そんなふうに熱を帯びた彼女の主張に、僕は少ない熱量で反応する。
「悪いんだけど、君の夢はかなりの困難なものだと思うよ。作家に、まして売れっ子になれる人間なんて、ほんの一握りだし。第一、僕は小説を書いたことがない。君のご期待には添えないと思うけど?」
「いやいや、早乙女君、めちゃめちゃ読書家なんでしょ? 実は聞いちゃったんだよね。中学時代からずっと本読んでるって、春香から」
「……………」
 春香というのは、僕と同じ中学出身の藤宮春香のことを指しているのだろう。僕とは高校からの付き合いとなる彼女は、その藤宮春香と仲がいいらしい。
 確かに僕は、中学時代も今と変わらない空き時間の過ごし方をしてきた。別に恥ずべき過去じゃない。ただ、そのことをまったく親しくない第三者に情報漏洩されるとは、思ってもみなかった。
「お願い、力を貸して」
 そして彼女は、依然として縋るような目つきで、じっと僕を見つめてくる。その目にはなにか切迫感に似たものが込められていた。
 僕は辟易する。
「……いやいや、いきなりそんなこと言われても」
「お願い! 編集って言っても、わたしの書く作品を読んで意見してくれるだけでいいから。君くらいしかいないんだよ、本の虫って呼ばれるくらい、わたしの近くで読書に励んでる人は」
「……そもそも、どうして僕なの? 文芸部だったら他の部員に頼めばいいんじゃ……」
「いないの」
「へっ?」
「部員、わたしの他にいないの。ていうか、文芸部、わたしが昨日作ったばっかりなの。校内で活動するために」
「……………」
 なんというか、彼女は呆れるほどバイタリティに満ちた人物のようだった。作家になりたいからと言って、普通、一から部を立ち上げたりするだろうか? 僕なら絶対にしない。そんなご大層な夢を大っぴらにするような胆力を、僕は持ち合わせていない。
 無言で向き合う僕に、彼女はとうとう追い詰められたのか、口を真一文字に結んで「うーっ」とかすかに低く呻き声を上げていた。
 その様子を見て、僕は思わず笑みをこぼしてしまう。
「……なんなの? 君、変わってるね?」
 不覚にも、ほんの少しだけ吹き出してそう言ってしまった。
 目の前に現れて無謀な夢を語る彼女は、まるで異世界から現れた珍獣のように思えてならなかった。
 珍獣めいた彼女は、花を咲かせるように顔を綻ばせる。
「じゃあ、いいの? わたしの作品読んでくれる?」
「……まあ、読んで思ったこと言うだけでいいなら」
 僕は正直、わりと適当に、そんな言葉を返していた。
 小説を書き続けるには、人一倍の才能と忍耐力を求められる。明らかにせっかちな彼女が、それらの要素を兼ね備えているとは、このときの僕にはどうしても思えなかったからだ。
 いずれ書くことを諦めて大人しくなるだろう。そんな軽い気持ちで、僕は彼女の要望を一先ずは受け入れた。
 僕と彼女との、ファーストコンタクトは、こんな具合だった。
 
          2.

