ瀬を自転車の後ろに乗せて走る。登校で乗ってきた自転車は校庭の駐輪場へおいてきた。

「山口先輩も気さくで楽しい人ですね」
「ああ。アイツは誰とでもすぐ打ち解けるからな。モテるんだよ」

 俺の返答に一ノ瀬が「分かる気がします」と背中越しに笑う。今振り返れないのがもどかしい。

「今日のバイトはラーメン屋か?」
「はい。ラーメン屋が終わったらそのまま居酒屋のシフトがはいっています」

 腰にまわされた一ノ瀬の白い腕はひんやりと冷たくて心地いい。
 長袖のワイシャツを腕まくりしている俺とは異なり、一ノ瀬は二の腕が隠れるほどオーバーサイズの半袖を着ている。

「あまり無理するなよ」

 俺の背中に額をつけた一ノ瀬が「はい」と少し甘えるような声色で返事をした。
 俺はハンドルから片手を離して、恋人の甘えに応えるように白い腕をポンポンと叩く。
 直接触れた一ノ瀬の腕はやっぱり、ひんやりと冷たかった。

 本人から聞いたわけではないが、一ノ瀬の制服は誰かのおさがりだ。だぶついたワイシャツも裾のヨレはあきらかな経年劣化によるもので、他の新入生と同じように封を切って半年前後ではないことはあきらかだ。
 それに加えて常時掛け持ちのバイト。殆どの生徒が部活に精を出すうちの高校では珍しい。大抵が夏休み限定のバイトをするくらいで、俺もその一人だ。バイトはプールの監視員と引っ越し屋の短期しかしたことがない。

 一ノ瀬がなにか大金の掛かる趣味をしていると聞いたことはないし、持ち物からも高級品は見当たらない。以前バイト代で何か買うのかと聞いたら「生活費です」とあっさり返ってきた。
 以前祖母と二人暮らしだと聞いた。正直、気にならないといえば嘘になる。
だが、一ノ瀬自身が現状を悲観しているようにもみえない。年上とはいえ所詮高校生の自分には言葉での応援が精一杯だということも分かっている。無力な俺からの応援は同情になる。だから必要以上の詮索はしない。
 でも、困っているときは頼って欲しい、苦しいときは精一杯力になりたい。
 ぼうっとそんなことを考えていると、背後で一ノ瀬が「あっ」と声を上げる。

「そういえば先輩、今日の昼休みなにか言いかけましたよね」

 昼休み――学校の屋上で友達が現れる直前に言いかけた「一ノ瀬とキスがしたい」という告白のことだとすぐに気付く。背中越しに一ノ瀬が俺の答えを待っているが今言えることではないし、なによりもうそろそろ一ノ瀬と分かれ道だ。

 自転車を停止させて、持ち主に自転車を返す。

「あー、悪いな。忘れた」

 思い出したら言うから、と誤魔化す。本当は頭の中がそれでいっぱいだなんて言えるわけがない。今だって、むしゃぶりつきたくて仕方ない。

「先輩」

 一ノ瀬が小さく手招きをして屈むよう促す。内緒話をするように一ノ瀬の口元に耳を寄せた。同時にふにゅっとした柔らかい感触が頬にあたる。

「先輩、また明日」

 耳元で別れを告げた一ノ瀬が自転車に乗り去って行く。小さくなっていく背中を屈んだ体勢のまま放心状態で眺めていた。
 一ノ瀬が頬にキスしてくれた。その事実に現実味が増したのは、風呂に入って顔を洗って後悔した瞬間だった。


 一ノ瀬と出会う前。それまで俺の人生は部活と遊びに全力をだし、運良く試験はそこそこの点数を採れたり、告白されてできた彼女に「私に全然興味ないじゃん」と別れを告げられたり。どこにでもある楽しくて穏やかな日々を送っていた。

 一ノ瀬を初めて見たのは、新入生の入学式の日だった。
 いつも通り、弓道部の自主練から教室に向かう道中で、女子の群れが見えた。歓声も向けられている表情も部活や試合中に自分が向けられるようなものとは全く異なっていて、物珍しさからついその中心にいる人物が気になってしまった。足まで止めて、どれくらい見つめていたんだろう。
 春風に舞い散る桜ですらも演出なのではないかと思うほど自然で、ドラマチックで。
 女子たちの間から垣間見える、胸に新入生の証しである赤いリボンをつけた男子。
 まだ身長が伸びることを配慮してか、華奢な肩を包む制服は少々だぶついている。
 染めているのかと思うほど色素の薄い髪と白い肌。それから遠目でもわかるほど、薄くて艶やかな唇。柔らかそうだと、思わず生唾を飲んだ自分が信じられない。

(なんで、俺はこんなに目が離せないんだ。相手は男だぞ)

 長い前髪から、陽の光を反射する睫毛がゆっくりとこちらに向けられる。

「一ノ瀬くん、どうしたの?」

 外野の女子の誰かが、新入生に向けてそういった。

(ああ。一ノ瀬っていうのか)

