ことが起きたのはとある夜のこと。一年のハイジャン担当がカズナリを呼びに来た。晩飯も風呂も終わった自由時間。こんな遅くになんの用だ、と聞くとマネジャーがカズナリに見せたい動画があると言って部室で待っているという。そんなことは今まで一度もなかったので、おかしいな、とちょっと思う。ただ、マネジャーは元々ハイジャンの選手で、怪我でその競技人生を諦めたとちらりと聞いたことがある。同じハイジャンできっと見るべきなにかがあるのだろう、とカズナリはジャージのままでついて行こうとした。それを、アキミが止める。
「ちょい待ち、俺も行く」
「は?」
「俺は隠れてっから、お前はマネジャーのとこ行けよ」
「なに言って……」
「いいから。なんかあったらすぐに飛び込む」
「なにも別にケンカしに行くわけじゃないし…」
「いいから! たまには俺の言うこと聞け」
「……わかったよ」
こういう時のアキミは、相手の言うことを一切聞かない。それがわかっていたからカズナリもそれ以上言い募るのを止めた。一年は少し困った顔をしたが、アキミはお前はなんも知らんかったって言えばいいから、となだめすかす。
ジャージのままで三人は、寮と部室棟の分かれるところまで来る。
「じゃ、自分はここで」
一年はそのまま寮に戻って行った。
「――テヅカヤマです」
とんとんとん、とノックをすると、入れ、と指示が出るが、外から見る部室は真っ暗だった。おかしい、とちらりと思うがなにがどう待ち受けているかがわからない。
「――失礼しま……!」
真っ暗な部室は目が慣れていないのでよく見えない。だが何者かが入るなりカズナリの足を力いっぱい蹴り、それを粘着テープでぐるぐる巻きにするのはわかった。両手も合わせてぐるぐる巻きにされて、口にも粘着テープが貼られて声が出ない。
「よう、ハイジャンのエリートさん」
その声は紛れもなくマネジャーのものだったがなんでこんなことをされるのか、皆目見当もつかない。なぜ? と問いかけるが、粘着テープを貼られているのでくぐもった呻き声しか出ない。
「お前さ、俺がどんな気持ちでハイジャン見てるか知ってるか?」
……恨まれている。咄嗟にそう思って外に出ようとするが、その足を踏みつけられる。鈍く足が痛む。ジャンバーにとって足は宝だ。なんとか庇おうと必死に目を左右に動かす。
「……俺だって……俺だって将来を嘱望されてた。それがたった一回の怪我でおしまいだ。お前にわかるか、この気持ち。やりたくもないマネジャーにされて、俺の昔と変わらない連中の面倒見て、それで目の前で、お前が跳ぶんだ。あの頃の俺みたいに」
マネジャーの両目がギラギラと輝き出す。まるで獣の目だ。
「どうする? 足の靭帯でも切ってやろうか?」
「――はい! そこまで!」
ばん! とアキミがドアを開けた。
「……お、お前……タカスギ……なんで……」
「今までの会話は全部録音してました。これ証拠にして、早速今から緊急招集して部会にかけましょうか?」
「なんで……お前がここに……」
「カズのピンチは、俺のピンチですよ」
部室には鍵が外側からしかかけられない。つまり、アキミは決定的な言葉が出るまで、じっと部室の外でマネジャーの言い分を録音していたのだ。それまで、カズナリが無事であることを祈りながら。
「マネジャー、あんたの事故は不幸だったかもしれない。でも、そんなに見るのがつらいなら、跳ばれるのが憎いなら、なんで辞めなかったんだ。卑怯だ!」
「この……黙ってればいい気になりやがって……!」
逆上したマネジャーが、部室のパイプ椅子を振り上げる。が、それを振り下ろすより早く、椅子ごとアキミがマネジャーを蹴った。
「行くぞ、カズ!」
頭を打ったらしいマネジャーが呻いている間に、アキミが手早く粘着テープを剥がして、カズナリを自由にする。
「……尊敬、してました……」
かすれた声でかなしそうにカズナリが言うと、行くぞ! とアキミがぐんぐんとその細っこい背を押して、自分たちの部屋に戻る。なにかマネジャーが言っていたが、聞かないふりで。
「……なんで……気がついた?」
「え?」
「なんで……マネジャーが俺狙ってるって気がついた?」
