雲一つない青空。
透き通った空気。
時おり肌をすべる、桜の花弁。
全身で春を感じながら、茶色のスーツに身を包む。
まるで太陽を吸い込んだオレンジ色のバラは、ビタミンカラーと呼ばれるだけあって、持っているだけで元気になれそうだ。
「よし、行くか」
深呼吸して、いざ。
踏み出す足に、力が入る――
◇
彼女との出会いは、十年前。
急な夕立で全身びしょ濡れになりながら、走って帰路についた時。
誰かとぶつかった衝撃で「ある物」が落ちる。
それは俺の所有物ではなく、ぶつかった相手側の物だった。
「わ、すみません!」
「私こそ、前も見ずに……!」
前も見ずに――と言った同じタイミングで、土砂降りの雨が激しさを増す。次々に瞼にかかる雨粒のせいで、前どころか、目の前の景色でさえも不明瞭になる。
「これは……大変だ」
「ぷっ。本当、最悪ですね」
最悪ですね、と言いながらも、可愛い笑みを浮かべる彼女。大事そうに抱えていたのは、一冊の本。さっき俺とぶつかって落ちた物だ。
「すごく濡れてますね……すみません」
「気にしないでください。それでは!」
視界が悪い中、曇天の下を走ろうとするものだから。彼女を一人で行かせていいのか?と、心配症が顔を出す。
この暗さだ。もしも変な人がいたら、もしもスリップした車に巻き込まれたら――なんて。ぐるぐる回る心配が体の内側から溢れ、衝動的に俺を動かす。
「ちょ、ちょっと待って!」
「え」
気付けば、手を伸ばしていた。
届かないと思った手は、彼女の華奢な腕をしっかり掴んでいる。
「あ、あっちに川を渡る道路があります!その下に、避難しませんか⁉」
「えっと」
「もちろん、川の水位が上がりそうなら無理ですが‼」
「……ぷっ」
見ず知らずの男に高架下に誘われた――一歩間違えれば変質者になり得そうな俺の提案を聞いた彼女は、眉間を顰めるどころか、盛大に吹き出した。
「行ってみます。夕立なので、すぐ止むでしょうし」
「いいんですか?」
「もちろん。あ、川の水位が上がりそうならダメですよ?」
「は、はい!」
「ふふ」
口に手を添え、慎ましく微笑む彼女。
俺の提案にのってくれたことが嬉しくて、「こっちです!」と。彼女を誘導する声が、いつもより大きくなる。
――高架下に移動してすぐ。
ハンカチで顔や腕を拭きながら、お互い軽く自己紹介した。
「私、この道路の向こう側の学校に通ってるの。
日名野(ひなの)麻衣(まい)、高校一年生」
「俺は、道路のこっち側の学校に通ってます。
三屋(みつや)一夏(いちか)、同じく高一」
俺たちが雨宿りしている高架は長いわけじゃないし、高架が隔てる両町は、互いの生活が成り立つくらいには何でも揃っている。
故に〝それほど長い高架ではないけれど、わざわざ渡るのは面倒くさい〟というのが両町の、ひいては俺と彼女の共通認識だった。
だからこそ、その高架をわざわざ渡って来てくれた彼女との出会いが、魅力的に思える。もしかしたら奇跡じゃないのかって。
彼女――日名野さんは、どういう理由で高架を渡ったんだろう。
(たまたま渡ってみたくなった?それとも、好きな人がこっちにいるとか?)
