――翌日
手当てが早かったこともあり、カズナリの足はだいぶよくなっていた。テーピングで固定しておけば、それほど痛みもない。
いつものように朝練に参加し、いつものようにしごかれ、一年をしごく。マネジャーの姿は、なかった。一昨日カズナリにマネジャーが呼んでいる、と伝えに来たハイジャンの一年の姿も見当たらない。
朝練終わりの短いミーティングで、マネジャーが受験のために辞めたことと、見当たらなかったハイジャンの一年が一身上の都合で辞めたことが告げられる。例の録音のことは、顧問と部長の胸の中でしまっておくようだ。ただ、顧問が珍しく強い口調で、
「お前らはみんなライバルだ。だが、同時に大切なチームメイトでもある。それを忘れるな」
とひとことだけ言う。それはもういないマネジャーに向けられた言葉である、ということに気がついたのはアキミとカズナリ、そして部長だけだった。
「――テヅカヤマ」
珍しく部長がカズナリに声を掛ける。長距離の選手で、カズナリとは接点がない。
「はい」
「その……あ、足どうだ?」
「あ、大丈夫です。一週間もすれば元通りの予定です」
「あー、その……悪かったな……マネジャー……ノグチの……その……」
そこで初めてマネジャーがノグチという苗字だったことを知る。
「俺たちのフォローがマズかったんだってことは、昨日三年で話し合ったよ。お前に迷惑かけるとはまさか思わなくて……本当にすまん」
小柄で日に焼けた痩せた体が、カズナリに頭を下げる。
「いえ、部長たちのせいじゃないです。ただ、自分の態度が生意気で鼻についたんでしょう。自分も悪いところがあったんだと思います。頭上げてください」
慌ててカズナリがそう言うと、部長がさらに頭を下げる。
「お前は陸上界の宝だ。そんな大切なやつに怪我させて……申し訳ない。頼むから陸上辞めるとか、考えないで欲しい」
「考えてないです。これからも跳びますから、だから、本当に頭を上げてください」
「……俺は悔しいよ。あいつ、そんなことするやつじゃなかったのに、そんな大それたこと出来るやつじゃなかったのに、なんでお前を標的にしたのか……止められなかった自分が悔しい……部長だなんて、そんな器じゃないかもしれん」
「部長は立派な部長の器です。だからそんなに自分責めないでください」
「許して……もらえるのか……?」
「許すも許さないも、部長は悪くないですから」
悪いのは、マネジャーだけだ。巻き添えを食った形で部活を辞めた一年も、かわいそうなことをした、とカズナリは思う。未来があったかも知れない一年を巻き込んだ、マネジャーが許せなかった。
だが、怪我でジャンパーの道を断たれたマネジャーにも、同情の余地はないこともない。自分がもしそうなったら、そして目の前できらめく才能を見せつけられたら、平常心でいられるだろうか。なんだかんだ言っても、自分もまた、陸上を愛している。でも、だからこそ、新しい芽を潰すような暴挙に出てはいけないのだ、と考えが辿り着いた。
「部長、もういいです。本当に」
そう言って頭を下げ続ける部長の顔を覗き込むと、悔しそうに泣いていた。それは、見たくなかった部長の涙だった。上下関係の厳しい部活で、後輩に涙まで流して頭を下げるのは屈辱だろう。そう考えると胸が痛んだ。
「大丈夫ですから、本当に俺、大丈夫ですから」
そう言うと、やっと部長は頭を上げた。涙を見られるのが恥ずかしいらしく、ぐい、とジャージの袖で顔を拭いている。
「……明日から、またよろしくな」
「はい!」
なるべく元気に返事をして、ぴょこぴょこと、心配顔のアキミのところへ走っていく。
「なんだった? 部長」
「ん、マネジャーのこと。フォローできてなくて、申し訳なかったって」
「ああ」
「お前が録音してくれてたおかげで、誤解もされないですんなりいったよ。助かった」
「いや、まあ、その、野生の勘だな」
「頼りにしてる。その野生の勘」
「あーもう、なんか恥ずい。シャワー行こうぜ、シャワー」
「うん」
――たったったっと軽快にふたりが走り出す。そこには風の流れが、鳥の羽ばたきが確かにあった。
ふたりの物語はまだ始まったばかりだ。
