戸惑いながら胸元のシャツを握る。
だってずっと魔女に呪いをかけられたいに上手く呼吸ができなかったはずなのに。
なぜか今この瞬間はすごく息がしやすかった。苦くない、ちっとも苦しくなかった。久しぶりにちゃんと息をしたような気がした。
なんで、どうして?
だっていつもと同じで、変わったことなんて何もないはずなのに。強いていうなら隣ですぅすぅと穏やかな寝息を立てるこいつくらいで……って寝息?
うとうとしているのは横目で見ていたけれど、いつの間にか本格的に寝入ったらしく、うっすら口角を上げて満足げに眠るハルカ。
怒りを通り越してもはや呆れの感情だった。
嘘でしょ? こいつ、私に置いてかれたら自分の家にすら帰れないくせに、こんなに堂々と寝るの?
すぴすぴと鼻を鳴らす寝顔に「本当に置いていってやろうか」と一瞬思案する。結局できないのが私なんだけれど。
もういいや、と隣に寝転んだ。色々考えるのも面倒臭い。
寝そべって見上げる空はさっきよりもうんと広い。
「ん……」
夕陽が山に半分ほど身を隠した頃、冷えた空気に体を震わせたハルカの瞼が震えてゆっくりと目が開く。
そんなハルカにひとつ息を吐いた。
「やっと起きたの? あんた無防備すぎ」
あの後、何度かハルカを揺すったり叩いたり鼻を摘んだりしたけれど一向に起きる気配もなく、だからと言って流石に寝ている知り合いを置いていくのは気が引けて、隣で目覚めるのを待っていた。
まさかこんな時間まで起きてこないとは思わなかったけれど。
「あれ、おれ……」
「早く起きてよ。私あんた送らないと帰れないんだけど」
私の声に気づいたハルカがハッと顔を上げた。
目をまん丸にして私を見つめる。思わず私がたじろいだ。
「ミク……?」
「何よ」
「おれ寝てたの?」
「それはもう気持ちよさそうにすやすやと」
嫌味まじりに言ってやれば、戸惑うように視線を彷徨わせ俯いたハルカ。想像していた反応と違って次の言葉に迷ってしまう。
「待ってて、くれたの……?」
急にしおらしくなった。
何よ急に、と唇を尖らせる。
「私がいないと帰れないんでしょ」
それに私もさっきまで寝てたから、という言葉は飲み込む。何も考えずにぐっすり眠りこけたのはすごく久しぶりだった。
「ほら帰るよ」
立って葉っぱのついたお尻をはらうとハルカも体を起こす。
自転車に鍵を差し込んでスタンドを蹴った。
「あの、ミク」
名前を呼ばれた。何よ、と振り返る。
「ありがと、待っててくれて」
ハルカが少し泣きそうな顔をして笑っていたから、ちょっとだけびっくりした。
「……別に。置いて帰って死なれたら目覚め悪いし」
「そっか。ミクは優しいね」
「そういうのいいから」
自分がひねくれ者なのは自分が一番知っている。そういうお世辞ばっかりな会話は息が詰まって大嫌いだ。
「もー、素直に受け取ればいいのに。おれ嘘はつかないよ」
「よっこらしょ」と起き上がったハルカの髪には、草や花がたくさん絡まっていた。勢いよく首を振って払い落とそうとし出す。
猫みたいって思ったけど、やっぱり犬みたい。
「早く乗って」
「うん」
自転車に荷物とハルカを積んで、自分も跨った。勢いよく地面を蹴ってバランスを取る。
しばらく進んで後ろのハルカに声をかけた。
「あんた、いつもこんなふうに過ごしてるわけ?」
「んー、そうとも言える」
「何その言い方」
ハルカがへへ、と笑って自転車が少し揺れた。
青い空と昼間の草の匂いを思い出す。多分私はもう二度とこんなふうに過ごすことはないんだろう。
「ね、ミク。また会えた時は、また後ろに乗せてくれたら嬉しいな。おれ、二人乗りすごい好きだ」
