「ミ、ミク。苦しい……」
自分の下からそんな声がしてハッと我に返る。ハルカを下敷きにしていたらしい。「うわっ、ごめん!」と慌てて飛び降りた。
床にぶつけた後頭部をさすりながら困惑した顔で「なんで……」と呟く。
だから私は、姿勢を正して笑顔でハルカに手を差し伸ばした。
「ねぇハルカ、私と冒険に行こう」
ハルカが目を丸くした。
私はハルカの手首を掴んで、出窓にずんずんと歩み寄る。
窓によじ登ってカーテンをつかむ。ほら、と振り返ってハルカに手を差し出した。
「私とハルカがちゃんと同じ時間を走っていたって証拠を残すの」
ハルカが私を見上げている。瞳が揺れる。
「『俺はこの道を通ってきたんだ』って。『ミクと二人で歩いてきた道だ』って何かに残すの。『グリム童話』のヘンゼルとグレーテルの話にも出てくるじゃん。石とかパンを通ってきた道に落としていくやつ。そんな感じ」
「……石とかパン? 何言ってるのミク。領主のジル・ド・レが少年少女にひどいことをする話でしょ?」
「……あんたまさか、原作しか読んだことないの?」
頷いたハルカに大きなため息を吐いた。
それから簡単に『ヘンゼルとグレーテル』のあらすじを教えた後、話を戻す。
「ひとりぼっちになった時に、私と過ごした思い出があれば怖くないでしょ? 不安になった時、ちゃんと何かが残っていたら、一人じゃないって思えるでしょ? だから、ハルカは小説を書けばいい!」
そう言って私はトートバッグに入れていたノートとボールペンをハルカの胸に押し付けた。ハルカは慌ててそれを受け取る。
「小説? おれが……?」
「だってハルカ、本好きなんでしょ? ちょうどいいじゃん」
「でもおれ……小説なんて書いたことないよ」
ハルカが困ったように眉を寄せてノートを見る。
「『強くて賢くて、伝説に残る偉大な魔法使いたちを思い浮かべてみて。彼らだって最初は私たちと同じ、何も知らない一人の学生だったんだ。』」
それ、とハルカが顔を上げる。
前に自転車に乗りながらハルカのおすすめ小説を聞いた時、教えてもらったファンタジー小説の主人公のセリフだ。
自分が魔法使いだと知った少年が魔法学校に入学して仲間たちと共に悪の魔法使いを倒す物語だ。
分厚くて読む気になれないでいたけれど、ハルカにおすすめされてからちゃんと読んでみた。
そのセリフに感動した私は、一言一句間違えることなく暗唱できるほど読み込んだ。
「偉大な小説家も伝説の勇者も今の私たちと同じところから始まったんだって思ったら、なんでもできるでしょ?」
行こう、ともう一度ハルカに手を差し出した。
ハルカは俯いたまま何も言わない。やがてくるりと私に背を向ける。
その背中にぎゅっと胸が締まった。鼻の奥がツンとして目尻が熱くなる。
伝えたいことは全部伝えた。でもハルカには届かなかった。閉ざされた城の門は私には開くことはできないんだろうか。
ハルカ、と名前を呼んでみたけど、声にはなっていなかった。伸ばした手が宙をつかむ。ハルカが遠い。
キュッと唇を結んだその時、ハルカは洋服箪笥に向かって走り出した。勢いよく扉を開けると、中から茶色いリュックを取り出した。ゴソゴソと何かを詰め込んだハルカはリュックを背負って振り返る。
「お待たせ、ミク。さあ、冒険にシュッパツだ」
ハルカが笑った。いつもみたいに朗らかに、ふにゃりと笑った。
カァッと目尻が熱くなって、咄嗟に両手で顔を隠す。
ばか、ばかハルカ、わかりにくい態度とんなし。勘違いしたじゃん、すごく怖かったじゃん。
ハルカは「えいえいおー」と右手の握りこぶしを天井に突き上げた。
「ほら、ミクも」
ハルカがそばに駆け寄ってきてそう促す。
ずっと鼻を啜った。
「……オー」