「なんか前からお前に対して当たりキツいときあったからな、なんとなく」
「俺、尊敬してたんだ……あのひと……現役じゃなくなっても陸上から離れないで……裏方になって……頑張ってくれてて……すごいなって……尊敬してたんだよ……」
はらはらと、座ったままでカズナリが涙をこぼす。めったに泣かないカズナリが、この世の終わりのような顔で涙を流していた。
「そんな顔すんな。あのひとは陸上に負けたんだ。勝負にも、陸上そのものにも負けたんだ。やりたくないのに無理矢理に心を殺して、負けた陸上に取り殺されたんだ」
言い聞かせるようにゆっくりと言うアキミの言葉に、カズナリがかなしげな顔のままで、そう思うしかないのか、と涙声で聞く。
「それ以外ねえよ。それよか足、見せてみ」
「いい」
「よくねえよ。大事な足をあんな乱暴に扱われて、なんかあったらただじゃおかねえし」
「いいって!」
「カズ!」
びくり、とカズナリの動きが止まる。
「大事な足だ。俺にとっても」
ジャージをまくり上げると、細い足首のあたりが赤く腫れていた。
「うわ……骨いってねぇよな」
アキミはテキパキと薬箱から消毒薬とガーゼと湿布を出してくる。そして、消毒してからそこを丹念に拭い、湿布を貼る。
「氷のほうがいいかも……寮母さん起きてるかな」
「も……大丈夫だから……」
「嘘つけ。立てねぇだろ、今」
「立て……る」
「立ってみろよ」
アキミの言葉によろ、となりながらも立ってみせる。が、痛みで右足をつくことができない状態だった。
「ほら見ろ。医療室行こう」
アキミの声に、カズナリはふるふると左右に首を振る。
「なんで?!」
「そ……なことしたら……マネジャーが……」
「あいつはもうマネジャーじゃねえってば! あんな目に遭ってまだそんな頭あったけえこと言ってんだよ!」
アキミの怒声にびくん! とカズナリが肩を震わせる。
「あ……ごめ……一番ショックなの、お前だもんな」
「俺……もうどうしたらいいのかわからない……」
カズナリは混乱していた。尊敬こそすれ、憎悪など一度も抱いたことのない相手から、再起不能にしてやろうかと脅されて、それが結構本気で、そして激しく憎まれていて……もう世界中から拒絶されている思いだった。
「――今のカズに届くかわかんねぇけど、俺はカズが好きだよ。ずっと前から、ずっとずっと好きだ。あんなやつに好きにされるなんて、俺が許さない。カズは、冷静で優しくて、厳しくて、それでもやっぱりいいやつで、俺はそんなお前が大好きだよ」
ふわり、とカズナリを抱きしめて、長い間一緒にいるこの相棒の、好きなところをアキミが思いつく限り言っていく。抱きしめた体があんまり冷たくて、それに自分の熱を移すようにじっくりと抱いて、離さない。頬を流れる涙も、くちびるでみんなすくい取る。
これが愛情なのか、友情なのかがわからず、アキミも混乱するが、愛情でいいや、と思い直す。カズナリがかなしければ、そのかなしさを。つらければ、そのつらさを。半分でも全部でも持ってやりたいと願う。それでカズナリが救われるなら、自分なんてなくなったってかまわない。心底そう思った。
――アイシテイマス――
祈りのようなその思いが、果たして言葉になったかどうか、アキミにはわからなかった。
「……ハイジャン、辞めんなよ」
「――今は……もう跳ぶの怖いし……わからない」
正直な弱音の言葉に、カズナリの心の傷が見えた気がした。
「逃げんなよ。それじゃあ、あいつの思うツボだ。いつもみたいに跳んで、見返してやれ」
「怖いんだよ……俺が跳ぶので……どこかで傷ついてるかも知れないひとがいることが」
「そんなの気にしちゃダメだ。お前は誰よりも跳べるんだから」
「お前に何がわかる! 信頼してた人に裏切られて、憎まれてて、傷つけてて……!」
涙声のカズナリの言葉は、カズナリの本当だった。
「……俺は……誰も傷つけたくない」
「カズ……俺たちのいるのは、勝負の世界だよ。勝つやつがいれば、負けるやつがいる。負けたやつはうんと練習して、次は負けないように体も、気持ちも、鍛えるんだ……あいつは怪我のせいにして、両方から逃げた……そんなやつのために……鍛えまくってるお前が負けることない。傷ついたって言ってたけど、あれは自滅したんだよ……そんなやつ、陸上する資格ねえよ」