「やだよ。そもそもニケツは道路交通法違反だし」
「でもこれ、ちょっとおしり痛くなる」
「あんた人の話聞いてた!? 乗せないつってんでしょ! てか文句言うなら乗るな馬鹿っ」
ハルカの愚痴を一蹴して強くペダルを踏む。
二人分の重さに文句でも言っているかのように自転車はギイギイ音を立てて進んだ。
お姫さまは女王さまから新しい白馬をもらいました。
お姫さまはとても嬉しくて、馬を連れて王子さまに会いに行きました。
けれど王子さまは、塔の上で少し眠たげにしています。
「またか」
「またですねぇ」
そう言いながら当たり前のように荷台にまたがるハルカにため息を吐いた。
ハルカと私の奇妙な巡り会いはあれから何度か続いた。
「猫追いかけてたら、分かんなくなって」
「自分が方向音痴な自覚ある?」
学校からの帰り道や、
「こっちの方が近道な気がしたんだけどなぁ」
「そういうのは上級者がすることなんだよ」
お使いの途中や、
「本読みながら歩いてたら……へへ」
「もういいから、さっさと乗って」
図書館に本を返しにいく時も。
毎日ではないけれど、ハルカはよく迷子になって現れた。最初は面倒で本当に嫌だったけれどこう何度も続けば、面倒臭がるのが面倒になる。文句は最初の一言だけになった。
今日もお母さんに頼まれてスーツをクリーニング屋さんで受け取った帰り道に、キョロキョロ右往左往するハルカを見つけてしまった。
荷台に乗せるとボロい自転車が悲鳴をあげる。今壊れたら絶対にハルカのせいだ。
自転車を漕いでいる間私が黙っていても、ハルカは吟遊詩人のように自分で作った曲を鼻歌で奏でたり鳥に話しかけたり、勝手に楽しくやってくれている。
「ミクミク、あれ見て。猫のカタチした雲。猫可愛くて好き」
「はぁ」
「あ、そこの木にキノコ生えてる。変な色してるから食べたら笑いが止まらなくなるやつだ。毒キノコはやだけど、しいたけは好きだなぁ」
「へぇ」
適当に返事を打っても「もー」と楽しそうに笑うだけなので気が楽だ。あと雲は猫の形には見えないし、生えてるのはキノコじゃなくて変な形の葉っぱだ。
ハルカの頭って結構ファンタジーだと思う。
なんて考えていると急に荷台が静かになった。
「ちょ、寝てないよね……!?」
慌ててそう確認すると「んー」とくぐもった声が帰ってくる。
ハルカは本当によく寝る。
一度背中合わせで二人乗りをしている時に、舟を漕いだハルカが前のめりになって荷台から落ちたことがあった。顔面が鼻血まみれになってその時は流石に焦った。
とにかくハルカは公園の芝生でもベンチでもどこでも寝る。マイペースという言葉はハルカのために作られた単語だと思った。
ため息がてらスゥっと深く息を吸う。
……やっぱり息がしやすい。
理由はわからないけれど、ハルカを拾って自転車を漕ぐ時間は唯一ちゃんと息ができているような気がした。
お互いに踏み込まず一定の距離を保ったまま進むこの自転車が、まぁ嫌いではなかった。
「未来、お願いよ」
「だからお母さんの好きなようにすればいいって言ってるじゃん。私はどうでもいいから」
「だってそうは言っても……」
金曜日の夕飯の時間はノー残業デーとやらで、早く帰ってくるお母さんと唯一一緒に夕飯を食べる日だ。
どうやっても逃げられないその時間にお母さんがあの話題に触れてきた。
いつもはガミガミうるさいくせに、こういう時に限って優しい声を出してくる。そんなお母さんに反発する私がすごく惨めに思えて喉の奥が苦しい。
ガツガツとカレーを口に運ぶ。逃げれない分さっさと食べて部屋に篭るつもりだ。
「未来、やっぱりお父さんのことまだ……だったら無理しなくていいのよ」
