沈黙が流れる。何だか気まずい。
こう言う時こそあの下手くそな鼻歌を歌ってくれればいいのに、と心の中で悪態をついた。
自転車はずんずん進む。今はむしろ前のうるさい自転車の方がよかったのかもしれないなんて思う。
そんなことを考えていると、急に自転車がぶわんと揺れて「うわっ」と悲鳴を上げる。
「ちょっとハルカ! 後ろで暴れんなっていっつも言ってるでしょ!」
そう怒鳴るけれど、立て続けにぐわんぶわんと自転車がまた揺れる。
この野郎、と眉を吊り上げ次の信号で強制的に下ろしてやろうと心に決めた次の瞬間。
どさ、と大きな荷物が落ちるような音と共に、自転車が急に軽くなった。
反動でハンドルが揺れて慌ててブレーキを握る。
突然のことに驚きながら振り向くと、荷台に座っているはずのハルカの姿がなかった。
「え……?」
走ってきた道を目でなぞる。アスファルトの上に白シャツがパタパタと揺れている。
ばくん、と心臓が大きく波打った。
一歩、二歩となんとか前に進み勢いがついた足は走り出す。アスファルトの上のうつ伏せで倒れ込むハルカに恐る恐る手を伸ばした。
「ハ、ハルカ?」
「……ん、みく、ごめ……」
返事が返ってきた。意識はあるらしい。でも喋り方が変だ。呂律が回っていない。
恐る恐るハルカの肩を引っ張って仰向けにした。
息を呑んだ。落ちた時に額を打ったらしく前髪の下からポタポタと血を流している。
頭が真っ白になって呆然とそれを見つめることしかできなかった。
「……みく、」
名前を呼ばれてハッとした。
とろんとしたハルカと目が合う。まだ血は流れている。白い襟元が赤く染まっていく。
「きゅ、救急車……えっと、イチイチゼロ……あれ、どっちだっけ」
ポッケから取り出したスマホがからんと落ちた。手が震えている。
「……みく、まって……」
今にも目を瞑りそうなハルカが小さな声で私を呼ぶ。
「おくって……おうち、まで」
「いや……いやいや何言ってんの、救急車でしょ、病院でしょ」
救急車だから、そうだイチイチキューだ。電話の画面を立ち上げた。
「……だいじょぶ、だから……ふたりのり、おうち、おくって」
ハルカの目がどんどん閉じていく。
「いつも、こう、だから……おねがい」
ハルカは必死に目を開けようとしているのか眉間に皺を寄せた。力の入らない手で私のスマホを持つ手を握る。
「ふたりのり……」
それだけを言い残したハルカはまるで眠りにでもつくかのように静かに目を閉じて体の力を抜いた。
ばくばくと心臓が速い。
なんで、意味がわからない。いつもだからって何? 何で急に自転車から落ちたの?
目を閉じるハルカとスマホを何度も見比べた。
ギッと奥歯を噛み締める。そしてズボンのポッケにスマホをねじ込むと、ハルカの腕をひっぱり背に担ぐ。
いつも自転車だったから気がつかなかったけれど、ハルカは私が背負えるくらいには軽かった。
自転車で通ってきた道を、今度はハルカを担いで走った。
王国は長い雨の季節になりました。
お姫さまは、深い眠りについた王子さまのことがとても心配でした。
連日続く雨はあちこちに鏡のような水溜りを作り、町中に金魚みたいな匂いを漂わせる。
少し前から梅雨の時期に入った。
毎朝雨ガッパを着て自転車を漕いでいるから学校につけばスカートも靴下もぐっしょり濡れていて気分が上がらない。
今日もため息の多い一日を過ごした後、まだ今朝の雨が乾き切っていない雨ガッパを着て帰り道を急ぐ。
雨足は今朝より少しだけ弱まっていた。
自転車を漕ぎながらキョロキョロとあたりを見回した。信号で止まるたびに振り返ってみた。いつもと違う道でも帰ってみる。
もう二週間近くハルカを後ろに乗せていない。
最後にハルカの家の前を通った。
出窓にはきっちりカーテンが引かれている。それを見上げて小さく息を吐き、今日も帰路についた。
ハルカのやつ、大丈夫なんだろうか。
流石に一緒にいた時にぶっ倒れられたら少しは心配してしまう。
あの日、血を流して倒れたハルカを家まで連れて帰ると、優しそうな雰囲気のお母さんが血相を変えて出てきた。
ハルカを渡せば、中に入って待っていてと言われたけれど、流石に気が引けたので玄関で待った。
十五分くらいして戻ってきたおばさんは何度も何度もお礼を言って私に着替えのシャツを貸してくれた。ハルカの血が落ちたのかどこかの組長を刺してきたように血だらけになっていた。
着ていた服はクリーニングしてから返すと言われて、最初は遠慮したのだけれどハルカの押しの強さはお母さん譲りなのか、最後は苗字とお母さんの携帯番号を教えて家に帰った。
そして数日後、ハルカのお母さんは菓子折りとクリーニング済みの服を持ってわざわざウチのオンボロアパートまで来てくれた。
親同士がペコペコと挨拶をした後、ハルカのお母さんは「本当にありがとう」と私にも丁寧に頭を下げた。
「ハルカ……大丈夫ですか?」
思わずそう尋ねると、お母さんは少し切ない顔をして「ええ、大丈夫よ」と微笑む。
「詳しいことは私が勝手に言えないんだけれど、命に関わるような状態ではないから、安心してね。数日後にはケロッと起きてくるわ」
そうですか、とだけ返事をした。
とにかく大きな病気じゃないならいい。
それを聞いて少しだけ安心した。
けれど数日経っても一週間経っても十数日経っても迷子のハルカを見つけるどころかあの出窓が開くこともなかった。
もしかしてあいつ、起きてはいるけど雨が降ってて面倒臭いから外に出てこないだけなんじゃないの?
