眠れる窓辺の王子さま



ハルカを家まで送り届けた後、自転車を押しながら帰った。漕いで帰るにはまだ心の準備が整わないと思ったから。

カラカラとチェーンが回る音を聞きながら、自転車のライトが照らす先をじっと見つめる。


「未来……!?」


履き古した外履きのスリッパが照らされると同時に名前が呼ばれた。

ハッと顔をあげる。

顔を真っ赤にして首まで汗を流したお母さんと目があった。隣にはゼイゼイと肩で息をする高木さんが立っている。


「お母、さん」


私が呟くようにそういえば、お母さんは腰が抜けるようにその場にへなへなと座り込んだ。

高木さんが険しい顔をして大股でずんずん歩み寄ってくる。びくりと肩が震えてきつく目を閉じたその時。


「よかった……!」


汗だくの腕と震える肩できつく抱きしめられた。

触れる熱の温度も胸の硬さも肩の広さも、お父さんともお母さんとも全然違う。全然違うはずなのに、肩の力が抜けるような安心感はちゃんと同じだった。

驚きと困惑と後悔と嬉しさと。いろんな感情でごちゃ混ぜになった涙が溢れた。久しぶりに子供みたいに声を上げて泣いた。


三人並んで家に帰った。

玄関先に着くと「僕は帰るよ」と言った高木さんを引き留めた。少し驚いた顔をした高木さんはちょっと泣きそうな顔をした後「じゃあ僕も一緒にお祝いさせてもらおうかな」と笑った。