 輪の中心にいた気だるげな双眸と目が合うまで、いや、あってからも俺は暫く目が離せなかった。なぜか直感で思った。一ノ瀬の笑った顔がみてみたい。

 それから俺は、ますます一ノ瀬から目が離せなくなった。その姿を追うようになった。
 入学式では在校生代表の言葉を度忘れするほど、前から三列目の新入生が気になった。
 その後の移動教室や放課後部室へ向かう前にわざわざ一年生の校舎を通っていった。

 俺はどうかしている。一ノ瀬は紛れもなく男だ。今まで付き合ってきたのはみんな女子だった。友達にお勧めされて抜いたAVだって女優を可愛いと思った。それなのに、なんで俺は、どうして。
 姿を見つける度、やりきれない気持ちになった。だって俺は名前以外何も知らない。それだって盗み聞きしたものだ。
 偶然一ノ瀬に会えるんじゃないかと今日も一年の校舎へ足を踏み入れる前に、踏みとどまる。
 それでも一年の校舎に繋がる階段から立ち退かないくらいには俺は往生際が悪いらしい。

「どうしたんだよ俺……こんなんじゃなかっただろ」

 入学式から二週間が過ぎていた。気の迷いを加速させてストーカーまがいなことをエスカレートさせる前にこの胸の内を浄化しなければ、と深く息を吸って、壁に思い切り頭を打ち付ける。

「見つけた。水戸部先輩」

 ゴンッという鈍い音と、直ぐに熱を持ってじんじん痛むのが早かったか。初めて聞いたその声に心臓が爆発しそうになった。

「い、一ノ瀬、なんで俺の名前……」
「入学式の日、ステージに上がって挨拶してたじゃないですか。それに、そんなに見られてたら覚えますよ」

 迷惑がられているかと思ったがその目は少し照れているようにもみえる。俺が都合良くそう思いたいだけなのかもしれない。
 心臓はまたバクバク鳴って……爆発したのかもしれない。だから俺はあんな意味の分からないことを口走ったんだ。

「あ、あのだな、入学式の日に初めて一ノ瀬を見てから俺はきみが気になって仕方ない。目が離せないんだ。どうしたら良いか分からなくて、一ノ瀬を一目でもみたくて今日もこうして用もないのに一年の校舎に……気になるんだ。俺はどうしたら」

 ストーカーの自白だ。聞かれてもないのに。何を言っているのか、どう締めくくればいいのかも分からなくてゲロみたいに「きみから目が離せない」と言い続けた。あの日ずっと見入ってしまったときのように。もう意味が分からなくて泣きそうだ。

「きみのことがもっと知りたい。あ、俺は三年の水戸部。下の名前はまもる。だ部活は弓道部で家族は両親と妹の四人だ。好きな食べ物は甘い物ならなんでも……特にクリームの入ったドーナツが好きだ。それから……」

 聞かれてもないのに一方的に自己紹介を始める。気持ちと口先ばかりが先走る。
 そんな道化師みたいな俺を一ノ瀬はただじっと見つめて、俺の言葉が詰まったところで口を開いた。気持ち悪がられる、と首筋が一気に冷たくなっていく。

「僕は一年の一ノ瀬ゆうです。って、それはご存じですよね。家族は祖母と二人暮らしです。一緒に住んではいませんが歳の離れた兄がいます。部活はバイトをしたいので入ってないです。甘い物はそんなに……塩辛いもののほうが好きですね」

 こんなに喋る一ノ瀬は初めて見た。だって同級生と話しているときはせいぜい頷いたり一言二言返す程度だったじゃないか。……ここでも自分がどれだけ一ノ瀬をみていたのか自覚させられる。
 まさか、自己紹介を返してくれるとは思わなかった。
 顎に手をやって、思い返すように一ノ瀬が語る。そして一気に言い切ると、ぽかんと口を開けた俺に目をやったまま、一呼吸置いて続ける。

「……つまり、付き合えばいいじゃないですか。僕と」

 まるで授業中、問いに回答するように淡々と告げられた言葉に俺が「え?」という顔をすると、口調と同じように淡々と一ノ瀬が距離を詰めてくる。
 儚げな雰囲気から小さいと思っていた身長も、近くで見ると女子ほど小さくない。
 細い首に浮く喉仏がしっかり男子だと主張している。

「僕と水戸部先輩は今日から恋人同士ですってことです。僕が好きなんですよね?」
「そうか……俺は……」
「……違うんですか?」

 はっきりしない俺を不思議そうに見つめる一ノ瀬に、俺は「違くない!」と言い切って宜しくお願いします、とまるで試合前のように手を差し出した。
「なんですかそれ」と吹き出した一ノ瀬があまりに綺麗で、俺はまた至近距離なのに放心して眺めていた。
 俺ははじめてそこで、胸のうちの感情が恋なのだと気付いたのだ。

 俺は一ノ瀬をずっとみている。だから表情の微かな変化にも気づけるし、そこから感情を推測することもできる。だが、それはきっと俺じゃなくても一ノ瀬を注視していれば誰でも分かることだと思う。俺は一ノ瀬をみていたい。笑って欲しい。なにかしてあげたい。そう思うくせに、俺はして貰ってばかりだ。察して貰ってばかりだ。ソーダパンも、頬へのキスも。告白でさえ、俺は一ノ瀬に直接してないんじゃないか。

 なんで一ノ瀬はこんな俺と付き合ってくれてるんだろう。