1.

 不意に頬をなでた風が、夏草の匂いを運んできた。
 空は、よく晴れていた。
 目の前を流れる川の水面は、夏の終わりの太陽と溶け合って、きらきらと眩い光を放ち続けている。
 九月になったばかりのある日。
 僕は、近所の河川敷に架かる橋のたもとに自転車を停め、川岸から吹いてくる涼やかな風に身を委ねていた。
 時刻は午後三時。
 雑草が生い茂る河川敷は、その周辺を閑静な住宅地に囲まれていた。橋脚(きょうきゃく)の周囲から河岸まではコンクリで段々に舗装されており、橋影でまだまだ厳しい残暑の日差しを避けることもできる。
 その日陰になっているコンクリの上に腰を下ろし、僕は手に、一冊の本を広げていた。
『君の愛する世界が、いつまでも続きますように』――。
 それが、その本のタイトルだった。
 表紙には、忘れることのできない名前も記載されている。
 駅前の書店でその名を目にしたとき、僕は思わず息を飲んだ。
 名前というものは不思議なもので、彼女の台詞を拝借するのならば、それまるで、魔法と同じだ。
 一ノ瀬茜。
 その名を心の中で反芻した瞬間、鮮烈な思い出の数々が、次々と打ち上がる花火のように、燦々と脳内に咲き乱れていった。
 そしてたまらなくせつなくなり、後悔の念に胸を締めつけられると同時に、言いようのない安堵感が湧き上がってきた。
 彼女は言った。
 言葉は、魔法なのだと。
 僕は笑った。
 じゃあ君は、魔法使いだと。
 彼女は嬉しそうに僕を見つめていた。
 屈託のない、純真なまなざしで――。
 彼女の笑顔を最後に見たのは、もう三年も前のことになる。
 あの頃の僕らは、まだまだ世界を知らない高校に上がったばかりの若輩者に過ぎなかった。
 そして今の僕は、大学受験に失敗した予備校通いの浪人生に過ぎないのだから、進歩がないことこのうえない。
 まんまと夢を実現させた彼女とは、比較対象にすらならないだろう。ひょっとすると、この本を読み終えた瞬間、僕はどうしようもないほど離れてしまった彼女との距離を痛感し、しばらくは立ち直ることができなくなるかもしれない。
 けれど僕は、どうしても、この河川敷で彼女の書いた物語に触れてみたいと思ってしまった。
 記憶として蘇るのは、彼女とこの河川敷の土手を歩いた日々。
 いつか見た景色の中で、僕は彼女の書いた物語を読み進めるとともに、もう戻れないあの頃の思い出とも、対峙していた。
 それは、甘く切ない、彼女と過ごした一年間の記憶――。
 僕は、彼女の創った物語の中へ、落ちていく。
 ゆっくりと、まるで、あのかけがえのない日々へ帰るかのように――。

          2.

