「ふふ、びっくりしちゃった。まさか碧くんがスーツ買いにくるなんて」

乙葉さんが声を発するたび、心が喜ぶ音がする。

「おれも、びっくりしました。スーツ買いに行ったら乙葉さんがいるなんて」

……なんだろう、この、気まずい沈黙は。
この前話したときでさえ、こんな沈黙なかったのに。

「私、家こっちだから」

乙葉さんが、Y字路を右に進んでいく。
……たぶん、今日が、ほんとの最後だ。
ここを逃したら、きっともう会えない。
そんな気がする。

「あの」

ひどい声だ。
かすれてる。

「おれ、乙葉さんが好きです」

ダメだ。乙葉さんの顔、見れない。
今ぜったい顔赤い。
だっせぇ、おれ。

ぎゅっとこぶしを握り込んで、乙葉さんの声を待つ。

……待つ。

……え、もう、帰った? いない?

そろりと顔を上げると、じっとうつむいた乙葉さんがいた。
大きな瞳をさまよわせて、心細げにたたずんでいる。

「……ごめん。わたし、彼氏いる」
「え」

あぁ、まじか。
失敗した。

そりゃそう、だよな。
こんなかわいい子が、フリーなわけない。

「どんな人ですか」

こんなの聞いてどうすんだよ、おれ。

「2年の頃、留学に来てた先輩。今は遠距離」

年上。
しかも、留学生。
なんか、スペック高そう。

「文化の違い? 価値観の違いかな、あんまり上手くいってなくて」

……これは、おれが聞いてていいやつ?

「そんなとき、碧くんに出会ったの。好きになっちゃいそうだったから、もう会わないようにしなきゃと思って。
わざわざ、シフト変えて。
あのとき話しかけたのは、ほんとに最後のつもりだったから。
また、会っちゃうなんてさ」


そういって、悲しそうに笑う。
きれいな瞳に浮かぶ光が、たよりなく揺れる。


そうか。
これは最初っから、叶わない恋だったのか。


「……もし。もし、今の人と別れたら。また会いに行くよ。土曜日、午後3時17分。あの場所に」
「……はい」



嬉しいような、切ないような、悲しいような、寂しいような、悔しいような。
なんだ、この気持ち。


もう、来ないかもしれない。
二度と、会わないかもしれない。
それでも。


スーツの入った紙袋を、ぎゅっとにぎる。
数年後、乙葉さんのとなりに立っていたい。