そうか。
ハルカはきっと、この世界の綺麗な部分だけを見て生きていけるんだ。
汚い部分も都合の悪い部分も、面倒臭い部分も何もかも、眠っている間に過ぎ去って残ったものだけを見ているんだ。
だから辛い状況でも、そんなふうにワクワクできるんだ。
「……ハルカが、羨ましい」
絶対に言ってはいけないと分かっていたから心の中で呟いたつもりなのに、その言葉は喉を震わせてはっきりと言葉になる。
ハッと我に返って「今のなし」と言おうとしたけれど間に合わなかった。
「羨ましい? どうして?」
ハルカは怒った風でもなく、純粋に疑問を抱いたように不思議そうな顔で聞き返した。
膝の上の拳に目を落とす。
だって私は。私は。
「私は、世界が変わっていくのをそんな風に楽しめない。変わっていくことについていくので必死で、大変で」
どれだけ願っても毎日はどんどん姿形を変えて先に進んでいく。次々私に迫ってきては、嵐のように過ぎ去っていく。
追いついて受け入れて先に進んで、その繰り返し。
「なるほど。やっと謎が解けた」
思わぬ返答に顔を上げた。
まるで童話の主人公みたいなそぶりで拳を掌に叩きつけて何かを閃いた仕草をしたハルカ。
「だからミクは、いつも急いでる顔をしていたんだね」
胸の真ん中をトンと叩かれたような気がした。
目を見開いてハルカを見つめる。
「ついていくために沢山走っているから、いつも少し苦しそうな顔をしていたんだね」
ふと思い出した。
ハルカは私に会うたびに「急いでたのにごめんね」「急いでたんだよね?」と聞いてきた。
ただ単に私に気を遣ってそう言っていたのだと思っていたから気に留めていなかったけど、ハルカには私がそんな風に映っていたんだ。
「ミクは頑張り屋さんなんだね」
そんな風に褒められたのはもう何十年ぶりとかそれくらいで、咄嗟の反応に困った。
「でもさ、そんなに頑張って追いつかなくてもいいんじゃないかな。少し止まっても、いいと思うよ」
なにそれ、まるで他人事みたいに。そうできるならとっくにそうしてるし、できないから今こんなに苦しいんじゃない。
苛立ちがざらりと胸を撫でる。
「だっておれは歩いてすらないし」
とん、と胸を叩いたハルカに、苛立ちがフウセンカズラを潰す時みたいにプシュウと抜けた。
「……自分で言うんだ」
「おれにしかできないトークでしょ」
ふふんと鼻を鳴らしたハルカは立ち上がって屋根の下から飛び出す。
影から飛び出したその瞬間、太陽に照らされて妖精が来ているワンピースのような黄金色の薄い衣を身体中に纏う。
「いい天気だね。よく晴れてる」
ハルカは楽しそうにその場をくるりと回った。
確かに空は新しい水色のクレヨンを使った時のように鮮やかな色でよく晴れている。
「走ってるミクも止まってるおれも、今この空を見てるってことでしょ」
わかるような、わからないような、わかりたくないような。
そんな微妙な感情が胸の中を渦巻く。
「意味わかんないし」
ただ久しぶりに見れたよく晴れた空は確かに綺麗で、それがちょっとだけ息をしやすくしてくれた気がした。
その後二人で試運転に出かけた。
いつも通り私は黙って自転車を漕いで、ハルカは下手くそな鼻歌を歌いながら「見てよミク」と私に話しかけてきた。
その日から、私とハルカの関係は少しだけ変わったような変わってないような。
ただ今までは一歩離れたところにいたハルカが隣に並んでいるような気がした。
お姫さまは大切な思い出を、少しだけ王子さまに話しました。
さて、王国はお姫さまの誕生日パーティーが迫ってきています。
「迷子が特技のくせに、勝手にふらふら歩くな!」
ある日の日曜日。