リビングのテーブルには私が買ってきたケーキが並べられていた。

高木さんが申し訳なさそうに買ってきたケーキを背に隠したので「それも食べたい」と小声で申し出ると、また泣きそうな顔で笑って頷いた。

お母さんはぐすんぐすんと鼻を啜って半泣きで、高木さんもうるうるしている。私も散々泣いたので、目も鼻も真っ赤だった。

グラスにジュースを注いで乾杯をした。

全員鼻声なのが面白くて「乾杯」の声は笑い声に変わった。


二種類のケーキを突きながら、思っていることを二人に少しずつ話した。

高木さんのことは嫌いじゃないこと、お母さんには幸せになってほしいこと、ただまだ心がそこまで追いついていないこと。

時折気持ちが昂って、言葉もまとまらずに支離滅裂なことを言っていたと思う。

それでも二人は真剣に耳を傾け、時に申し訳なさそうな顔をして最後まで聞いてくれた。



「一緒に、歩いてほしい。おいていかないで」


最後にそう言ってテーブルの木目に視線を落とす。白くて細い手がきつく握られた私の拳に添えられた。


「当たり前じゃない。未来一人を残して先に行くことなんてないわ。進む時はいつだって一緒よ」


柔らかい指が乾いた頬の涙の跡を優しく撫でた。


「僕も、その手を取ってもいいのかな……?」


高木さんが不安そうに私の顔を覗き込む。小さく頷けば、大きくてがっしりした手にすっぽりと覆い隠された。

二人に手を握られたその瞬間、深い沼から一気に引き上げられたような感覚がして、胸の詰まりがはじけた。肺の隅々まで行き渡る暖かい空気に、胸がいっぱいになる。


ああ、そうか。そうだったんだ。これだけだったんだ。

これだけで、こんなにも簡単に息はしやすくなるんだ。

走るのをやめただけで、急ぐのをやめただけで、誰かと一緒に歩き出しただけで、こんなにも世界は変わって見えるんだ。


二人の涙が星のようにキラキラと光って溢れた。

ポケットにはハルカからもらった「黒ねこ」の幸せ貯金が入っている。


ねぇハルカ。ハルカの言った通り、ちょっとだけ世界が光ったよ。

そのことを今すぐにハルカに大声で伝えたかった。






魔女の呪いが解けたお姫さまは、再び塔の上の王子さまに会いに行きます。

しかし今度は王子さまの呪いが、二人を苦しめるのでした。





自転車を漕ぐ。帰り道を急ぐいつもとは違って、その背中を探すために。

────見つけた。


「ハルカ!」


今日もあたりをキョロキョロと見回す後頭部に向かって叫ぶ。


「ミク? よかった、おれまた迷っちゃって」


いつもと何一つ同じ眉尻を下げた困った顔で振り向いたハルカになんだか嬉しくなる。


「また? 仕方ないな」


最初からそのつもりだったのに、わざと面倒臭そうな態度を取った。


「お願い、うちまで乗せてって」


顔の前で手を合わせる姿に小さく笑う。


「早く乗って」

「やった。ありがと」


今日も荷台がゆっくりと沈む。馴染んだ重さを乗せて、自転車は前へ進んだ。

ハルカはいつも通りヘタクソな鼻歌を歌いながら変な形の雲を見つけては報告してくる。だから私もいつも通り適当に流した。

ハルカの家が近づいてきて、会話が一瞬途切れたタイミングで「ちゃんと話したよ」とだけ早口で伝えた。ドキドキと胸がうるさい。ただ報告するだけなのに。

「そっかぁ」

ハルカはいつも通りの気の抜けた声で相槌を打つ。

深くは聞いてこないつもりらしい。私にはそれくらいがちょうどよかった。



ハルカはその後も、何もなかったみたいにいつも通りだった。

学校帰りにハルカを見つけては後ろに乗せ、道端で合わなければ家の前を通った。出窓に腰掛けているときは立ち話をしたり、二人乗りで出かけたり。

まだ時折毎日が苦しくなる瞬間があるけれど、ハルカのそばは相変わらずいつも息がしやすかった。


ある日の学校からの帰り道、道端でハルカを拾わなかったので家の前を通ると、予想通りハルカが出窓に腰掛けていた。窓の下から名前を呼ぶ。

ゆっくりとこちらへ顔を向けた。今にも瞼が閉じてしまいそうな目でぼんやりと私を見つめている。


「ハルカ?」

「……ああ、ミク。こんにちは」


覇気のない声で、やっと返事をした。


「今日は外出かけなかったの?」


ぼーっと空を見上げて、返事をしない。


「ハルカってば!」

「……ん、ごめん。なんだっけ」


私から視線を外し、ぼんやりと宙を眺めるハルカ。


「だから、今日は外に出かけなかったのかって」


ハルカはぼんやりと宙を眺めたままで、まるで何にも反応しない。


「ねぇ聞いてる?」


少し苛立った声でそう返せば、ハルカはまたぼんやりと宙を眺める。そして暫くして、「ごめんミク」と返してきた。


「おれ、すごく眠くて、どうしようもないんだ。また今度でいい?」



疲れたように首をうなだれたハルカに、私は「あ、」と小さく声をあげた。

あからさまにいつもと違うハルカにやっと気が付く。もうすぐ眠ってしまうんだと。

眠たげなハルカと目が合い、思わず咄嗟に目を反らしてしまった。戸惑い気味に頷けば、ハルカが安心したように「それじゃあ、またね」といつもよりも力の抜けた顔で笑う。

私はもう一度頷いて自転車に跨る。一度だけ振り返ると、出窓に腰掛けたまま目を瞑るハルカが見えて、急に不安が広がった。







このところ、きつい日差しはすっかりなりを潜め、時折ハッとするような冷たい風が吹くようになった。

学校から帰る時間は日も傾いて結構肌寒い。制服のポロシャツは一週間前から長袖にした。


風に煽られてあちこちに靡く前髪を引っ張りながら、きょろきょろと当たりを見回す。

案の定、私が探しているあいつの姿はなくて、結局は最近の定番コースとなった帰り道をいつも通り自転車で突き進んだ。


あの日を最後に、放課後に迷子になったハルカを見かけなくなって一週間が過ぎた。

もしかして、と思ってハルカの家の前を通ってみたら、いつも開いている出窓が閉じていて、カーテンも閉め切られていた。


おそらく眠ってしまったんだろう。

なんとなくいつもよりも日当たりが悪いような気がするハルカの部屋をぼんやりと見上げる。

ハルカ、次はいつ起きるんだろう。





そんな事を考えていると、突然ハルカの家の鍵がガチャリと開く音がした。

慌てて立ち去ろうと自転車のスタンドを蹴るも、バランスを崩して倒れてしまう。

もたもたしている間にドアが開いた。恐る恐る振り返ると、ジョウロを手に玄関アプローチを歩く女性とばっちり目が合ってしまう。


「あら、あなた確か本庄さんよね?」


前に道端で眠ってしまったハルカを送り届けた際、苗字だけは名乗っていた。ハルカのお母さんは私の事を覚えていてくれたらしい。


「こんにちは。学校帰り?」

「あ、はい……」

「毎日偉いわねぇ」


目尻を下げてふにゃりと笑う。笑い方がハルカとそっくりだった。

小さく頭を下げて、立ち去ろうとしたその時。


「もしかして、あなたがミクちゃん?」


その問いかけに、動きを止めた。

どうして私の名前がわかったんだろう?

ハルカのお母さんは私の胸元を指差す。いつもは下校する前に外して机の中に置いてくるはずだった名札を今日はつけたままだった。

あれ、でも名札には「本庄未来」としか書かれていない。いつもふりがなを振っていなければ絶対に「ミライ」って呼ばれるのに、どうしてミクだってわかったんだろう。

ハルカのお母さんは手にしていたジョウロを花壇に置いて、小走りで近付いてくる。

門のカギを外すと私の前に立ち、私と視線を合わすように屈んだ。