行方、と呼ばれた男はうっそりと顔を上げる。
 低血圧なのだろうか、動きはノロいし、顔色は生白い。痩せていて不健康そうで、なんというかあまり生きている感じのしないやつだった。うっとうしく長い黒髪の隙間から目が見えた。なにを考えているのかわからない、無感情な瞳。

「……なんですか」
「南くんは忙しいんだって、あの子に言ってきてくんね?」
「なんで僕が」
「おまえ暇そうだし、暗いし、たまには女子と喋る機会ねえとかわいそーだろ」
「別に」
「いいから行ってこいよ!!」
「……」

 言い返すのも面倒なのか、行方は愚民ABCの言葉に逆らわず席を立った。
 よく見れば行方は長身だ。自分よりも背が高いかもしれない。

(ダセー、断れねえンかよ。ほんと暗いやつ)

 南はふたたび作り物の世界へ戻る。ぺらぺらとページをめくりながら思う。この世に起こるほとんどのイベントは退屈で、天才の作った虚構の世界を眺めていた方がよほどおもしろい。
 だからだろうか。たまに南は、南であることをやめたくなる。だれか別人に変身したいと思うのは、退屈凌ぎの一環なのかもしれない。


 ★


 電車を乗り継ぎ、南は都心のターミナル駅に出た。駅ビルのトイレで着替えると、元々着ていたブレザーをカバンの中に丁寧にしまう。シワがつくのが嫌だった。

 度なしのカラコンをつけて、慣れた手つきでメイクを終える。筆箱に偽装したポーチの中は、口コミをみてネットで揃えた。ウィッグはつけない。地毛のショートカットの方がメイクした顔にハマッている。朝、セットした髪をコームでとかしながら、

(……やっぱ俺、宇宙一かわいいわ)
 にんまりする口をマスクで隠し、何食わぬ顔でトイレを出る。

 するとどうだろう。
 すれ違う男が、女が、南にちらちらと視線を送るのがわかった。

「かっわいい子! モデルさんみたい」
「顔ちっちゃーい」
 だよな、だよな。南は心の中で同意する。

「すみません、今ひとりですか?」
 南は声を出さずに首を振る。大学生風の男だ。南が上目でみれば、たじろぐようにして離れていった。

 俺が一番かわいい。昼間の下級生なんか目ではない。神がこの世に授けたもうた生きる芸術。
 かわいい。めっちゃかわいい。すげーかわいい。
 その言葉で、南の心は満たされていく。まるでパズルだ。投げかけられる視線が、言葉が、ピースとなって南の心を埋めていく。

 はじめは退屈しのぎだった。SNSで見かけた女装男子がバズった写真を見かけたのだ。俺の方がかわいいと思った。たまたま横を通った大学生の姉に、学祭で女装喫茶をすることになったのだと制服を借りた。すると、おもしろがった姉たちが予行練習だと南にメイクをしてくれた。それから「最高にかわいい!」と手を叩いて喜んだのだった。

 ——かわいい。
 そのとき南は思い出したのだ、忘れていた感覚を。足りなかった何かを。

 南には二人の姉がいた。歳の離れた姉二人は、南のことを人形がわりにして遊んだ。生まれてすぐに赤ちゃんモデルにスカウトをされた南は、姉たちの格好のおもちゃになった。そして母もそれをとめなかった。南の顔があまりにかわいいので、かわいい服が似合うのならそれを着せればいいと思っていたようだ。母は今でも少女趣味だ。

 幼稚園に上がった南は、はじめてズボンを履いた。男の子はズボンだと制服が決められていたからだ。もちろん着る服が変わっても南はかわいがられた。女子から、先生から、保護者から、南くんはかわいいとちやほやされ続けた。そして小学生になった。進級するにつれ南の評価は「かわいい」から「かっこいい」へ移り変わるようになった。

 南くんってイケメンだよね。めっちゃかっこいい。
 いつの間にか、南は「かっこいい自分」を演じるようになったのだ。もちろん、かっこいいと言われるのだって嬉しい。遠巻きにきゃあきゃあ言われるのも悪くはないし、この見た目なのだから当然だろうとも思う。
 
 けれど「かわいい」でしか得られない栄養のようなものがある。それに、実際かわいいのだ。自分以上にかわいい女子を、南は見たことがない。もちろん男子もだ。かっこいいの頂点であり、かわいいの頂点。それが南凪月。

「ねえ、こんなところで何してるの?」