「だって、考えたらすごくない? 言葉って使い方ひとつで人を感動させたり、嫌な気持ちにさせたり、それこそ人を救うこともできれば、傷つけることだってできる。声に出しても文字で表しても。これはもう魔法以外の何ものでもないでしょ?」
 夕暮れ時。高校の旧校舎、文芸部の部室として使われている古びた教室の中。僕に向かって饒舌に語りかける同級生の市瀬朱音は、宝物を見つけた小さな子どもみたいに、きらきらと目を輝かせていた。
 彼女は本当によく笑い、よくしゃべる。
 一台の机を挟んで向かい合って座る僕の反応が芳しくなくとも、お構いなしに。
「あ、なに言ってんだこいつは? って顔してるね? だったらわたしが今、魔法をかけてあげるよ」
 彼女は自信満々に笑みを湛えたまま、まっすぐに僕の目を見た。
「おほん」
 そう言って、ひとつ息を吸い込んで、
「好きです。わたしと付き合ってください」
 いつもそうだ。彼女は恥ずかしげもなく、ためらいもなく、僕をからかうことに全力を注ぐ。だけど、僕は騙されない。ふーん、と素っ気ない反応で彼女をあしらうことにする。
 彼女は「あれっ?」と、肩透かしを食らったような表情になる。けれど、へこたれず、
「あ、君、今心拍数が上がったよ? 地獄耳のわたしには君の鼓動の高鳴りがよぉく聞こえます。わたしの魔法はこれから徐々に効いてくるんだよ?」
 そんなふうに愉快でたまらないといった様子で、軽口をたたいてくる。
 僕のような根暗とは違って、彼女はどこまでもポジティブで明るい。その明るさに照らされると、日陰を好む僕であっても、いつの間にか太陽の下に連れ出されているような錯覚に陥る。
「……どうでもいいけど、あまり時間がないから邪魔はしないんで欲しいんだけど?」
「ひどっ! こんな可愛い女の子の愛の告白をどうでもいいと!」
「……さすがに通算で三十二回も告白のまねごとされたらね、またかって思うのは当然の帰結だと思うけど?」
「え? 回数数えてたの? きもっ……」
「なんとでも言えばいい」
 そう、僕には彼女の相手をする暇などなかったのだ。身を引いて大げさにリアクションを取る彼女の存在を視界から外し、目の前にあるノートパソコンのディスプレイを注視する。彼女は将来、作家になることを夢見ていた。そして、僕が目を通しているのは、彼女が書き上げた一作の小説だった。目標とするミステリー小説系の文学賞の締め切りが、あと五日に迫っていた。今は、彼女が完成させたこの原稿を、編集者としてチェックしている最中だった。
「……あ、ここ似たような表現が続いてるよ? 二行続けて~のような、~のようだ、って地の文の言い回しがほぼ同じ」
「げっ、ほんとだ」
 彼女はいつの間にか僕の背後に回り、立ったままディスプレイを覗き込んできた。
 僕は遠慮なく、読んでいて引っかかりを覚えた箇所を次々と彼女に告げていく。
「ここはちょっと文章削ったほうがよくない? 『その瞬間、アランは犯人の恐るべき殺害計画を解き明かすための糸口を、流星が夜空を駆け抜けるかのごとき閃きでつかみ取った』……って、なんだが表現ださいし、長ったらしいうえに無理に小難しくかっこつけてる文章でうざく感じるよ? せめて二文に分けたらどう?」
「……君はなに? わたしのちっぽけな自尊心を粉々に砕いて楽しいの?」
「ふーん、自尊心ね。でも、商業作家を目指すなら、くそみそに叩かれる覚悟持ってなきゃだめだと思うよ? 特に自分自身が一番厳しい読者にならなくちゃ、そのための推敲だろ? 読み手を置き去りにした自己満足の文章なんて、よっぽどの尖った才能がない限り、受けつけてくれる人はいないよ?」
 彼女へ対する指摘は、あえてオブラートに包まないように心がけている。さすがの彼女も、多少へこみはするかもしれないけれど、率直な意見をぶつけてくれる読者は、素人作家にとって貴重な存在だ。僕は心を鬼にすることを厭わない。それが彼女のためだと信じているからこそ、そのような心持ちになるのだった。
 それにしても、彼女の書く小説は相変わらず穴だらけで、思わず苦笑がもれてしまう。決して文章力が高いとは言い難い彼女は、三年を目度にプロの小説家になることを目指していた。
 初めてその話を聞き、彼女の書いた小説を読んだときには、到底叶いっこない無謀な夢だと呆れて言葉を失ったほどだった。
 知り合って半年に差し掛かろうとしている現在は、どうにか最後まで読める程度には文章力がついてきたものの、プロへの道のりはまだまだ果てしなく遠いものだと言っていいだろう。
「……で、このトリックについてはどう思うの? わたしとしては、渾身の一撃っていうか、納得のいくものを思いついたつもりなんだけど」
 ディスプレイの中の物語が佳境に差しかかったところで、背後から彼女がそう訊いてきた。
 僕は「あ、うん」と短く声を上げる。
「そこを一番言いたかったんだけどさ、その時計と鏡を使ったトリック……」
「なぁに?」
「だいぶ前に別の作品で使われてるよ、わりと有名な作家の」
「えっ?」
 彼女が呆然と口を開けて固まった。血の気が引いていくとは、まさにこのことだ。 
「本当に?」
「うん、マジのマジ」
 思わず振り向いて彼女を見ると、わかりやすく項垂れていた。
「……そういう肝心なことは早く言ってよぅ」
 彼女の背後で、がらがらとなにかが崩れ去っていく音がする。それは作品にかけた熱意と苦悩と約百五十時間もの創作時間が、跡形もなく崩れ去っていく音だった。