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「まったく、少しは元気出しなよ……」
 学校を出ると、残暑というには暑すぎる九月の空気が、体中にまとわりついてきた。部室内ではエアコンが効いていたこともあり、まるで異世界に放り出されたような気分になる。
 時刻は午後五時を半分ほど回っていた。空は茜色。
 隣を歩く彼女の声が、心なし遠くに聞こえた。
「はぁあ、最悪……」
「そんなに落ち込まないでよ、これも経験なんだから。創作の前に、ネタ被りには注意しとかないと。特に推理小説はそこが命綱になるんだから」
「……ポジティブに考えるならさ、要はわたしのアイデアはプロのそれと遜色なかったわけでしょ?」
 通っている高校から最寄りの駅へと向かう道すがら、河川敷の土手の上で、彼女はやりきれない様子で負け惜しみの言葉を口にする。おそらく、自分が作品に投じてきた時間を、無駄なものだとは認めたくなかったのだろう。
 そんな彼女に、僕は思いやりのつもりで、次のような台詞を投げかけた。
「あのさ、これは過去にない独創的なアイデアだ! ……って息巻いたとしても、案外人間の思考って似通っちゃうものなんだよ? 過去から累計して一体この世にどれだけの物語があると思う? 大切なのは、同じ材料を扱うにしても、料理する側の腕によってはまったくの別の味わいになる、そういうことなんだよ」
 彼女は横目で僕を見る。僕が放った理屈が、今にも折れようとしている心に引っかかったようだった。
「……君は小説の執筆を料理作りに例えたの? だったらわたしの腕はいかほど?」
「うーん? 皿洗いから出直してきやがれ、って感じかな?」
「なにそれ? 死体蹴りもはなはだしいよ……」
 心が完全に折れてしまったようだった。彼女自身、自分の実力を痛いほど思い知っているのだろう。だからこそ技術ではなく発想で勝負しようと練りに練ったトリックが、有名な作品のレプリカにあたるとは思いもよらなかったに違いない。推理小説におけるトリックは、物語の核に値するといっても過言ではない。
 彼女は嘆息し、力なく僕とともに帰路を進み続ける。
「……で、結局賞への応募はどうするの?」
 土手道の終わりに差しかかった頃、僕は傷心の彼女にそんなことを尋ねてみた。
 彼女は答える。
「今回は見送るよーだ。君の話を聞く限り、メインのトリックが既出のものなら、ただの恥さらしにしかならないよ」
「そっか……」  
「もちろん、理由はそれだけじゃないよ? 単純に自分の力量を改めて思い知ったの。君の指摘を受けるうちにね、ぼんやりしてた自分の未熟さが、次々とはっきり見え始めた気がするの。文章力だけじゃなくて、構成力、キャラ設定や専門知識に関しての下調べとかさ。作家として必要な要素が目を覆いたくなるほどに不足してましたね、わたし」
「へえ……」
 彼女にしては謙虚で冷静なもの言いだった。
「君には感謝してる。いつも拙いわたしの小説を読んでくれてありがとう。今思うと、なんだか今回は、特に自分の独りよがりな妄想をお披露目したみたいで、今更だけどすごく恥ずかしくなってきちゃったよ……」
 彼女はそう言ってくすりと笑い、僕の前方に小走りで回り込んでくる。
「もう! 少しはなにか言ってよ! もっと恥ずかしくなっちゃうでしょ?」
「……いや、今さら恥ずかしいとか思うんだ? やっぱり君ってどこかズレてるね」
 僕は素直に思ったままを口にした。
 彼女はますます顔を赤くする。
 その様子を見て、僕はますます意地悪をしたくなった。
「……まあ、なんにしろ、僕ははまた君の頭の中を覗き込めた気がして、楽しかったよ」
「なにそれ? ……ああ、きっと、わたしは初めての長編小説を書き上げたことで、異常な興奮状態に陥ってたんだと思う」
「興奮して血気盛んに僕のところにやってきたわけだ、やらしいね」
「はあ、君ってなんて馬鹿なの」
 そんな他愛のないやりとりをしながら、二つの影がゆらゆらと揺れる。
 土手道の終点にたどり着くと、僕らは自然と立ち止まり、お互いに向き合った。