棒読みで、ちょっとだけ拳を突き出す。ハルカは嬉しそうに笑うと、私の手を握った。
お姫さまと王子さまは、手を取り合って最後の冒険に出発するのでした。
「すき焼きの焦げかけたお豆腐」
私たちが風を切る音と共に、ハルカの優しい声が耳に届く。
ああ、たしかにタレが染みてて美味い。そう同意すれば、「そうでしょ、そうでしょ」とハルカは得意げに笑ったのが背中越しでも分かった。
「ふ、ふ……フリージア。花の名前ね、知ってる?」
「知ってるよ、水仙に似ている可愛いお花でしょ。お母さんがこの前、庭の花壇に植えてた。……あ、あ、新しい石鹸の、表面を使うとき」
「あ、それ分かる! 私も好き。表面の模様がなくなっていくのって、なんとなく気持ちいいよね」
そんな風に好きなものしりとりをしながらただひたすらに夕日に向かって進んでいると、気が付けば私たちは全く知らない街へ来ていた。
「あっ、見てよミク。あの看板、犬の字のテンの部分がにくきゅうになってる」
嬉しそうに声をあげるハルカに、「分かったから暴れるな!」と叫ぶ。
ハルカはお構いなしに、私の服を引っ張って「ね、見に行こう。犬のにくきゅう見に行こう」と声を弾ませる。ハルカが指差す方へハンドルを切った。
自転車を止めた瞬間、ハルカは荷台から飛び降りて一目散に走りだす。
先に行ってしまった背中に溜息を零しながらゆっくりと向かえば「わあっ、ミク早く来て」とまた急かされる。看板の前にしゃがみ込んでいるハルカに小走りで近寄れば、急かしてきた訳が分かった。
真っ白な毛並みに、まるで狸の置物のような丸くて大きな図体。真ん中にきゅうっと寄せ集められたようなくちゃくちゃ顔の、お世辞にも可愛いとは言えないデブ猫が犬の看板の前にどっしりと座り込んでいた。
犬の看板の前に猫って。いや、というかそもそもこの生き物、猫であってるよね? まさか犬なんて言わないよね。
────ブナァン……。
鳴き声まで可愛くなかった。でも一応猫らしい。
「何このデブ猫」
ハルカの横に立って笑いながらそう言えば、猫は鋭い目つきでこちらを睨んでくると、「フンッ」とでもいうかのようにわたしから顔を反らす。そして一つ大きな欠伸を零すと、ハルカの足元に歩み寄って、小さく丸まって眠り始めた。
「可愛いねえ、にゃんこ君」
猫の顎の下を擽りながら、ハルカは目を弓なりにした。そんな表情にふっと肩の力が抜ける。
私は隣りに腰下ろし、眠るデブ猫をじっと見つめる。耳がぴくぴくと動いているから、きっと狸寝入りだ。猫のくせに。
恐る恐る慎重に手を伸ばせば、猫が半目でこちらの様子を窺ってきた。優しく背中を撫でてみる。猫は迷惑そうな顔をしたが、少し身じろぎしてまた目を閉じた。
「ね、可愛いでしょ」
「まあ」
「よかったね、にゃんこ君。ミクが可愛いって褒めてくれたよ」
「褒めてはない」
ハルカの声に答えるかのように、ブナァン、としゃがれた声で鳴いた猫。のっそりと起き上がると、一つ大きな伸びをする。そして私とハルカの顔を交互に見上げると、大きなお尻をフリフリしながら振り返ることなく去って行った。
その後ろ姿を見送ってから、ハルカはパッと私に背を向けてゴソゴソと身じろぐ。
「ねぇハルカ、ちょっとくらいそれ読ませてよ」
そう言いながらハルカの背中に歩み寄って手元を覗き込もうとすると、ハルカはパッと手元を隠して縮こまる。
「ミクのえっち!」
「はぁ!? 何よそれ! 減るもんじゃないでしょ!」
それでも見せないよ〜、とくふくふ笑ったハルカは逃げるように自転車の荷台に駆け出した。
さっきからハルカは自転車を降りて何かを見つけるたびにこうして隠れて何かをしている。ペンを出しているのが何度か見えたので、おそらく私が提案した小説を書いているんだろうけど、絶対に私には見せてくれなかった。
