文化祭当日は早めに目が覚めた。リビングに行くと姉がコーヒーを飲んでいた。

「おはよう千歳。コーヒー飲む?」
「飲む。ブラックで」

 トーストと一緒にコーヒーを飲んだのだが、途中でブラックは断念して砂糖とミルクを入れた。

「僕、やっぱりまだブラックは早いみたい」
「背伸びしないでいいんだよ。千歳は等身大でいい」
「そうだね。決意も固まったし。僕は僕のままでいく」
「お姉ちゃん、最前列で千歳のこと観てるから。行っておいで」

 軽音部の部室には、僕が最初に着いた。少しして、静人と大我がやってきた。

「おはよう二人とも! 本番だね!」

 大我が言った。

「おはよう! 何だ、すっかり元気じゃん。空元気じゃないよな?」
「違う。僕なりにさ、決めたことがあって。今日は思いっきり歌う。静人、大我、僕のこと支えて」

 静人が僕の肩に手を置いた。

「何かは聞かないけど……わかった。ボクたちも最高の演奏するからね」

 ステージ組は出番の二つ前から待機だ。陽希がギリギリになってやってきた。

「陽希。よろしくね。言ったでしょ、僕は陽希のこと信じるって。陽希も僕のこと信じてる?」
「うん……信じてるよ」
「じゃあいい。それと。いつもの公園で話そうね」
「わかった。俺の方、振り向くんじゃねぇぞ。観客席だけ見てろ」

 僕はズボンのポケットに手を突っ込んだ。その中には、陽希と夏祭りで一緒に取ったスーパーボールが入っていた。僕が考えたお守りだ。
 ついに出番が来て、セッティング。僕はマイクスタンドの前に堂々と立ち、客席を眺めた。椅子は満席だ。立ち見の人も大勢いた。姉がどこにいるかはわからなかったが、必ず来てくれている。

「次は、軽音部の演奏です」

 その時がきた。陽希のスティック。タン、タン、タンタンタン。ここから始まるんだ。僕たちのステージが。

 ――やってやる。

 一曲目の「遠雷」。僕はリハーサルの時のように出遅れることはなく、完璧なタイミングで声を放った。視線は観客席に向けていたが、一人一人を見ていたわけじゃない。僕の心は陽希のところにあった。

 ――お客さんのためでもなく、自分のためでもなく、陽希のために歌う。

 それが僕のエゴ。今ここで歌っている理由。僕が最後のフレーズを叫び、楽器隊がピシッと動きを止めると、歓声が上がった。いける。僕は拳を突き上げた。

「ミナコー軽音部です! グレーキャットの遠雷をお送りしました!」

 メンバー紹介。

「あと二曲演奏します! 次は、サクラナミキ!」

 静人の美しいギターの音色。僕は「遠雷」の時とは一転、気持ちを静めてしっとりと歌い始めた。

 ――陽希もこんな気持ちだったんだな、ずっと。

 隠し続けていた恋心。想いを伝えない、そういう方法を陽希は選んでいた。きっと、「サクラナミキ」の歌詞には共感していたに違いない。曲が終わると、またしても歓声に包まれた。

「本日は、ご来場いただきありがとうございます! ミナコー文化祭では色んな展示や模擬店があります。そんな中、皆さまがここに来てくださってとても嬉しいです! 僕たち軽音部は、この日のために全力を尽くしてきました。その成果をここで出します! 最後までお楽しみ下さい! フォーマルハウト!」

 陽希のシンバルの音から始まる。知りたい。陽希がどんな表情でドラムを叩いているのか。振り返ってはならない。それが約束だ。音で僕を後押ししてくれているのだと鼓舞し、ラストの曲を絶唱する!

 ――ねえ、陽希。響いてる? これが、僕の歌。陽希が褒めてくれた僕の歌。陽希のための歌。

 昨日の夜、僕は決心した。僕は陽希と一緒に生きたい。演奏して、勉強して、例え離れ離れになったとしても、心はいつでも一緒にいたい!

「……ありがとうございました!」

 割れんばかりの拍手の中、僕はステージを後にした。
 それからは大変だった。
 体育館を出ると、僕のクラスの奴らや、よく知らない上級生たちにまで囲まれてしまった。

「千歳、凄かったぞ!」
「千歳くんカッコよかった!」

 まだ興奮が収まらない僕は、笑顔で写真撮影に応じた。「軽音部の植木千歳」はすっかり有名になってしまったようだが、構わない。僕が僕であることに変わりはないのだから。
 一段落ついて、スマホを見ると、陽希からメッセージが来ていた。先に公園で待ってる。そういう内容だ。
 僕は、駆け出した。

「陽希、お待たせ」

 ベンチに座っていた陽希は僕を見ると、軽く右手を挙げた。缶コーヒーが置いてあって、それを飲んで待っていたらしい。

「千歳。文化祭、大成功だな。今日の千歳は輝いてた。最高だった」
「ありがとう、陽希」

 僕はベンチに腰掛けた。

「あのさ……陽希。まどろっこしいことしたくないから。結論から言うね。僕も陽希が好き。付き合おう?」

 陽希はきょとんとした顔をした。断られるとでも思っていたのだろうか。

「……本当に? 本当にいいの?」
「一晩、陽希とのことを振り返ってから気付いたんだ。僕はとっくに陽希のことが好きだった。僕を一番に選んでほしい。僕さ、けっこう嫉妬する方だと思うけど?」

 そして、僕はつんと陽希の頬を指でつついた。

「……千歳っ」
「ねえ、どうなのさ。僕と付き合ってくれるんだよね?」
「うん。付き合おう。でもさ……俺、けっこう欲張りだぞ? 千歳と色んなことしたいって思ってるぞ?」

 僕は息を飲み、陽希のうるんだ瞳を見つめて言った。

「例えば、キスとか?」
「うっ……」
「図星だ。キスは恋人同士じゃないとしないもんね。僕、陽希とならキスしたいよ?」
「いいんだな?」

 陽希が僕のアゴを手で支えた。一瞬、ひるんでしまったのが本当のところだ。あんなに大胆なことを言っておいて。胸の高鳴りを感じながら、僕は目を閉じた。
 初めてのキスは、コーヒーの味がした。

「……うわっ、恥ずかしっ!」

 陽希が叫んだ。

「えー? 僕はもう一回してもいいんだよ?」
「今日は無理! 嬉しすぎて死ぬ!」
「じゃあ明日しよう」
「何でそんなに乗り気なわけ? 千歳ってそんな性格だったっけ?」
「嫌いになった?」
「そうじゃないけど……」

 うつむいてもじもじする陽希の頭を撫でた。

「ふふっ。陽希、可愛いねぇ。可愛いねぇ」
「な、なんだよ……」
「僕が小学生の時の気持ちわかった?」
「その話持ち出すなって! もう!」

 こうして、僕には可愛い彼氏ができた。