高校生活最後の夏休み直前。七月も中旬だ。つまり一ノ瀬と付き合ってから三ヶ月。
俺、水戸部は今日も、一ノ瀬とキスがしたい。
「一ノ瀬、購買の夏季限定ソーダパン食べたか? あれ意外に美味いらしいぞ」
「……先輩の美味いは信じられないですからね。その前の海藻サラダサンドもキツかったし」
「あれはあれで海鮮らしさがでてただろ!」
「パンに海鮮らしさは求めてません」
蝉の声に掻き消されそうになりながら、一ノ瀬とふたりで並んで自転車を押す。俺たちの通う学校は校門前までバスが運行されているため、大抵の生徒が電車とバスを乗り継いで通学している。徒歩圏内にホテル街があることもあり夜遅くなると治安があまりよくないというのも理由のひとつだ。
俺も一ノ瀬と付き合うまで入学から一度も自転車で登校したことがなかった。
クラスはもとより学年が違う俺たちが一緒に過ごせる時間は、昼休みと俺が部活のない放課後のこの帰り道だけだ。電車とバスの定期は解約した。朝練前の自転車通学は体力作りにもなっていいことに引退直前に気付く。片道自転車で一時間半なんてちっとも気にならない。
一分でも長く一ノ瀬と一緒にいたい。最近、俺の頭の中はそればかりだ。
「第一先輩は弁当じゃないですか。わざわざ購買でパンなんて買わなくても……」
一ノ瀬の表情はあまり変わらない。たまに吹き出して笑うこともあるが友達みたいに馬鹿笑いすることも、肩や物を叩いて表現することもない。
「弁当だけだと足らない日もあるからなあ。それに一ノ瀬と同じもの食べて上手かったーって話したいんだよ」
へへっと笑うと、一ノ瀬の表情が微かに反応する。視線を右下に落として薄い唇をきゅっと結ぶ。相変わらず艶々の唇。桃ゼリーみたいでうまそう。最近、そんなことばかり考えている。
一瞬だけこちらを伺うように視線を上げた一ノ瀬と目が合って、急いで煩悩を追い払う。
「……明日、もう一回ソーダパンチャレンジしてみます」
「おう! そしたら俺の弁当とちょっと交換しような」
「……欲張りですね、水戸部先輩」
長い睫毛を揺らして少しだけ細められた目が可愛い。あっという間についてしまった分かれ道で、逆方向へ進むために一ノ瀬が自転車に跨がる。
「また明日……昼、楽しみにしてます」
待ちに待った昼休み。ちなみに今朝は四時起きだった。授業中も眠くて仕方なかったがこの瞬間を楽しみに頑張った。今日は普段は閉鎖されている屋上が半月に一回開放される日で、昼休みの屋上はごった返し……のはずが、あいにくの炎天下で俺と一ノ瀬の貸し切り状態だ。
屋上の倉庫でできた日陰に一ノ瀬と並んで座る。俺は大きめの弁当箱をバッグから取り出して蓋を開けた。
「じゃーん! 今日は唐揚げ弁当だ!」
メインは唐揚げ。外側は焦げ気味だが味は結構いけていると思う。それから卵焼きにピーマン炒めにプチトマト。普段より量が多いのは一ノ瀬が沢山食べるかも知れないと期待して。
「これ先輩が作ったんですか?」
俺の料理が珍しいからか一ノ瀬が目を丸くして弁当から俺を見上げる。
「おう、折角なら俺が作りたいって思って……母さんが作ったほうが美味いんだけどな」
レシピを見ながら作ったのに掲載写真とは別物が出来上がった。腹は壊さなかったし、まずくて食べられないというわけでもない……まあ、そういうレベルだ。
もしかして食べる気がおきないとか、そういうことだろうか。あり得なくもない話なのに想像していなかった。一気に不安が押し寄せる。
だがその不安は一ノ瀬のキラキラ光る目に一瞬で消え失せた。
「すっごく嬉しいです。唐揚げ食べてもいいですか?」
「お、おう! もちろん!」
一ノ瀬が白い指で唐揚げを摘まんで、口に運ぶ。ぱくり、と小動物が木の実を食べるように頬張って、大きな目を更に輝かせた。可愛い口元が綻ぶ。
食べてくれて嬉しい。それと同じくらい唐揚げが羨ましい。恋人の俺より唐揚げのほうが先に一ノ瀬に触れている。……俺はまたなんてことを考えているんだ。
「美味しいです、カリカリだし」
「そ、それはよかった! 卵焼きもあるぞ、ほら」