そう思うとどんどん腹が立ってきた。
血まみれになりながら背に担いで走ってあげたのに、お礼の一言もないわけ? まぁお母さんが高いバームクーヘンを持ってきてくれたし、それ以上の感謝を求めている訳でもないけどさ。
でも普通助けてもらったなら「ありがとう」の一言くらいあても良くない?
腹いせまがいに自転車で水溜りに突っ込む。水飛沫が上がった。
もう知らない。これからは勝手に迷子になっとけ。私は絶対に後ろに乗っけてやんないんだから。
唇を突き出して強くペダルを踏み締めた。
そしてあっという間に梅雨の季節も後半に差し掛かり、晴れ間が少しずつ増え始めていた。
午後の授業をぼんやりと聞き流しているといつの間にか終わっていて、あっという間に放課後になった。
雨は昼間には上がっていて、青い空が見えている。
天気がいいうちに、と足早に学校を飛び出た私は鬱々としていた雰囲気を吹き飛ばすように軽快に自転車を漕いだ。
丁度三角公園の側の信号で引っかかり、片足を付いて赤になるのを待つ。
その時、目の前を通り過ぎていく車と車の間から、見覚えのあるシルエットが映る。
顔が次第に険しくなっていき、きた道を引き返そうとペダルに足を掛けたその瞬間「あ」とハルカが泣きそうな顔をして手を差し出した。
ムカつく。泣きたいのはどっちかって言うと私の方でしょうが。
信号が青になって、ハルカが駆け寄ってきた。
「……何よ。お礼も言いにこないような失礼な奴と喋るつもりないから」
ふん、と鼻を鳴らせばハルカはキュッと唇を窄めて手を下げた。
何よ、そのくらいで諦めるなら最初から話しかけてくんなし。
「ミク……」
車の音と信号の青を知らせる機械的なメロディの合間に、私の名前が呼ばれる。
それに思わず反応してしまい足が止まる。無表情でハンドルをじっと見つめた。
視界の先に男物のスニーカーが入ってきた。けれどやはり顔は上げずに、睨み続けた。
「ミク。あの日は助けてくれて、ありがとう」
「……一ヶ月も前のことなんて忘れた」
「忘れちゃったの? あの日、ミクはおれのことを背負って、お家に連れて帰ってくれたんだよ」
「知ってるわ!」
噛み付くようにそう叫んだ。
久しぶりにちゃんと顔を見る。いつにもまして情けない、泣きそうな顔をしたハルカが、私の自転車のカゴを掴んで立っていた。
名前が呼ばれる。不安や恐れが感じ取られるその声色に無性に腹が立った。
「死ぬほどびっくりしたし全然現れないから死ぬほどムカついた! お礼言うのが遅い!」
「うん。ごめんね。あの日は助けてくれて、ありがとう。あと、毎日見に来てくれてありがとう」
はぁ!?と目を見開いた。
何でそんなことあんたが知ってんのよ! ていうか気づいてたなら出てこいよ!
「さっき目が覚めた時に、お母さんが教えてくれたんだ。助けてくれた女の子が毎日心配そうに窓を見上げてたよって」
「誰が心配なんかするか! ……て言うか“さっき目が覚めた”って、それまでずっと意識なかったの?」
珍しくハルカが「あー……」と苦く笑って頬をかいた。
「ちょっと説明するのがむずかしいかもしれない」
「……何よそれ」
「おれ、ちょっとむずかしいビョーキで」
思いもしなかった返答に目を見開く。
「ねぇミク、公園まで乗せて」
「あ……うん」
咄嗟に頷いてしまい、あれほど二度と後ろには乗せてやらないと思っていたハルカをまた後ろに乗せた。
多分ビョーキだって聞いて、一瞬すごく戸惑ったからだ。久しぶりの重みにハンドルが少し揺れた。