「……アキ……」
それはカズナリが欲しかった言葉。自分の中でなんとか消化しようとして苦しんでいたことを、すうっと消化させてくれる、魔法のような言葉だ。
「お前は頑張れる。昔からいつも頑張ってきたし、これからも頑張れる。大丈夫、誰かに憎まれるのなんて、気にしなくていい。お前が強い証拠だ」
「俺が……強い……?」
「お前は強いよ、誰より。メダルもらったろ、たくさん。あれはお前が強い証拠だ。自信持て」
「自信……」
「練習したろ、すげえ。誰にも負けないくらい、練習したろ。お前は全然逃げてない、だから強いんだ」
な、とカズナリの頭をくしゃりと撫でる。柔らかな髪の感触。どんなに短くしても、アキミのようにかたくつんつん立ったりしない。カズナリの心のような、柔らかで、しなやかな優しい髪の毛。これ以上他人を傷つけるのが怖い、とカズナリは泣いた。それは、自分に向けられる憎悪の思いが怖いのだ。知らず知らずのうちに向けられる憎悪。それは暗く、冷酷な感情で。どこかで自分の失敗を強く願う、その思いが怖いのだ。一所懸命やっていれば、報われると信じていた。それが足元から崩れた恐怖。
「お前がそれでも怖いって言うなら、俺がついてってやる。俺がお前を憎む全部、やっつけてやる。だから、陸上辞めんな。こんなことで負けんな。オレが全部守るから」
「でも俺は、きっとお前を守れない……こんなに根性無しだとは、自分でも思ってなかった」
「いいよ、カズにしか守れないものがあるし……その……俺自身のメンタルはお前次第だから」
「え……?」
「お前が調子良けりゃ、俺も調子いいし、お前が落ち込んでりゃ、俺もなんか落ち込むんだよ……だから……」
「たから……?」
「今、滅茶苦茶に落ち込んでる。怪我、させちゃったし」
「なんでアキが落ち込むんだよ。憎まれてたのは、俺なのに……」
「な、おかしいよな……でも、お前が泣いてるのを見るのは……つらいよ」
抱きしめた体温が同じになる頃、ふたりは初めて体を合わせた。そうはいっても詳しい方法はわからず、ただ愛し気に体を擦り寄せているだけだった。でもふたりには、今はそれで充分で。
その晩は、アキミのベッドでふたりは眠った。
「ちょい待ち、俺も行く」
「は?」
「俺は隠れてっから、お前はマネジャーのとこ行けよ」
「なに言って……」
「いいから。なんかあったらすぐに飛び込む」
「なにも別にケンカしに行くわけじゃないし…」
「いいから! たまには俺の言うこと聞け」
「……わかったよ」
こういう時のアキミは、相手の言うことを一切聞かない。それがわかっていたからカズナリもそれ以上言い募るのを止めた。一年は少し困った顔をしたが、アキミはお前はなんも知らんかったって言えばいいから、となだめすかす。
ジャージのままで三人は、寮と部室棟の分かれるところまで来る。
「じゃ、自分はここで」
一年はそのまま寮に戻って行った。
「――テヅカヤマです」
とんとんとん、とノックをすると、入れ、と指示が出るが、外から見る部室は真っ暗だった。おかしい、とちらりと思うがなにがどう待ち受けているかがわからない。
「――失礼しま……!」
真っ暗な部室は目が慣れていないのでよく見えない。だが何者かが入るなりカズナリの足を力いっぱい蹴り、それを粘着テープでぐるぐる巻きにするのはわかった。両手も合わせてぐるぐる巻きにされて、口にも粘着テープが貼られて声が出ない。
「よう、ハイジャンのエリートさん」
その声は紛れもなくマネジャーのものだったがなんでこんなことをされるのか、皆目見当もつかない。なぜ? と問いかけるが、粘着テープを貼られているのでくぐもった呻き声しか出ない。
「お前さ、俺がどんな気持ちでハイジャン見てるか知ってるか?」
……恨まれている。咄嗟にそう思って外に出ようとするが、その足を踏みつけられる。鈍く足が痛む。ジャンバーにとって足は宝だ。なんとか庇おうと必死に目を左右に動かす。