自分の思考が情けなくて、ひとり慌てる。箸で摘まんだ卵焼きを一ノ瀬の前に差し出した。やってしまったあとで気がつく。これはあーんってやつなのではないか。
箸を持つ手が震える。そんな俺を、見上げる一ノ瀬が顔周りの髪を耳にかけながら卵焼きを大きな口をあけて一口で食べた。
「先輩……見過ぎです」
さすがに照れます、ともぐもぐ口を動かす一ノ瀬の耳が赤くなる。俺は「ご、ごめん」なんて謝った。
「卵焼き、塩味にしてくれたんですね……いつもは甘口なのに」
「た、たまにはな。俺も塩味好きだし」
普段、母さんが作ってくれる卵焼きはケーキみたいに甘い。以前一ノ瀬が卵焼きはしょっぱい派だと言っていたから、自然と砂糖ではなく塩を入れていた。
一緒に食べるならお互い好きな方がもっと嬉しい。そんな俺を見透かすみたいに一ノ瀬はクスッと笑う。
「僕からもあるんです。先輩と一緒に食べようと思って」
一ノ瀬がガサガサとバッグからビニールに包まれたものを取り出した。
てのひらサイズの揚げパンに水色のクリームがサンドされている。購買で夏季限定のソーダパンだ。
「ソーダパン! 買わないんじゃなかったのか?」
ゲテモノ系のパンは一ノ瀬の好みではないらしいし、まさか本当に買ってきているとは思わなかった。
「水戸部先輩こういうの好きじゃないですか……はい」
「……あ、おう……いただきます」
一ノ瀬の手から口元に差し出されたパンに一瞬戸惑いつつ齧り付く。その様子を至近距離で見つめられ妙に気恥ずかしい。一ノ瀬もいつもこんな気持ちなのだろうか。
「結構美味いな」と答えた俺に続いて一ノ瀬がパンを一口食べる。
ソーダ色のクリームがパンから溢れて一ノ瀬の白い手首に落ちる。それを小さな舌が追いかけて拭う。無意識に凝視してしまう。えろい。その舌を食べてみたい。
「こういうのは先輩と食べるに限りますね」
猫みたいに手首を舐め終えた一ノ瀬が視線を上げる。そこで漸く自覚した。無意識に距離を詰めて、互いの息が掛かるほど近づいてしまった。それなのに俺は更に顔を近づけるのを止められない。「ごめん」って言いかけたけれどそれもやめた。ここで謝るのはなんとなく男らしくない気がする。
アスファルトのうえで互いの手が重なる。指を一本握ったら、一ノ瀬も握り返してくれる。自然と指が絡んで心臓がバクバク鳴っている。一ノ瀬の息と自分の心音以外なにも聞こえない。
このまま自然にキスができそうな気がする。でもずっと思ってたんだ。ちゃんと言おう。一ノ瀬とキスがしたいって。
「い、一ノ瀬。俺と――」
「お! 水戸部! なんだよここにいたのかよー」
瞬間、バンッ! と勢いよく屋上の扉が開いた。一気に現実に引き戻された気分で慌てて一ノ瀬から顔を離す。
「あれ? なんで一ノ瀬ちゃん? もしかしてオレお邪魔だった?」
登場したのは同じ弓道部の友達である山口だ。山口は俺と一ノ瀬を交互にみて、頭を掻きながら苦笑する。俺が「どうした? なにか用か?」と聞くと目の前に腰をおろし「部室のカギを持ってないか」と切り出した。まさか、と漁った鞄の中から、弓のキーホルダーのついたカギが出てきたのは言うまででもない。
カギを山口に渡すと、昼休みもそろそろ終わるからとそのまま雑談を続ける。
「ん? お前らってもしかして付き合ってんの?」
「ああ。一ノ瀬が入学して少しした頃俺が告白したんだ」
あれが告白だったかどうか怪しいところだが、この場ではそう言っても問題ないだろう。
即答した俺に友達は少し驚いて、すぐにニカッと笑った。
「俺は彼女と別れたばっかだってのに、マジかよ。いいじゃん。水戸部が一ノ瀬ちゃん一ノ瀬ちゃんってうるせーからオレまで名前覚えちゃったくらいだし」
改めて宜しくー、と山口が一ノ瀬に握手を求める。一ノ瀬は「はい」とだけ答えてそろっと手を出した。声色は相変わらず冷静だけれど、目と雰囲気で緊張しているのだと分かる。
実際俺も緊張していた。ぴったりと横並びで座って隠した後ろ手に手は繋いだままだ。
