大翔に礼を言い塾へ送り出すと、自然と長い息が漏れた。
空になったグラスに目を遣り、軽く手をあげて店員を呼ぶ。紅茶をもう一杯頼み、深くソファに沈み込んだ。
見せてくれたブックマーク先へ飛んでみてもいいかと大翔へ聞いた時、彼は一瞬眉を顰めて「それはちょっとイヤっす」と答えた。
最初こそ飛んでみたが、やはり『ページは存在しません』だったという。心底不気味に感じ、二度と踏むのをやめたと続けた。
それでも、いつの間にかそこにあるらしい。
たとえ存在しないページだとしても、繋がってしまうことが今は怖いと重ねた大翔はその場で消去した。どうせまた戻ってくるんすけどね、と苦々しく笑って。
鞄からA4の手帳を取り出す。仕事用ではなく、異変が起きてから日記やメモ代わりに使っているものだ。
大翔についてはまだ何も書けていない。存在を知ってから話を聞くまでが最速だったのが大きい。
学生時代から腰が重いと言われていた私が、数時間高速に乗ってまで当日に当人に話を聞きに来たなんて珍しすぎるだろう。ペンケースから中身を取り出すと、大翔から聞けたことを書き留めはじめる。
その時、テーブルに置いたスマートフォンが点滅していることに気付いた。
そういえば、車に乗り込んだ時からメッセージなどの確認を全くしていなかったことを思い出す。
ひとまずペンを手帳の脇に置き、それを手に取った。同時に紅茶が運ばれてくる。軽く会釈した私に店員は「ごゆっくり」と穏やかな笑顔で応えてくれた。
ライン画面を開く。
友人とクライアントからのメッセージを先にチェックして返信したあと、隆介とのトークを開いた。
『ごめん、忙しくて。次の日曜やっと休める』
簡潔なものだった。前半は、前回私が送ったメッセージに対する返事だろう。
十日前にちょっとしたことを送って、返信がないままだった。
後半については、だから何? と思わずツッコもうかと思うほどの独り言のような内容だが、これは隆介からの誘いだと今の私は理解できる。休めるから、会えるか? と。そういうことだ。
初めて彼氏ができたのは中学生だった。次は高校生。
大学進学を機に別れて、新しい出会いもあった。
だから隆介は初めての彼氏じゃないのに、初恋と呼べるくらいに好きになった相手だ。
でも、隆介はこれまで付き合ってきた男の誰よりもマメじゃない。
時間を確認すると、私はこのメッセージを半日以上未読していたことになるが、隆介は絶対気にしない。
自分が全く気にしないからだ。
私から送っても数週間既読スルーは日常茶飯事で、それは付き合う前から変わらない。
先に好きになったのは私だった。どれだけ勇気を出してメッセージを送っても返信をくれるまで最低数日はかかった。
数週間既読スルーが当たり前だった。質問事項さえも数日、数週間後の返信だった。
食事や飲みの誘いもすべて私からだった。それだって、何度か「ごめん、忙しくて」と断られたものだ。
そもそも絶望的な片想いだと思っていたから、今こうしていることが夢みたいで幸せだ。付き合ってまだ長くはないが、今はもう、こういう人なんだと半ば諦めも伴って、私からは返信を期待しないメッセージを三日に一回ほど送るに留まっている。
寂しくないと言えば嘘だ。本当はとても寂しい。
私が会社を辞めた今、毎日顔を合わせることがなくなったから尚更寂しい。
朝の挨拶だけでも、ランチを食べているとでも、帰宅したという旨だけでもいい。
隆介が何をしているのか知りたいし、私も教えたい。
髪を切った、映画を観た。今こんな本を読んでいる。本当は何てことのない会話を望んでいる。
でも、出来なかった。怖かった。『髪切ったよ!』と写真を送って、返信がなかったらと思うだけで身が竦んだ。『似合ってる』とすぐ返信をくれるよりも、数週間後に全く関係のない話を送られてくることの方が簡単に想像できたからだ。とても勇気が出なかった。
頼んで『してもらう』のは意味がない。隆介が望んでいないのなら、そんなのはすべて私の一人相撲にしかならない。
友人には遠慮しすぎだと同情されたり、連絡頻度は話し合ってお互いに譲り合わないといつか無理が生じるよと諭された。だから私も、本当は寂しいと伝えてみようと何度も思った。
でも、どうしても出来ない。
怖い。どうしても、怖かった。
今の私が一番怖いのは、隆介の心が離れてしまうことだ。編集者の多忙さは、同業だった私が誰より理解していると思いたかった。連絡が遅くなることについて彼も謝ってはくれる。悪いとは思ってくれていると信じている。
時折かかってくる電話だけで嬉しくて泣きたくなるのに、たまに会える時間くらい不平不満をぶつけることに当てたくなかった。
私の「寂しい」は我儘だ。
所詮あんたは都合のいい女でしかないと、陰で揶揄されていたことも知っている。そうかもしれない。
どんなに連絡がなくても不満を言わず、すべての都合は彼に合わせ、会えばセックスをする。生理中は口でしてあげることも珍しくない。……こうして挙げてみると、なるほどそうかもしれない。
好きな人の理解ある恋人でいたくて振る舞っているだけで、心の中はこんなにも真っ黒だというのに。
それでも、焦がれて焦がれて仕方なかった隆介を手に入れた充足感を手放す勇気はなかった。
だから私は、いつだってこう返信する。
『スケジュール調整するね。時間はまた空いてる時にでも連絡ください』