図書館に向かう途中でハルカを拾った私は、来た道を戻って送り届けるのが面倒でハルカも一緒に図書館へ連れていくことにした。
借りた本を返して新しい本を借りて、とほんの少しの間ハルカから目を離していたらいつの間にか消えていて、探し回ってやっと見つけたのは児童書のコーナーだった。
図書館なので声量を控えめにして、代わりに脳天に手刀をくれてやる。
「いてっ」と嬉しそうに声を上げたハルカに顔を顰める。へへと肩をすくめながら後頭部をさするハルカが抱えていた本の表紙が見えて少しだけ目を瞠る。
「その本……」
「あっ、気になる? この本すごく面白いんだよ。おれ全巻持ってるんだけど、本屋さんとか図書館で見つけるとつい手に取っちゃうんだ」
「……へぇ」
表紙を撫でたハルカは、表紙にもなっている主人公の女の子を指差して物語を誦じ始めた。
十歳のミライという名前の女の子が、水溜りの中に落ちて別世界に入り込んでしまいそこで大冒険をするお話なんだとか。
「でねでね、そこで出てくるでんでん女王が」
「まいまい女王でしょ。孤児院の先生がでんでん先生だし。一番需要なところじゃん」
思わずそう突っ込んでしまってハルカが驚いた顔をする。
「ミク、知ってたの? なんだ、だったらそうと先に言ってよ」
「別に……」
「この主人公のミライちゃんって、ちょっとミクに似てるよね。名前だって、ミクは未来って書いてミクでしょ? すごい偶然だね」
目を輝かせたハルカに一瞬言うかどうかを迷って、ゆっくりと口を開いた。
「……それ、私だし」
「え?」
「その主人公のモデル……私」
目をパチパチさせたハルカ。次の瞬間こぼれ落ちそうなほど目を見開いて身を乗り出した。
「本当なの!?」
キラキラした目が間近にあって、思わず仰反る。
「……こんな嘘つかないし。それ書いたの、私のお父さんだから」
「ミクのお父さん!?」
おっほん、と近くにいた図書館のスタッフが私たちをジロリと睨んで大きく咳払いする。ハルカは「ごめんなさい」と肩をすくめてその人に頭を下げた。
そして勢いよく振り返ると、さっきよりも小さい声で「ミクのお父さんが書いたお話なの?」と聞いてくる。
うん、と一つ頷いて本棚の前に腰を下ろした。
これは私が十歳の誕生日合わせてお父さんが書いた小説だ。お父さんは児童文学を書く小説家だ。
「おれ、昔サイン会に行ったことあるよ。すごく優しくて温かい人だった。大好きな作家さんだったんだ」
だった、と言ったハルカに本当にお父さんのことを好きでいてくれたんだなと実感する。
大好きだった、過去形にしたのはハルカがお父さんの今を知っているということ。それほどちゃんと好きだったと言うことだ。
────ハルカはお父さんが四年前に亡くなったのを知っている。
もう四年前の話だしお父さんのことを思い出して悲しくなることはないけれど、ハルカは少し気を遣うように静かになった。
「それにしても、ミクは小さい頃ってこんな女の子だったんだね」
「ちょ、変な勘ぐりやめて!」
「おとぎ話と空想が大好きな女の子かぁ」
「うるさい!」
ハルカから本を奪い取って本棚に戻した。
ふふふ、と楽しそうに笑う声が背中越しに聞こえてくる。
背表紙を睨みながら唇を突き出した。
「ミクにも、ちゃんとキラキラしたものは見えてたんだね」
言葉に詰まって振り返らなかった。ハルカが私の背中を見ている気がする。
「……どうだろうね」
そんな昔のことは忘れてしまった。
「小さい頃に見てた世界は、今私が見てる世界とは別物なんだよ。あの頃に何かが見えてたんだとしたら、それは私が勝手に作り出した妄想」