もんもんとする頭の中、結局一ノ瀬のことでいっぱいだった。
俺、水戸部は今日も、一ノ瀬とキスがしたい。
「一ノ瀬、購買の夏季限定ソーダパン食べたか? あれ意外に美味いらしいぞ」
「……先輩の美味いは信じられないですからね。その前の海藻サラダサンドもキツかったし」
「あれはあれで海鮮らしさがでてただろ!」
「パンに海鮮らしさは求めてません」
蝉の声に掻き消されそうになりながら、一ノ瀬とふたりで並んで自転車を押す。俺たちの通う学校は校門前までバスが運行されているため、大抵の生徒が電車とバスを乗り継いで通学している。徒歩圏内にホテル街があることもあり夜遅くなると治安があまりよくないというのも理由のひとつだ。
俺も一ノ瀬と付き合うまで入学から一度も自転車で登校したことがなかった。
クラスはもとより学年が違う俺たちが一緒に過ごせる時間は、昼休みと俺が部活のない放課後のこの帰り道だけだ。電車とバスの定期は解約した。朝練前の自転車通学は体力作りにもなっていいことに引退直前に気付く。片道自転車で一時間半なんてちっとも気にならない。
一分でも長く一ノ瀬と一緒にいたい。最近、俺の頭の中はそればかりだ。
「第一先輩は弁当じゃないですか。わざわざ購買でパンなんて買わなくても……」
一ノ瀬の表情はあまり変わらない。たまに吹き出して笑うこともあるが友達みたいに馬鹿笑いすることも、肩や物を叩いて表現することもない。
「弁当だけだと足らない日もあるからなあ。それに一ノ瀬と同じもの食べて上手かったーって話したいんだよ」
へへっと笑うと、一ノ瀬の表情が微かに反応する。視線を右下に落として薄い唇をきゅっと結ぶ。相変わらず艶々の唇。桃ゼリーみたいでうまそう。最近、そんなことばかり考えている。
一瞬だけこちらを伺うように視線を上げた一ノ瀬と目が合って、急いで煩悩を追い払う。
「……明日、もう一回ソーダパンチャレンジしてみます」
「おう! そしたら俺の弁当とちょっと交換しような」
「……欲張りですね、水戸部先輩」
長い睫毛を揺らして少しだけ細められた目が可愛い。あっという間についてしまった分かれ道で、逆方向へ進むために一ノ瀬が自転車に跨がる。
「また明日……昼、楽しみにしてます」
待ちに待った昼休み。ちなみに今朝は四時起きだった。授業中も眠くて仕方なかったがこの瞬間を楽しみに頑張った。今日は普段は閉鎖されている屋上が半月に一回開放される日で、昼休みの屋上はごった返し……のはずが、あいにくの炎天下で俺と一ノ瀬の貸し切り状態だ。
屋上の倉庫でできた日陰に一ノ瀬と並んで座る。俺は大きめの弁当箱をバッグから取り出して蓋を開けた。
「じゃーん! 今日は唐揚げ弁当だ!」
メインは唐揚げ。外側は焦げ気味だが味は結構いけていると思う。それから卵焼きにピーマン炒めにプチトマト。普段より量が多いのは一ノ瀬が沢山食べるかも知れないと期待して。
「これ先輩が作ったんですか?」
俺の料理が珍しいからか一ノ瀬が目を丸くして弁当から俺を見上げる。
「おう、折角なら俺が作りたいって思って……母さんが作ったほうが美味いんだけどな」
レシピを見ながら作ったのに掲載写真とは別物が出来上がった。腹は壊さなかったし、まずくて食べられないというわけでもない……まあ、そういうレベルだ。
もしかして食べる気がおきないとか、そういうことだろうか。あり得なくもない話なのに想像していなかった。一気に不安が押し寄せる。
だがその不安は一ノ瀬のキラキラ光る目に一瞬で消え失せた。
「すっごく嬉しいです。唐揚げ食べてもいいですか?」
「お、おう! もちろん!」
一ノ瀬が白い指で唐揚げを摘まんで、口に運ぶ。ぱくり、と小動物が木の実を食べるように頬張って、大きな目を更に輝かせた。可愛い口元が綻ぶ。
食べてくれて嬉しい。それと同じくらい唐揚げが羨ましい。恋人の俺より唐揚げのほうが先に一ノ瀬に触れている。……俺はまたなんてことを考えているんだ。
「美味しいです、カリカリだし」
「そ、それはよかった! 卵焼きもあるぞ、ほら」