「じゃあ、また来週。まあ君にしては頑張ったほうだから、そのうちご飯でも奢って労ってあげるよ」
 リップサービスのつもりで僕は言った。今日は金曜日。明日からはお定まりの二連休がやって来る。僕としては、今まで創作活動に酷使させた彼女の頭脳に、久しぶりの休暇を与えてあげるつもりでいた。
 彼女は大げさに口元を両手で隠すと、
「えっ、それってデートのお誘い? 君も結構どさくさに紛れて女の子口説こうとするんだね!」
 さっきまで沈んでいたのが嘘のように、ハイテンションな反応を返す。僕は少しだけ辟易する。
「……君はさ、いっつも頭の中がお花畑だね」
「君に言われたくないよ。てか、荒れ果てた荒野よりはいいでしょ? 花冠、作って上げようか?」
「ひまわりでどうやって作るのさ?」
「げっ、君にとってわたしってそんなイメージなの?」 
「うん」
 彼女はいつも明るい。誰に対してもまっすぐに無邪気な笑顔を向けるその性質は、太陽に向かって背を伸ばす、ひまわりによく似ている。
 ひまわりは、照れたように笑った。
「……まあいいや。じゃあ、今日はこれにて」
 僕と彼女は各々の家路へと着くため、別々の方角へ向き直る。電車通学の彼女はこの先の駅へと向かい、徒歩通学の僕は自宅がある住宅街を目指すことにする。
 彼女に背を向けて歩き始めると、
「ねえ!」
 呼び止められ、僕は反対方向に向かっているはずの彼女に、再び向き直った。
 彼女はこちらを見て、やっぱり大輪の笑顔を咲かせていた。
「ちゃんと奢ってね? 約束だよ?」
 少し離れたところからそう言うと、彼女は胸の前で小さく手を振って、くるりと僕に背を向けた。
 遠ざかる機嫌よさげな背中を見ながら、僕は胸の内の変化に気づく。
 心臓が、少しだけペースを早めていた。

          2.

 彼女と初めて言葉を交わしたのは、高校生活にも慣れ始めた、五月中旬のこと。
 当時、僕は休み時間のほとんどを自分の席で過ごしていた。
 別に、友人がいなかったわけではない。
 僕はどちらかというと、誰かと賑やかに過ごすことよりも、一人で静かに日陰で読書をすることを好んでいた。
 まあ、どちらかといえば陰キャと称される人間ではあったのだろう。
 その日も、僕は昼食を終えたあと、一人で読みかけの小説を読んでいた。
 すると、不意に頭上から声が降ってきたのだった。
「ちょっと失礼」
 言われて顔を上げると、そこには一人の女子がいた。整っているのに、どこか愛嬌を感じさせる柔和な顔立ち。大きな瞳の奥には、好奇心の光が宿っているように見えた。
 同じクラスであるはずの彼女は、じいっと僕の目を見つめると、
「早乙女、千秋くん」
 無造作に僕の名前を呼んだ。
「……なに?」
 当然僕は警戒心を露わにする。
 すると彼女は、怪訝な顔していたはずの僕を見て、なぜだか笑った。
「読書は好き?」
「へっ?」
 あまりに予想外な発言に、頓狂な声を出してしまった。
「君、入学してからいつも本読んでるよね? 小説でしょ? 本は好き?」
「………………」
 僕は応えずに沈黙する。
 彼女はますます笑みを深めて僕を見る。
「……実はさ、君に折り入ってお願いがあるだけど」
「どんなお願い?」
 構わずに話を進める彼女に対し、僕の声には少しだけ険のある響きがこもった。
 それでも、彼女は相変わらず上機嫌に言った。
「わたしの編集者として、文芸部に入ってくれない?」
「……は?」
 僕は思わず、気の抜けた返事をする。
「編集者?」
 彼女は一体、なにを言っているんだろう?
 いきなり話しかけきて、編集者になってくれとは、あまりに話がぶっ飛び過ぎている。
「話が見えてこないんだけど……」
「ああ、ごめんなさい。順を追って説明するね! 実はわたし、三年を目処にプロの作家になりたいんだよね。まだ書き始めたばかりだけど、筆名はもう考えてるの! 読みは本名と同じだけど、名字を漢数字の一ノ瀬にして、名前を茜色の茜にして『一ノ瀬茜』。……どう? いいと思わない?」