律希は、考えていた。あの日の正臣の質問の答えが、自分の中でまだ出ていない。元々の答えはあの時すぐに出たし、正臣にだってそう言った。

 けれどその答えに、今一つ納得がいっていなかった。自分のことなのに、自分でもわからない。本当の理由が、自分でも気づいていないどこかにある気がする。

『どうしてTOMORIを使ってる』

 自分の歌が下手だから。けれど本当にそれだけだったか。

 そもそもどうして作曲なんかしてるんだっけ。

 音楽が好きだから。ザ・パルスが好きだから。ツミが好きだから。だから、彼らのようになりたかった?

 ──違う。自分で正臣に言ったじゃないか。

『誰かに届けたかったんだろ』

 そうだ、聴いてほしかったんだ。本当はありのままを。自分の抱えたどうしようもない感情を。誰かに聴いてほしくて、曲を作った。

 聴いてほしいから、TOMORIを使った。彼女の声なら、自分の声より多くの人に届くと思った。

 ただの音として聞いてほしかったわけじゃない。一方的に自分の気持ちを押し付けたかったわけじゃない。

 届かないから口をつぐむんじゃなくて、届かないなら届けられる努力をすればいい。

 だから音楽を紡いで、TOMORIに託したんだ。

 それでも、自分の声を世間に晒すことに恐怖心や羞恥心があったのは事実だ。自分で歌いたかったのに、それらのせいでできなかったのも本当のことだ。

 けれど今はもう、大丈夫。

 だから、ちゃんと伝えたい。ちゃんと聴いてもらいたい。

 律希は憂-yu-の作るべき音楽が、ようやくわかった気がした。



『憂-yu-と天ノ啓示さんとの間にメッセージのやり取りがあったのは事実です。この件でご迷惑をおかけした皆様、本当に申し訳ありませんでした』

 憂-yu-が投稿したポストには、フォロワーをはじめとしたリスナーたちからぽつぽつと反応があった。しかし炎上した時の比ではない。

 蜂喪の炎上騒動のきっかけが憂-yu-のDMだったのかは未だに不明なままだ。だから憂-yu-が投稿した謝罪文に、蜂喪の名前を出すわけにはいかなかった。下手にそうすれば、また蜂喪にとって負担になってしまうかもしれない。

『蜂喪とぶを炎上させたのは、俺のためですか』

 以前に入力したまま下書きとして残っていた、当時は送信ボタンを押せなかったメッセージ。それを律希は、少し前に天ノ啓示に送っていた。かつての自分にリベンジを果たしたのだ。

 しかしどれほど待っても、天ノ啓示は既読すらつけてくれない。彼に常日頃届くであろう多くのDMの中に埋もれてしまったのかもしれないし、彼はもう終わった話に興味がないのかもしれない。

 正臣の話では、はじめこそKINGは天ノ啓示と手を組んでいたが、天ノ啓示の提示する条件が過激なものに変わり、途中で決裂したそうだ。それを聞いて、正臣がわざわざ律希の部屋に忍び込んでまでDMのスクリーンショットを自らの手で用意したのに納得がいった。

 天ノ啓示は人を人とも思っていない、人の秘密を食い物にしているような奴なのだろう。その印象は今でも変わらないが、実際のところはわからないとも思う。

 なにしろKINGとツミと正臣の件がある。人の本当のことなんて、本気で知ろうとしなければ何一つわかるわけがない。

 きっとこれからも天ノ啓示は勝手な裁きを下すのだろうし、それを面白がる流れも消えはしないだろう。いつか彼がいなくなっても、また第二の天ノ啓示は現れるだろう。

 ネットの海はそういうものだ。海の底には知りようもない存在だってたくさんいるだろう。だからといってそこに感じるのは恐怖だけじゃなくていい。

 たくさんの人がいて、たくさんの感じ方があって、たくさんの思いがある。律希はそこで、みんなの波にのまれないようにうまく揺蕩(たゆた)っていたいと願う。


 少し経つと、憂-yu-の謝罪に寄せられた反応も数が増えてきた。そしてそれは意外にも、謝罪を受け入れてくれるような内容が多かった。炎上していた時のことを思えば、考えられないような展開だ。