自分の思考が情けなくて、ひとり慌てる。箸で摘まんだ卵焼きを一ノ瀬の前に差し出した。やってしまったあとで気がつく。これはあーんってやつなのではないか。
箸を持つ手が震える。そんな俺を、見上げる一ノ瀬が顔周りの髪を耳にかけながら卵焼きを大きな口をあけて一口で食べた。
「先輩……見過ぎです」
さすがに照れます、ともぐもぐ口を動かす一ノ瀬の耳が赤くなる。俺は「ご、ごめん」なんて謝った。
「卵焼き、塩味にしてくれたんですね……いつもは甘口なのに」
「た、たまにはな。俺も塩味好きだし」
普段、母さんが作ってくれる卵焼きはケーキみたいに甘い。以前一ノ瀬が卵焼きはしょっぱい派だと言っていたから、自然と砂糖ではなく塩を入れていた。
一緒に食べるならお互い好きな方がもっと嬉しい。そんな俺を見透かすみたいに一ノ瀬はクスッと笑う。
「僕からもあるんです。先輩と一緒に食べようと思って」
一ノ瀬がガサガサとバッグからビニールに包まれたものを取り出した。
てのひらサイズの揚げパンに水色のクリームがサンドされている。購買で夏季限定のソーダパンだ。
「ソーダパン! 買わないんじゃなかったのか?」
ゲテモノ系のパンは一ノ瀬の好みではないらしいし、まさか本当に買ってきているとは思わなかった。
「水戸部先輩こういうの好きじゃないですか……はい」
「……あ、おう……いただきます」
一ノ瀬の手から口元に差し出されたパンに一瞬戸惑いつつ齧り付く。その様子を至近距離で見つめられ妙に気恥ずかしい。一ノ瀬もいつもこんな気持ちなのだろうか。
「結構美味いな」と答えた俺に続いて一ノ瀬がパンを一口食べる。
ソーダ色のクリームがパンから溢れて一ノ瀬の白い手首に落ちる。それを小さな舌が追いかけて拭う。無意識に凝視してしまう。えろい。その舌を食べてみたい。
「こういうのは先輩と食べるに限りますね」
猫みたいに手首を舐め終えた一ノ瀬が視線を上げる。そこで漸く自覚した。無意識に距離を詰めて、互いの息が掛かるほど近づいてしまった。それなのに俺は更に顔を近づけるのを止められない。「ごめん」って言いかけたけれどそれもやめた。ここで謝るのはなんとなく男らしくない気がする。
アスファルトのうえで互いの手が重なる。指を一本握ったら、一ノ瀬も握り返してくれる。自然と指が絡んで心臓がバクバク鳴っている。一ノ瀬の息と自分の心音以外なにも聞こえない。
このまま自然にキスができそうな気がする。でもずっと思ってたんだ。ちゃんと言おう。一ノ瀬とキスがしたいって。
「い、一ノ瀬。俺と――」
「お! 水戸部! なんだよここにいたのかよー」
瞬間、バンッ! と勢いよく屋上の扉が開いた。一気に現実に引き戻された気分で慌てて一ノ瀬から顔を離す。
「あれ? なんで一ノ瀬ちゃん? もしかしてオレお邪魔だった?」
登場したのは同じ弓道部の友達である山口だ。山口は俺と一ノ瀬を交互にみて、頭を掻きながら苦笑する。俺が「どうした? なにか用か?」と聞くと目の前に腰をおろし「部室のカギを持ってないか」と切り出した。まさか、と漁った鞄の中から、弓のキーホルダーのついたカギが出てきたのは言うまででもない。
カギを山口に渡すと、昼休みもそろそろ終わるからとそのまま雑談を続ける。
「ん? お前らってもしかして付き合ってんの?」
「ああ。一ノ瀬が入学して少しした頃俺が告白したんだ」
あれが告白だったかどうか怪しいところだが、この場ではそう言っても問題ないだろう。
即答した俺に友達は少し驚いて、すぐにニカッと笑った。
「俺は彼女と別れたばっかだってのに、マジかよ。いいじゃん。水戸部が一ノ瀬ちゃん一ノ瀬ちゃんってうるせーからオレまで名前覚えちゃったくらいだし」
改めて宜しくー、と山口が一ノ瀬に握手を求める。一ノ瀬は「はい」とだけ答えてそろっと手を出した。声色は相変わらず冷静だけれど、目と雰囲気で緊張しているのだと分かる。
実際俺も緊張していた。ぴったりと横並びで座って隠した後ろ手に手は繋いだままだ。
もんもんとする頭の中、結局一ノ瀬のことでいっぱいだった。