「……俺だって……俺だって将来を嘱望されてた。それがたった一回の怪我でおしまいだ。お前にわかるか、この気持ち。やりたくもないマネジャーにされて、俺の昔と変わらない連中の面倒見て、それで目の前で、お前が跳ぶんだ。あの頃の俺みたいに」
マネジャーの両目がギラギラと輝き出す。まるで獣の目だ。
「どうする? 足の靭帯でも切ってやろうか?」
「――はい! そこまで!」
ばん! とアキミがドアを開けた。
「……お、お前……タカスギ……なんで……」
「今までの会話は全部録音してました。これ証拠にして、早速今から緊急招集して部会にかけましょうか?」
「なんで……お前がここに……」
「カズのピンチは、俺のピンチですよ」
部室には鍵が外側からしかかけられない。つまり、アキミは決定的な言葉が出るまで、じっと部室の外でマネジャーの言い分を録音していたのだ。それまで、カズナリが無事であることを祈りながら。
「マネジャー、あんたの事故は不幸だったかもしれない。でも、そんなに見るのがつらいなら、跳ばれるのが憎いなら、なんで辞めなかったんだ。卑怯だ!」
「この……黙ってればいい気になりやがって……!」
逆上したマネジャーが、部室のパイプ椅子を振り上げる。が、それを振り下ろすより早く、椅子ごとアキミがマネジャーを蹴った。
「行くぞ、カズ!」
頭を打ったらしいマネジャーが呻いている間に、アキミが手早く粘着テープを剥がして、カズナリを自由にする。
「……尊敬、してました……」
かすれた声でかなしそうにカズナリが言うと、行くぞ! とアキミがぐんぐんとその細っこい背を押して、自分たちの部屋に戻る。なにかマネジャーが言っていたが、聞かないふりで。
「……なんで……気がついた?」
「え?」
「なんで……マネジャーが俺狙ってるって気がついた?」
「なんか前からお前に対して当たりキツいときあったからな、なんとなく」
「俺、尊敬してたんだ……あのひと……現役じゃなくなっても陸上から離れないで……裏方になって……頑張ってくれてて……すごいなって……尊敬してたんだよ……」
はらはらと、座ったままでカズナリが涙をこぼす。めったに泣かないカズナリが、この世の終わりのような顔で涙を流していた。
「そんな顔すんな。あのひとは陸上に負けたんだ。勝負にも、陸上そのものにも負けたんだ。やりたくないのに無理矢理に心を殺して、負けた陸上に取り殺されたんだ」
言い聞かせるようにゆっくりと言うアキミの言葉に、カズナリがかなしげな顔のままで、そう思うしかないのか、と涙声で聞く。
「それ以外ねえよ。それよか足、見せてみ」
「いい」
「よくねえよ。大事な足をあんな乱暴に扱われて、なんかあったらただじゃおかねえし」
「いいって!」
「カズ!」
びくり、とカズナリの動きが止まる。
「大事な足だ。俺にとっても」
ジャージをまくり上げると、細い足首のあたりが赤く腫れていた。
「うわ……骨いってねぇよな」
アキミはテキパキと薬箱から消毒薬とガーゼと湿布を出してくる。そして、消毒してからそこを丹念に拭い、湿布を貼る。
「氷のほうがいいかも……寮母さん起きてるかな」
「も……大丈夫だから……」
「嘘つけ。立てねぇだろ、今」
「立て……る」
「立ってみろよ」
アキミの言葉によろ、となりながらも立ってみせる。が、痛みで右足をつくことができない状態だった。
「ほら見ろ。医療室行こう」
アキミの声に、カズナリはふるふると左右に首を振る。
「なんで?!」
「そ……なことしたら……マネジャーが……」
「あいつはもうマネジャーじゃねえってば! あんな目に遭ってまだそんな頭あったけえこと言ってんだよ!」
アキミの怒声にびくん! とカズナリが肩を震わせる。
「あ……ごめ……一番ショックなの、お前だもんな」
「俺……もうどうしたらいいのかわからない……」
カズナリは混乱していた。尊敬こそすれ、憎悪など一度も抱いたことのない相手から、再起不能にしてやろうかと脅されて、それが結構本気で、そして激しく憎まれていて……もう世界中から拒絶されている思いだった。