 思い返せば思い返すほどむず痒い気持ちになる。なにせ僕らは、形だけとはいえ、高校生の分際で作家と編集者の真似事をしているわけだから。
 彼女は自分のことを、デビュー前の新米作家だと思い込んでいた。
 僕は自分のことを編集者、だとは思わなかったけれど、彼女が描く夢物語に、不思議と正面から向き合うようになっていた。
 彼女はときに僕の口車に乗せられ、それとなく発破をかけられ、件の長編小説を書くまでにいくつかの短編小説を書いた。
 書き上げられた小説に、僕は黙々と目を通しては、歯に衣着せぬ批評を展開し、彼女の小説家魂をこれでもかと叩いた。鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに。
 それが編集者としてのあるべき姿であったのかはわからない。僕らのやっていることは所詮は真似事。
 けれども彼女は、よくこんなことを口にしていた。
「なんでも最初は、ものまねから始まるんだよ」
 憧れたものに手を伸ばし、それを掴むための第一歩は、憧れを模倣することだと言う。少々癪に障ることだけれど、彼女の言うことには不思議な説得力があった。
 いつしか僕は、彼女も小説を書き続ければ、少しずつでも憧れに近づいていくのではないかと、淡い希望を持つようになっていた。
 だから多少の反感を抱くことかあったとしても、大概は黙って彼女の言う通りに行動した。それは今日だって同じだ。
 朝、僕は聞き慣れた着信音で目を覚ました。寝ぼけ眼を擦って、枕元に置いたスマートフォンを手に取ると、そこには彼女の名前が表示されていた。
「……もしもし」
 ぼんやりと靄がかかった意識の中、通話表示をタップし、スマートフォンを耳に当てる。
「おはよー!」
 彼女の元気な声が鼓膜を揺らし、その振動は脳にまで届いたような気がした。
「……今何時だと思ってるの?」
 着信に応答する直前、画面には午前五時台の時刻が表示されていた。
「えへへ、今日お暇ですか?」
 僕の弱々しい抗議を孕んだ質問を、彼女は当然のように無視した。
 僕は頭を掻きむしる。
「……………」
「……………」
「……………」
「……あれ? 聞こえてる?」
「……………」
「もしもーし」
「……聞こえてるけど」
 意地を張るだけ無駄なような気がした。彼女に振り回されるのは日常茶飯事だった。僕は甘んじて彼女の気まぐれを受け入れていたし、編集者としてあえて作家の気まぐれに振り回されてやろうとさえ思っていた。毒を食らわば皿まで、の精神だ。
 電話の向こうで、彼女は歓声を上げる。
「よかったー! じゃあ、早速わたし、奢られてあげるよ」
「奢られてあげるって……」
「一昨日言ってたでしょ? お礼に奢るって。あれ、今日がいいです」
 彼女の言わんとしてることはすぐに察しがついた。先日別れ際にした口約束のことを言っているのだろう。
 今日は日曜日。幸いというべきか不幸というべきか、僕にはなにも予定がなかった。
「……いいけど、何が食べたいの?」
「へへっ、それは現地に着くまでのお楽しみということで」
「……………」
 一瞬、彼女の言葉の裏に不穏な空気を感じたのは気のせいだろうか?
 とにもかくにも、奢ると約束したわけだから、彼女の要望を断るわけにはいかない。彼女がお昼までは次の作品に向けた取材をしようと言ってきたので、十時に県庁所在地の駅で待ち合わせることにした。次回作のことなんて、きっと、まだなにも頭に浮かんいないのだろうけど、外出中になにかいいアイデアが思いつくかもしれない。そんな淡い打算もあった。
 ベッドから身を起こし、洗顔と着替えを行う。出かけるまで読みかけの小説でも読んで自室で過ごそうと思ったものの、時刻はまだ午前六時を過ぎたばかり。とりあえず朝食を摂ろうとリビングに向かうと、母が意外そうな目で僕を迎えてくれた。
「あら? 今日は早いのね」
「……うん、ちょっと傍迷惑なモーニングコールを受けたから」
 僕はそう言って食卓に着く。
 母はすぐにトーストとコーヒーを出してくれた。
 いつもは働きに出ている母と、朝食をともにする。
 うちは母子家庭で、川沿いの賃貸アパートに住居を構えている。母は看護師として多忙な医療現場で働きながら家事も行い、一人っ子の僕をなに不自由なく育ててくれていた。
 子どもながらにそんな母の背中を見てきたせいか、高校を卒業したら国公立の大学に入り、安定した職について収入を得る――いつしか、それが僕の夢になっていた。
 彼女が抱く夢に比べて、あまりに現実的で面白みのない未来像。
 僕が彼女の夢の実現に協力するようになったのは、そんな自分との違いに、憧れに近い感情を抱いているせいかもしれない。
 僕は、彼女がうらやましかった。
 安定や堅実を避けてひたすらに目標に邁進しようとする彼女が、眩しく映っていたのは確かだった。
 そして今だけは、そんな彼女の夢への挑戦へ、僕も近くで肩を貸してみたいと、思うようになっていた。
 僕は一つ嘆息し、苦味の効いたブラックコーヒーを口に含み、トーストを齧る。
 あっという間に朝食を平らげると、椅子から立ち上がった。
「ごちそうさま」