そうじゃなきゃ、今私が見ているこの世界の説明がつかない。こんなにも汚くて、面倒臭くて、クソ食らえって思うほどアホらしい世界。
息が詰まって、苦しくて、悲しい世界。
背表紙をグッと押し込む。
ゆっくり振り返るとハルカは「うーん」と腕を組んで首を捻った。
「そっか。ミクはそう思ってるのか。でも、おれはそうは思わないけどなぁ」
ハルカは大きく伸びをして「いこっか」と首を傾げる。一つ頷いてゆっくりと歩き出した。
ハルカにはこの世界がどういうふうに見えているんだろう。
「ごめんね、ミク。でもお昼頃には帰ってくるから」
「分かってるから。もう行かなきゃいけないんでしょ?」
「戸締まりしっかりね。夜ふかししちゃダメだから。何かあったらお母さんの携帯に連絡してね。ご飯は冷蔵庫のタッパーをチンして……」
「はいはいはい! 行ってらっしゃい!」
長くなりそうな気配がしたので、急いでその背中を押して半強制的にお母さんを送り出す。
ドアが閉まるまで申し訳なさそうな顔をしたお母さんに呆れながら、さっさと鍵を閉めた。
お母さんは今日から二泊三日の出張だ。
土曜日に地方で開催される展覧会に参加するメンバーに一人欠員が出て、急遽お母さんが代理で向かうことになったのだとか。金曜日と土曜日は現地で宿泊し、日曜日に片付けが終わり次第帰ってくるらしい。
お母さんが出張で家を留守にするのはこれまでも何度かあったので、私だって慣れている。むしろお母さんのいない数日間、のびのびと羽を伸ばせてかなりいい。
何よりも「緊急時のために」とお母さんはクレジットカードを置いていく。暗証番号はばっちり知っているので、クレジットカードが使いたい放題というわけだ。もちろん常識の範疇でだけど。
お母さんは出張の時いつも申し訳なそうにして出かけていくけれど、今回はいつも以上だった。
帰ってくる三日目が私の誕生日だからだろう。「帰ってきたら誕生日会しようね」としつこいくらいに繰り返していた。
一つのびをして、いつもより広々とした部屋を見回す。
「私も学校行くか」と呟いた。
次の日、夜中の二時まで小説を読んで夜ふかししていた私は昼過ぎに起きて、お母さんが作り置きしてくれていた親子丼を食べた。
のんびりと身支度を整えて、トートバックに画用紙と色鉛筆を詰め込むと家を出た。
昼過ぎの心地よい風を感じながら自転車を走らせていると、ここ数日ずっと閉めっぱなしだった出窓が開け放たれているのが見えた。
はためくカーテンの奥に人影が見える。少し頬が緩んで、サドルから腰を浮かせた。
「ハルカ!」
名前を呼べば、眠たげに目を細めてぼんやりと遠くを見つめていたその目に光が宿る。やがて焦点があって、その目は嬉しそうに弧を描いた。
「ミク、おはよ」
「おはよ。寝起き?」
きき、とブレーキをかけて出窓の下に自転車を停める。
「うん。さっき起きた」
ハルカがふわぁとあくびをこぼす。まだ少し眠いらしい。
「私これから河川敷行くけど、うしろ乗る?」
「いいの?」
「よくなかったら聞かないっての」
ハルカはパッと顔を綻ばせると「ちょっと待ってて」と腰を浮かせる。開け放たれた窓から中でドタバタしているのが聞こえる。思わずぷっと吹き出した。
いつも通りハルカを後ろに乗せて、河川敷へ向かった。家から十五分ほど離れた場所に広い川が流れていて、堤防はちょうどよく芝が茂っている。そこに腰を下ろすとトートバックから画用紙と色鉛筆を取り出した。
「ミク、今日は絵を描くの?」
「いや」
答えながら画用紙の右上の角に「出発地点」と書いてまるで囲む。
「出発地点? どういうこと?」
「地図だから」
「ミクは地図を作ってるの?」
「特別な地図ね。宝の地図」