「――今のカズに届くかわかんねぇけど、俺はカズが好きだよ。ずっと前から、ずっとずっと好きだ。あんなやつに好きにされるなんて、俺が許さない。カズは、冷静で優しくて、厳しくて、それでもやっぱりいいやつで、俺はそんなお前が大好きだよ」
ふわり、とカズナリを抱きしめて、長い間一緒にいるこの相棒の、好きなところをアキミが思いつく限り言っていく。抱きしめた体があんまり冷たくて、それに自分の熱を移すようにじっくりと抱いて、離さない。頬を流れる涙も、くちびるでみんなすくい取る。
これが愛情なのか、友情なのかがわからず、アキミも混乱するが、愛情でいいや、と思い直す。カズナリがかなしければ、そのかなしさを。つらければ、そのつらさを。半分でも全部でも持ってやりたいと願う。それでカズナリが救われるなら、自分なんてなくなったってかまわない。心底そう思った。
――アイシテイマス――
祈りのようなその思いが、果たして言葉になったかどうか、アキミにはわからなかった。
「……ハイジャン、辞めんなよ」
「――今は……もう跳ぶの怖いし……わからない」
正直な弱音の言葉に、カズナリの心の傷が見えた気がした。
「逃げんなよ。それじゃあ、あいつの思うツボだ。いつもみたいに跳んで、見返してやれ」
「怖いんだよ……俺が跳ぶので……どこかで傷ついてるかも知れないひとがいることが」
「そんなの気にしちゃダメだ。お前は誰よりも跳べるんだから」
「お前に何がわかる! 信頼してた人に裏切られて、憎まれてて、傷つけてて……!」
涙声のカズナリの言葉は、カズナリの本当だった。
「……俺は……誰も傷つけたくない」
「カズ……俺たちのいるのは、勝負の世界だよ。勝つやつがいれば、負けるやつがいる。負けたやつはうんと練習して、次は負けないように体も、気持ちも、鍛えるんだ……あいつは怪我のせいにして、両方から逃げた……そんなやつのために……鍛えまくってるお前が負けることない。傷ついたって言ってたけど、あれは自滅したんだよ……そんなやつ、陸上する資格ねえよ」
「……アキ……」
それはカズナリが欲しかった言葉。自分の中でなんとか消化しようとして苦しんでいたことを、すうっと消化させてくれる、魔法のような言葉だ。
「お前は頑張れる。昔からいつも頑張ってきたし、これからも頑張れる。大丈夫、誰かに憎まれるのなんて、気にしなくていい。お前が強い証拠だ」
「俺が……強い……?」
「お前は強いよ、誰より。メダルもらったろ、たくさん。あれはお前が強い証拠だ。自信持て」
「自信……」
「練習したろ、すげえ。誰にも負けないくらい、練習したろ。お前は全然逃げてない、だから強いんだ」
な、とカズナリの頭をくしゃりと撫でる。柔らかな髪の感触。どんなに短くしても、アキミのようにかたくつんつん立ったりしない。カズナリの心のような、柔らかで、しなやかな優しい髪の毛。これ以上他人を傷つけるのが怖い、とカズナリは泣いた。それは、自分に向けられる憎悪の思いが怖いのだ。知らず知らずのうちに向けられる憎悪。それは暗く、冷酷な感情で。どこかで自分の失敗を強く願う、その思いが怖いのだ。一所懸命やっていれば、報われると信じていた。それが足元から崩れた恐怖。
「お前がそれでも怖いって言うなら、俺がついてってやる。俺がお前を憎む全部、やっつけてやる。だから、陸上辞めんな。こんなことで負けんな。オレが全部守るから」
「でも俺は、きっとお前を守れない……こんなに根性無しだとは、自分でも思ってなかった」
「いいよ、カズにしか守れないものがあるし……その……俺自身のメンタルはお前次第だから」
「え……?」
「お前が調子良けりゃ、俺も調子いいし、お前が落ち込んでりゃ、俺もなんか落ち込むんだよ……だから……」
「たから……?」
「今、滅茶苦茶に落ち込んでる。怪我、させちゃったし」
「なんでアキが落ち込むんだよ。憎まれてたのは、俺なのに……」
「な、おかしいよな……でも、お前が泣いてるのを見るのは……つらいよ」
抱きしめた体温が同じになる頃、ふたりは初めて体を合わせた。そうはいっても詳しい方法はわからず、ただ愛し気に体を擦り寄せているだけだった。でもふたりには、今はそれで充分で。
その晩は、アキミのベッドでふたりは眠った。