 とはいえネットは流れが速い。数ヵ月前の炎上騒動のことなど覚えている人の方が少ないのかもしれない。それに、未だに憂-yu-のSNSを見ているのはきっと、元から憂-yu-のことを好意的に思ってくれている人たちが多いのだろう。

『そもそも悪くないじゃん』
『もう誰も気にしてないから大丈夫』
『ずっと待ってました。応援してます』

 SNSで多くのあたたかい言葉が寄せられて、全体的に憂-yu-を庇う流れができた時、それを後押ししたのは他でもないツミのポストだった。

『全部、自分がやりました。自分がKINGの正体です』

 それから、ツミのリスナーたちをはじめとした、マッチやTOMORIのファンは大きな混乱に飲み込まれた。当然のことだ。すべてを知っている律希だって、ツミがそれを投稿したことには驚いた。

 しかしそれもすぐに風化し、次第に忘れ去られてゆくのだろう。きっとそういうものなのだ。

 ツミという神様は、神様なんかじゃなかった。けれど確かに、誰かの救いになっていた。そのことだけは、本当だ。

 SNSで大きな混乱を巻き起こして、それからツミは、姿を消した。休止するなどの報告もなく、SNSのポストひとつさえ投稿しなくなってしまったのだ。

 そしてそれは、KINGも同じだった。


「いってきます」

 律希は家を出る前、扉が開け放たれたままの防音室を覗く。そこにはもう、誰もいなかった。神様も王様も、律希の兄すらも。

 正臣が一人暮らしを始めると聞いたのは、彼がすでに家を出た後だった。

 母親と父親はその行き先を知っているらしいが、正臣から律希には言うなと口止めを頼まれたらしい。そんなことをしなくたって、もう追いかけようとも追いかけまいとも思わないのに。

「『まともな兄になれたら、また会おう』だと」

 漫画のようなセリフをことづけられた父親は、小さく笑いながら言った。その笑顔を見たときに、父親の無関心は彼なりの優しさだった可能性が律希の頭をよぎる。

「そうやって勝手に行っちゃうのよね、どうせ」

 ソファに座って膝の上のココを撫でる母親は呟いて、その背中はどこか寂しそうに見えた。

 今日は帰りに、母親の好きなケーキを買ってこよう。そう思いながら、律希は玄関のドアを開ける。


 律希の吐いた白い息が、高く澄んだ空に昇っていく。肌を刺すような冷たさは、雪の気配を感じさせた。

 教室に着くと、ドアに近い稲葉の席の横を通ることになる。彼もちょうど今来たところのようで、リュックを机の上に下ろしていた。

 リュックに、ふてくされた表情のミツバチのキャラクターのマスコットが付いている。それが蜂喪とぶのアイコンのキャラクターだということに律希はすぐに気がついた。

「……稲葉」
「あ、おはよう、成沢」
「ごめん」

 自分は何を口走っているんだと思ったが、言わずにはいられなかった。稲葉の神様を奪ってごめん。自分から言い出しておいて、その詳細を語ることはできない。

「え? あ、前の間違いメッセージのこと? 全然いいよ」

 都合のいい勘違いをしてくれた稲葉に、律希は曖昧に笑って返す。

 それから稲葉は、目を伏せた律希の視線の先に蜂喪のマスコットがあることに気がついたようで、嬉しそうに言った。

「そういえば、蜂喪とぶがまた活動し始めたんだよ」
「えっ──そうなの?」
「そう! 新曲、成沢も聴いてよ。最高にいいから! 休止期間中に充電できたって蜂喪とぶは言ってたんだけど、本当にそんな感じで、すごく冴えた曲なんだ」