まだ会って数分なのに、脳内が「なんで」、「どうして」のオンパレード。さながら好奇心旺盛な子どもだ。自分でも不思議なくらい、日名野さんのことが、ひどく気になった。
「さっきは家に帰るって言ったけど、本当は早く本を拭いてあげたかったの。だから、ありがとう」
「え、いや……うん。本は、大事だもんね」
言いつつも、しっかり落ち込む自分を確認する。
日名野さんがココにいる目的が、俺と過ごす事ではなく、本の応急処置だったからだ。
(いや、でも普通〝そう〟に決まってるよな)
当たり前じゃないかと、納得すると同時に。「俺と一緒にいたかったわけじゃない」現実に、心の隅で静かにダメージを負う。
今まで周りのカップルを見ても、どこか他人事と思っていたけど。やっぱり思春期の男子たるもの、「もしかしたら」の可能性を、いつ何時も心に持ち合わせているらしい。
だけど持ち前の心配性が功を成したのか。自己防衛のために、自転車にするように、己の心にもブレーキをかけていたらしい。ダメージは、最低限だ。
(この気持ちが、恋になる前で良かった)
水面下で灯った埋火が、この雨で打ち消される。
良くも悪くも、恵みの雨だ。
「えっと……それ、なんて本?」
「これはね、私の夢の本なの」
「夢?」
「ふふ、見てみる?」
多少の雨を吸ったからか、受け取った本は、見た目よりも重かった。青と緑の中間色の服をまとう本のタイトルは「私だけのパン屋さん」。
中を開くと、様々なパンの写真がある。
だけど載っているのは、パンの作り方ではない。
「私、昔からオリジナルのパンを作るのが好きなんだ。将来は、パン屋さんを開きたいの」
「へぇ、すごい!」
パンの作り方が書かれていない本には、パン屋そのものの作り方が書かれていた。揃えるべき機械の種類、お金の準備――様々なノウハウが記されている。
「高校一年生なのに、もう将来のこと決めてるんだ……すごいな」
「すごくないよ。私は、パンが好きなだけ」
彼女の横顔の向こうで、曇天が消えていく。
雲の隙間から太陽が顔を出し、光の筋が地上を目指す。
俺から見る角度は、まさに彼女が雲を晴らしたように見えて。
自分の夢について語る彼女は、思わず目を瞑ってしまうほど、眩しく輝いていた。
◇
「一夏くーん、また来ちゃった」
「わぁ、すごい汗だくだね」
「この道路、地味に長いんだよね」
文句を言いながら、この場に影を落とす〝ありがたい存在と化した高架〟を見上げる日名野さん。「下は涼しいねぇ」と、ハンカチを首にあてる。
あの夕立から、一週間が経った。
俺と日名野さんは約束したわけじゃないけれど、毎日のようにココへ来て、話をしている。
学校のこと、勉強のこと、街のこと。
そしてもちろん、パンのこと。
「そうだ、あれから気になる資料を学校で見つけたんだ」
「え、うそ!コレうちの学校に無いの!やった、借りてもいい?」
「もちろん」
連日、日名野さんのパン愛を聞いているうちに、俺はすっかり彼女の夢の応援者となった。
図書室に行けばパン屋の資料を探したり、パン屋を見つけては……男子一人では羞恥心もあって入れないけど、店の外観を眺めてみたり。
いくら応援者と言ってもやりすぎだよな――なんて思いはあれど。こうやって喜んでくれる姿を見ると、また何かしてあげたくなる。
「でも私のことばかりしてもらって、悪いなぁ。三屋くん、何かしてほしい事ある?少しでも恩返ししたいよ」
「してほしい事……」
「願い事とか!」
日々の愚痴を思い返すと、もっとゲームする時間がほしいとか、もっと寝たいとか。勉強から逃げたいし、テストなんて受けたくないとか――引くほど色々ある。尤も、日名野さんに言うには恥ずかしいので、口には出来ないけど。
それに、不思議と。日名野さんを前にすると「そういう願望じゃないもの」が湧いてくる。彼女から何かしてもらえるなら……もっと別のことがいい。
「……名前」