胸の奥を触られたような不快感と、思いだしたくない記憶を掘り起こされた苦しさに一瞬息が止まる。
その気遣いがどんどん自分を意固地にしていく。
燻っていた胸の隅のドロドロとした真っ黒がむくむくと大きくなっていって肺を圧迫していく。
「……別に」
「お母さんも高木さんも未来の気持ちを優先したいの」
「だから、私は別に」
スプーンを口に運ぶ。カレーの味がしない。とにかくもうこの話題から逃げたかった。
頭のてっぺんに視線を感じる。お母さんが言葉に困ったように私を見ている。
ギッと奥歯を噛み締めた。
「……分かったよ。会えばいいんでしょ。でも会うだけだから」
米を混ぜながら呟く。
「本当にいいの!?」お母さんの声色が一気に明るくなった。
「じゃあ明日でもいい? 何か予定ある?」
「別に……」
「じゃあ明日ね。高木さんにも連絡しておくから。帰りに未来の好きな場所連れて行ってあげるわよ。どこか行きたい場所ある?」
機嫌よくそう提案してきたお母さん。
「別に」と言いそうになってふと脳裏に悲鳴をあげるオンボロ自転車が浮かんだ。やたら軋むし、タイヤもすり減っている。ブレーキも弱くなってきている気がする。
そろそろ後ろに人を乗せるのは危険な頃合いかもしれない。
「……自転車、新しいの買って。今の壊れそうだから」
「自転車? そうね、確かにかなり古くなったし新しいの買おうか。ショッピングモールの中の自転車屋さんでいい?」
こくりとひとつ頷く。
先に食べ終えたお母さんがスマホを持ってベランダに出た。明日のことを“高木さん”に相談するんだろう。
明日のことを考えただけでも気が重いので、さっさと残りをお腹に詰め込み自分の部屋に篭る。ベッドに倒れ込むと、枕元に置いていた本が頭に当たって顔を顰めた。
転がって仰向けになり、手にとったその本を顔の前にかざす。
児童書だ。
何度も読んでいるせいで開き癖がついている。一人の少女が不思議な世界を冒険する話で、私にとってとても大切な一冊。
表紙の著者名を親指で撫でる。抱きしめて息を吐いた。
相変わらず胸が重い。今日も息ができない。
約束の翌日になって、最寄り駅から四十分くらいかけて都心の大きな駅まできた。
“高木さん”は私たちよりも先についていて、待ち合わせに着くなり笑顔で駆け寄ってきた。
軽く挨拶をして、お昼ご飯を食べるお店に入った。私が好きなオムライスの店だった。
お母さんと高木さんは二人ではあまり話さなかった。やたら私の学校生活や好きなもののことについて質問してきて、たまに目を合わせて「僕たちの時代とは違うね」と笑い合う。
私が困らないようにそうしてくれたんだろうけど、それを見るたびにさっさと帰りたい気持ちが大きくなって最後のデザートは頼まなかった。
店を出て「映画でも観に行こうか」と言い出したお母さんに眉を顰める。しかし“高木さん”は解散を申し出てくれた。やっと帰れると心底安心した。
駅の改札までついてきた“高木さん”は膝に手をつき私と視線を合わせると少し困ったように笑った。
「じゃあね、未来ちゃん。今日はありがとうね」
「……はい。さようなら」
お母さんには「また連絡するね」と声をかけていた。見えなくなるまで“高木さん”は手を振っていた。
電車のドアが閉まって座席に深く腰掛け、やっと終わった気がした。たった数時間だったけど、私には丸一日のように感じる。
「付き合ってくれてありがとうね。ごめんね未来」
車窓の外を見つめている私に、お母さんは小さい声でそう謝った。
喉の奥がぎゅっと締まる感覚に眉を顰める。
その顔をお母さんに見られたくなくて、窓に視線を向けたまま「別に」と答えた。