私が提案したんだから、私にも見る権利はあるはずなのに。
ちょっとつまらないけど、ハルカが楽しそうだからまぁよしとしよう。
「ミク早く」と私を呼ぶ声に「今行くから」と手を振った。
夕日が沈んで月が昇った。今日は三日月だ。妖精が椅子にして座っていそうな細い三日月に、その周りを星が瞬く。
ハルカの下手くそな鼻歌に合わせて私も歌う。ずんずんと進む足取りは軽くて、今ならどこまでも歩いて行ける気がした。
「あ、見てよミク。勇者の剣だ」
唐突にそう言ってしゃがみ込んだハルカは、足元に落ちていた変な形の木の枝を拾う。
少し前の私なら「枝じゃん」と冷めた目で返事をしていただろう。
くく、と笑ってから、私も足元のヤツデを拾った。
「じゃあ、こっちは賢者の盾」
おおお、と目を丸くして感嘆の声をあげたハルカ。
すると、突然辺りをきょろきょろと見回し始め、何かに気が付いたようなそぶりを見せる。悪戯を閃いた少年のように、にいー、と悪い笑みを浮かべた。
「勇者の剣と賢者の盾を拾ったら、次は何が出てくると思う?」
「ラスボス? 魔王とかドラゴンとか」
なんてね、と肩を竦めた途端、ハルカは私の手を取り走り出す。もつれそうになった足を何とか動かし、目を白黒させながら「突然何!?」と叫ぶ。
「ほらみてあそこ、ドラゴンが現れた!」
ハルカが車道の反対側にある公園を指さす。恐竜の滑り台ひとつだけある質素な公園だった。
「ミク、石板だ。“この先、ドラゴンが生息する地帯。用心されたし”て書いてある」
公園の入り口に設置された案内板を指さしながらハルカは笑う。
英語で書かれたその案内板は、なんと書かれているのかは分からないけれど、きっと公園のルールについて書かれているのだろう。
────それでも。
私はハルカの手をぎゅっと握り返して、ハルカの隣に並んで走る。
「“勇者らの健闘を祈る”だってさ!」
そう言って声をあげて笑えば、ハルカもクスクスと笑いだす。
勇者の剣を掲げたハルカが「とつげーき!」と走り出す。ヤツデの葉っぱをひらひらさせながら、ハルカの背中を追っかけた。
あちこちを二人で走り回って、気がつけば知らない公園にたどり着いていた。
道は綺麗に整えられているけれどトンネルみたいに木が空を覆い隠す。頼りない街灯だけが足元を照らして、森の奥にいるような気分になる。
ハルカの手を握りなおすと、ハルカもキュッと力を込めた。
「ねぇミク。なんかどきどきするね」
「だね。なんかこの先に、魔女の家とかありそう」
「子供を食べるこわぁい魔女だよ」
ひひひ、と笑ったハルカに私も笑う。
二人で森を突き進む。そして。
「わぁ!」
森が途切れた先にあったのは、怖い魔女の家よりももっとドキドキするもの。
「きっと人魚が住む湖だよ……!」
ハルカが声を弾ませる。
私は目を見開いてそれを見つめた。
鏡のような水面に夜空が反射して、まるで星が降ってきて湖に積もったようだった。よく見ればただの藍色じゃない。西の空はギリギリ夕日がまだ残っていて、檸檬色に光っている。そこから橙、ピンク、赤、紫少しずつ色が移り変わってやがて深い夜空の色を作る。映る星の粒はぎらぎらと光っている。その一粒一粒がキーンと音を発しているみたいだ。その中に、ぽちゃんと落ちてきたみたいな三日月がゆらゆらと揺れている。
私は息をするのも忘れ、食い入るように湖を泳ぐ月と星を見つめる。
本当に、おとぎ話みたいな景色だった。
私の手を握っていたハルカが、キュッと力を入れて握ってきた。我に返ったようにハルカの顔を見る。
「ミク、あれみて」
ハルカに手を引かれ、私達はギシギシと音を立てて軋む船着き場に立った。
まさか、と思ったその時。
「船乗りたい!」
「いやいやいや、絶対やばいでしょこれ!」