俺は1人大学の図書室にいた。主に古典を扱うコーナーの前に立ち、ぼんやりと目の前の本を見つめている。他の図書館や本屋と違い専門的、本格的な専門書が多く尻込みしてしまう。
それでも何冊か手にとってページをペラペラと捲る。
俺が古典に興味を持つ理由なんて1つしかない。
葵先輩だ。
読書サークルに入部して早1ヶ月。先輩との距離が少しは縮まったからと聞かれたら答えはノーだ。
相変わらず俺は名字呼びだし、先輩が俺に向ける笑顔は誰にでも向ける整ったものだった。
涼介や菜摘先輩のようにイタズラっぽい笑みを向けられることはない。
どうにか先輩との距離を縮めたい。そのために出来ることはないか考えた時、先輩が好きな古典に詳しくなることだった。そんなこと考えていると声を掛けられる。
「あれ、相葉くんだ」
その声色だけで誰か分かる。心臓が僅かに跳ねる。嬉しさと一抹の切なさを混ぜたみたいな不思議な気分を味わう。
俺は素早くバレないように深呼吸をして、何食わぬ顔で振り返った。
「葵先輩。偶然ですね」
先輩が好きな古典コーナーにいて「偶然ですね」はおかしいかな。でも本当に会えるなんて思っていなかった。
「講義が急に休講になっちゃったんだ。でも4限があるから帰れないんだよね」
真面目な葵先輩からは自主休講なんて発想自体ないのだろう。
「もし良かったら4限が始まるまで本を紹介してくれません。俺もすっかり古典にハマってしまって」
葵先輩の顔が途端に輝く。普段の大人っぽい印象が薄れ子供みたいに無邪気に笑う。
くるくる変わる表情に惚れ惚れしながらも罪悪感に胸を締め付けられる。
俺がハマっているのは古典ではなく葵先輩だ。
「読むなら詩集がいい?それとも長編作品がいいかな」
「詩集ですかね。読みやすいし、短い文にも関わらず胸に残り続ける文章に惹かれるんですよ」
「分かる。凄く分かる」
しみじみと頷いてから葵先輩は本棚を物色する。ちなみにここに置かれている古典関係の本は全て読んだらしい。
「そういえば先輩が古典を好きになったきっかけって何かあるんですか」
「あるよ」
葵先輩は鞄から1冊の本を取り出す。その本は見覚えがあった。
「この本。もしかして覚えてる」
首を傾げる葵先輩に頷く。
「はい。葵先輩と初めて会った時、俺が拾った」
「読む」と訊きながら丁寧な手つきで本を差し出される。傷つけないよう慎重に受け取りタイトル「星の雨」を眺める。その後軽く目を通す。すぐに違和感を覚える。
「これって古典ですか」
主人公は高校生の男の子。電車で通学しながら眺める景色は都会の高層ビル。どう考えても今の時代を背景にした小説だった。
「古典じゃないよ。ただこの主人公が恋をする相手が好きなの」
「古典をですか」
「そう。その女の子、朱莉(あかり)はとにかく古典が好きなの。時間があれば万葉集なり古事記なりを読んでる」
「はぁ」
「それで朱莉が今まで読んできた物ってなんだろう。この子はどんなことを感じてきたんだろう。そんな疑問を抱いたから私も古典を読み始めたの」
普段穏やかな先輩の口調に熱が込められる。よほどこの小説や朱莉が好きなのだろう。けれど。
「朱莉が古典を好きだから葵先輩も古典を好きなんですか」
そうだとしたら作中のキャラの行動を真似てるだけ。本人の意思など関係ない。そんな俺の疑惑を首を振って否定する。
「朱莉はきっかけをくれただけ。古典を好きなのは純粋に面白いから。でもね、こんなに面白いものを教えてくれたからこそ朱莉が、この小説が大好きなの」
いつになく饒舌に喋る。それから内緒話をするみたいに俺に近づき手を口元に添える。
「この作者さん、ここの大学の卒業生なんだよ」
「だから葵先輩はこの大学に進学したんですか」
「そうだよ」
「それは……反対されなかったんですか」
葵先輩は元々偏差値70は超える名門校に通っていた。また両親は娘の教育に熱心だったらしい。対して今俺らが通っている大学は偏差値50ほど。親や教師が無条件で応援してくれるとは思えなかった。
「すっごく反対された。でも私はこの大学に通いたかったから。説得したよ」
晴れやかな笑顔を浮かべる。意外と頑固みたいだ。葵先輩の新たな一面を知れた。それだけで今日1日がとても鮮やかになった気がした。
「その本、図書館にも置いてありますかね」
「あるよ」
「なら今日は星の雨を借ります。葵先輩がそんなにハマる本、気になるので」
「そっか。とても面白いから是非読んでみてほしい」
葵先輩は花が綻ぶような可憐な笑みを浮かべた。
葵先輩が古典を好きになり、更に大学まで決めたキッカケとなった1冊。先輩のルーツとも言えるかもしれない大事な小説。そんな大切な物を教えてくれたことが嬉しかった。
家に帰ったら早速読もうと決意する。