おしまい
手当てが早かったこともあり、カズナリの足はだいぶよくなっていた。テーピングで固定しておけば、それほど痛みもない。
いつものように朝練に参加し、いつものようにしごかれ、一年をしごく。マネジャーの姿は、なかった。一昨日カズナリにマネジャーが呼んでいる、と伝えに来たハイジャンの一年の姿も見当たらない。
朝練終わりの短いミーティングで、マネジャーが受験のために辞めたことと、見当たらなかったハイジャンの一年が一身上の都合で辞めたことが告げられる。例の録音のことは、顧問と部長の胸の中でしまっておくようだ。ただ、顧問が珍しく強い口調で、
「お前らはみんなライバルだ。だが、同時に大切なチームメイトでもある。それを忘れるな」
とひとことだけ言う。それはもういないマネジャーに向けられた言葉である、ということに気がついたのはアキミとカズナリ、そして部長だけだった。
「――テヅカヤマ」
珍しく部長がカズナリに声を掛ける。長距離の選手で、カズナリとは接点がない。
「はい」
「その……あ、足どうだ?」
「あ、大丈夫です。一週間もすれば元通りの予定です」
「あー、その……悪かったな……マネジャー……ノグチの……その……」
そこで初めてマネジャーがノグチという苗字だったことを知る。
「俺たちのフォローがマズかったんだってことは、昨日三年で話し合ったよ。お前に迷惑かけるとはまさか思わなくて……本当にすまん」
小柄で日に焼けた痩せた体が、カズナリに頭を下げる。
「いえ、部長たちのせいじゃないです。ただ、自分の態度が生意気で鼻についたんでしょう。自分も悪いところがあったんだと思います。頭上げてください」
慌ててカズナリがそう言うと、部長がさらに頭を下げる。
「お前は陸上界の宝だ。そんな大切なやつに怪我させて……申し訳ない。頼むから陸上辞めるとか、考えないで欲しい」
「考えてないです。これからも跳びますから、だから、本当に頭を上げてください」
「……俺は悔しいよ。あいつ、そんなことするやつじゃなかったのに、そんな大それたこと出来るやつじゃなかったのに、なんでお前を標的にしたのか……止められなかった自分が悔しい……部長だなんて、そんな器じゃないかもしれん」
「部長は立派な部長の器です。だからそんなに自分責めないでください」
「許して……もらえるのか……?」
「許すも許さないも、部長は悪くないですから」
悪いのは、マネジャーだけだ。巻き添えを食った形で部活を辞めた一年も、かわいそうなことをした、とカズナリは思う。未来があったかも知れない一年を巻き込んだ、マネジャーが許せなかった。
だが、怪我でジャンパーの道を断たれたマネジャーにも、同情の余地はないこともない。自分がもしそうなったら、そして目の前できらめく才能を見せつけられたら、平常心でいられるだろうか。なんだかんだ言っても、自分もまた、陸上を愛している。でも、だからこそ、新しい芽を潰すような暴挙に出てはいけないのだ、と考えが辿り着いた。
「部長、もういいです。本当に」
そう言って頭を下げ続ける部長の顔を覗き込むと、悔しそうに泣いていた。それは、見たくなかった部長の涙だった。上下関係の厳しい部活で、後輩に涙まで流して頭を下げるのは屈辱だろう。そう考えると胸が痛んだ。
「大丈夫ですから、本当に俺、大丈夫ですから」
そう言うと、やっと部長は頭を上げた。涙を見られるのが恥ずかしいらしく、ぐい、とジャージの袖で顔を拭いている。
「……明日から、またよろしくな」
「はい!」
なるべく元気に返事をして、ぴょこぴょこと、心配顔のアキミのところへ走っていく。
「なんだった? 部長」
「ん、マネジャーのこと。フォローできてなくて、申し訳なかったって」
「ああ」
「お前が録音してくれてたおかげで、誤解もされないですんなりいったよ。助かった」
「いや、まあ、その、野生の勘だな」
「頼りにしてる。その野生の勘」
「あーもう、なんか恥ずい。シャワー行こうぜ、シャワー」
「うん」
――たったったっと軽快にふたりが走り出す。そこには風の流れが、鳥の羽ばたきが確かにあった。
ふたりの物語はまだ始まったばかりだ。
おしまい