 律希はなんだか、泣きそうだった。蜂喪とぶが復帰したことも、稲葉が本来の楽しみを取り戻せたことも、まるで自分のことのように嬉しい。

「──よかった……」
「成沢、あの時はありがとう。僕に言ってくれたでしょ?」

 稲葉からの唐突な感謝の言葉に、律希は思い当たることがなく困惑する。

「何があったって、その時自分がその音楽を好きだったのだけは本当のことだって。自分がそれを好きな気持ちとか、感動したこととか。それは自分だけの宝物──なんだよね? 僕も本当にそう思うよ」

 確かにそれは、律希が考えそうなことではあった。けれど稲葉にいつそんな本心を打ち明けたのだろう。

「俺が言った? いつ言ったっけ」
「言ってくれたよ。蜂喪とぶが炎上した時に」

 あの時のことかと律希は納得した。当時はとにかく必死だったのだ。

 自分で何を言ったかも覚えていなかったが、だからこそなのか、律希の考えている一番大切なことを稲葉に伝えていたらしい。

 なんとなく気恥ずかしいが、友人に自分の本音を知られているのも悪くないと律希は思った。


 二学期最後のホームルームが終わると、みんなが浮き立つような空気を感じた。明日からは冬休みだ。

 教室から出ていく波に律希も乗って昇降口を目指そうとしたが、横から誰かに腕を掴まれて列から抜けることとなってしまう。

「ちょっと、なにか忘れてるんじゃない?」

 頬を膨らませて不満を表面する心海が、律希の制服の袖を引っ張っていた。

「たまには律希から誘ってよ。それにもう冬休みになっちゃうのに」
「ごめん、考えごとしてた」

 母親へのケーキを買うことで頭がいっぱいだったのは本当だ。自分から心海を誘うことを避けていたのも本当だけれど。

 少しだけ怖くて不安だった。なにしろ心海との関係性は相変わらずハッキリしていない。もし拒否されたらどうしようと思っていたが──それは、心海も同じだったのかもしれない。

「一緒に帰ろ」

 律希が改めて言うと、心海は嬉しそうにする。その笑顔に、これからは近づくことを恐れるのはやめようと律希は決心した。


 雪のちらつく帰り道、心海はワイヤレスイヤホンを取り出すと片方を律希に渡した。

 一つの歌を二人で聴きながら、もし有線イヤホンだったらもっと青春っぽい絵面になっていたのかな、なんて律希は想像する。

「前にも言ったけどね、私、ユウも律希も好きなの」

 心海は相変わらず思わせぶりで、しかしそれが彼女の素の性格なのだということを律希はもうとっくに理解していた。それにきっと、ただ思わせぶりなだけでもないのだろう。

「だからこの新曲、本当に大好き」

 そう言ってもらえて、律希は安心した。

 ずっと誰かに伝えたかった。ずっと誰かに聴いてもらいたかった。

 二人の頭の中に響き渡っている憂-yu-の新曲は、律希とTOMORIとのデュエットソングだった。


 先月に行われた、閃火コンの最終結果発表。そこで憂-yu-は惜しいラインにすら届かず落選、ツミは辞退という結果に終わった。

 後悔はなかった。閃火コンのおかげで、色々な気持ちをこめた音楽たちを作ることができた。それは全部紛れもない憂-yu-の大切な作品で、きっとこれからの糧となる。


 そうして色々な気持ちを経てできた今回の新曲は、今の律希が一番伝えたいことをしっかりこめて、聴いてもらうための工夫だって今までにないくらいにできた。

「『王冠を被り直した王様、見上げた空の流れ星』」

 心海が口ずさんだ歌詞が、しんしんと降る雪の狭間に溶けてゆく。どこかで彼も、聴いてくれているだろうか。


 帰宅した律希は一息つくと、自室でパソコンに向かう。画面の中ではTOMORIがいつもと変わらない姿で微笑んでいる。
 
 律希の指先が、また新たな音楽を紡いでいく。静かな律希の部屋にカタカタと小さな音を立てるのは、かつての神様から譲り受けたMIDIキーボードだった。


 換気のために開いた窓から、冷たい空気が流れ込む。

 空を見上げた律希の目の前を、小さな蝶が羽ばたいていった。



 【 終 】