「え?」
「名前で呼んでほしい。あと、俺も名前で呼びたい」
「……」
日名野さんの顔を見れなかった。ドン引きされていたら、どうしよう――そう思うと、顔を上げられない。
俺の視線は意味もなく、河川の水面をさ迷っている。視界に入ったトンボを、無意識に追いかけた。すると、少しはにかんだ日名野さんを視界に捉える。
「うん、いいよ」
「え?」
「私たち、名前で呼び合おうよ!」
「!」
この瞬間、俺の中に芽生えた「何か」は、日を追って順調に成長した。と同時に、俺に夢を語る日名野さん――麻衣の凛々しさも、比例して増した。
名前で呼び合う事にも慣れて来た、ある日のこと。唐突に、麻衣が言った。
「言霊ってあるじゃない?そのおかげなのかな。最近、すっごくやる気が出るの!」
「やる気?」
「願いを言葉にすると、夢に近づくみたい。一夏のおかげだね」
「くん」も「さん」も取っ払った俺たちの時間は、それはそれは心地いいもので――麻衣の些細な言葉にだって、俺の全身が浮足立つ。
「が、頑張ってるのは麻衣で、俺は何もしてないよ」
「そんなことないよ。一夏がそばにいてくれると心強いもん。夢の話をできるのも、一夏だけ」
「え、他の人には?」
「……恥ずかしい」
体育座りをした足の膝小僧を、キュッと寄せる麻衣。初めて見る姿に、忙しなく心臓が動き始める。自分の頬が紅潮した瞬間を認識したのは、初めてのことだ。
「あのさ、麻衣」
「ん?」
俺は、今この瞬間が、忙しなくも心地いい。
ブレーキの効かないぬかるんだ道を進み、沈んでいく。沈んだ底はもっと心地いいのではないかと、期待してしまう。
そう感じるのは、俺だけかな。
二人一緒だったら、嬉しいな。
もし麻衣が同じ気持ちだったら、俺は――
思い描く未来を予想して、思わず口角が上がる。麻衣が「どうしたの?」とペットボトルの蓋を開ける際、大きな瞳を寄こすけど……本音なんて言えるわけない。再び頬が認識するのを感じながら、話を逸らした。
「麻衣にも、秘密にしたい部分ってあるんだ」
「そりゃあるよ。私だって女の子だよ?むしろ秘密ばかりだよ」
それ女の子って関係あるの?と聞こうとした。
だけど――いつの間にか赤く染まった麻衣の頬を見て、思いとどまった。
代わりに口をついて出たのは、別の質問。
「将来パン屋を営んだ時……。
麻衣は、誰と一緒に自分のパンを売りたい?」
「え……」
麻衣の頬に散る赤が、更に深みをましていく。
どんどん熟れていき、しまいには耳まで染まった。
その時の麻衣は、俺じゃなく、高架を挟んだ向こうの町を見た。
「いるよ、一緒にパン屋をしたい人。
幼なじみ……兼、私の好きな人」
「……そっか」
いるんだ。
麻衣には、好きな人がいるんだ。
こちら側じゃなく、あちら側に。
高架を挟んだ、麻衣たちの世界に。
「生まれた時から一緒でね、くされ縁なの。ケンカばかりなんだけど……でも私のパンを、私と一緒に売ってほしいって思う」
「……そっか」
同じ言葉を繰り返す俺の横で、彼女の「赤」が去る。代わりに現れたのは、夢を語る、あの真剣な目つき。すごい勢いで、麻衣は俺を見た。
「もし私が幼なじみと一緒にパン屋を開いたら……一番最初のお客さんは、一夏がいい」
「お、俺?なんで?」
なんで?と聞いたけど、麻衣の答えは変わらない。
「一夏がいいの」
真一文字に閉じられた口。
俺を見る、真剣な瞳。
その瞳の奥に見える、俺へ信頼。
それを目の当たりにした瞬間、俺は俺のいるべき立ち位置を理解する。
「俺がいると、そんなに心強いの?」
「当たり前だよ。今まで漠然としか抱いてなかった夢を、ここまで形にしたいと思えたのは……一夏との時間があったからだもん」
「光栄だよ」
俺が〝俺の恋心〟を育てている間に、麻衣は〝夢の芽〟を育てていた。同じ場所に並んでいたけど、見ている方向は同じだと思っていたけど――蓋を開けてみれば、なんてちぐはぐ。
「俺さ、実は心配症なんだ」
「知ってる。夕立の時に川の水位を気にする人は、一夏が初めて」
「からかわないでよ……」
照れた俺を、わざと覗き見る麻衣。
この瞬間でさえも、彼女の瞳には、俺は「彼女の夢を応援する応援者」としか映っていないと思うと……やっぱり胸がきしんだ。
口に出さないまま失恋した。
なんともあっけない、初夏の恋。
始まらないまま終わりを告げた、哀れな感情。
だけど――
「俺の心配性ってどこに行ったんだろうな?って思うくらい。麻衣の前で、俺は猪突猛進だったなぁ」
「何の話?電柱にでも突っ込んだの?」
「はは、違うよ」
俺が突っ走ったのは、きっと〝麻衣の魅力〟だ。
石橋をたたいて渡る俺が、なりふり構わず、麻衣を好きになった。会ったばかりの他校の女子を好きになるなんて、心配性がすることじゃない。
一度はブレーキをかけた。
だけど、やっぱりぬかるんだ。
どうやら俺の心のブレーキは、しょっぱい雨が降ったせいで錆びたらしい。
これは早急に直さなければ――
「いきなりだけど、断言する。
君の夢は、絶対に成功するよ」
魅力的な麻衣が焼くパンが、魅力的じゃない、ワケがない。
「勝手だけど、俺に〝意地悪な約束〟をさせてほしい」
麻衣に、小指を差し出す。
「麻衣がお店をオープンする時、お祝いの花を持って行く。だけど〝君と幼なじみを心から祝いたい〟と俺が思っていたら、の話ね」
「え⁉じゃあ今は応援してないってこと⁉」
案の定な反応に、笑みが零れる。
「応援してるよ。でも、もっと応援したいんだ。俺のメンテナンスが完了したら、毎日メガホン持って〝がんばれ〟って叫べると思う」
「え、それはちょっと……派手かも」
眉尻を下げた麻衣に、笑顔を返す。
「それは冗談にしても。本当、楽しみにしてるからさ。たまに教えてね」
「近況報告だね!あ、じゃあ連絡先を、」
麻衣がスマホを出したから、彼女の手を上から押さえ、ポケットに押し戻す。
「この場所で聞かせてよ、近況報告。
今度は、その幼なじみも一緒にさ」
「!」
鳩が豆鉄砲食らったような顔をした後、麻衣の顔に、再び灯る「赤」。
「一夏くんは……色んな応援をしてくれるね」
「言ったけど、俺って心配症なんだよ。
一度聞いちゃったら、その後が気になるんだ。
だから――」
がんばれ。
がんばれ、がんばれ。
「絶対に、夢をかなえてね」
「うん!」
溢れんばかりの輝きをもつ麻衣の願いが、どうか実現しますように。
出会った日の土砂降り雨の勢いで、今度はハッピーが降り注ぎますように。
その時は――
俺は応援者であり、傍観者でいられますように。
君への淡い感情を、消化できていますように。
「じゃあ、またね。麻衣」
「うん、またね!一夏くん!」
麻衣と約束した、お祝いの花を持って行きたい。
例え君が、俺とは違う他の男性と一緒になっても、心から「おめでとう」と言いたい。
(あ、そっか。俺も〝俺を応援してあげなくちゃ〟なんだ)
君に拍手を。
君の隣を歩く幼なじみに祝福を。
そして今この瞬間から、失恋から立ち直る俺に、最大のエールを――
◇
それから十年が経った。
俺は今、一つの始まりを見届けようとしている。
雲一つない青空。
透き通った空気。
時おり肌をすべる、桜の花弁。
全身で春を感じながら、ある食べ物を連想させる茶色のスーツに身を包む。
まるで太陽を吸い込んだオレンジ色のバラは、ビタミンカラーと呼ばれるだけあって、持っているだけで元気になれそうだ。
「よし、行くか」
深呼吸して、いざ。
踏み出す足に、力が入る。
出来立ての白壁が眩しい、パン屋にたどり着く。
その前で最終チェックをしている一組の男女。
面影ある姿を見て、穏やかに口角が上がる。
「オープンおめでとう、素敵なパン屋だね!」
心の底から湧き出た俺の声に、女性が振り返る。
その人は真新しい店に負けないくらい、キラキラ輝いていた。
【完】