坂口とスタバに行った翌日。
教室の雰囲気がいつもと違って見えた。
僕を見て何かを言い合う女子の姿。
刹那、左腰を誰かに蹴られてゴミ箱にぶつかった。
ゴミ箱にあったものが倒れて、床に散らばる。
「おはよぉ。サボり部さん」
髪を掴まれる。
そいつは、坂口をいじめている男子、三木谷だった。
「三木谷、相澤……、急になんだよ」
隣にいる相澤はバスケ部のエースで、今まで一度も出場できなかった東海大会に連れて行った期待の部員。
新人戦で見せたチームプレイは、他校にも衝撃を与えたらしい。
「いやぁ、お前が、坂口と仲がいいと聞いてね」
「……」
「見たやつがいるんだってさ。お前、部活サボってんのに、呑気に女子とスタバ?」
三木谷が僕の腹を蹴る。面倒ごとが増えた。
この事態を考えるといじめの的になっていることは確定だった。
「あー、お前と違って女子人気あるから。今はないか」
女子人気のない相澤。
煽りに耐えられなかったのか、代わりに三木谷が腹に蹴りを入れてくる。
受け身をとっていなかったせいで、当たりどころが悪く吐きそうだ。
「てめぇ、あんま調子乗んなよ?」
「はいはい。肝に銘じるので、手、退ける?」
「おい、お前、相澤に向かって調子乗りすぎなんだけど」
それでも三木谷は相澤がボスだと、二番手である三木谷は別だといいたげだ。
三木谷はバスケ部で目立つ成績はないと聞く。
構う理由もない。相澤に目を向ける。
「退ける?」
「お前、後で覚えとけよ」
三木谷は、時計を見て読書の時間に気づいたのか、手をどけた。
相澤が三木谷の隣にいた理由はわからないが、なんだかあまり僕に興味がないように見えた。というより、ゴミを見る目で見られたような気がすると言ったほうがいいのだろうか。
教師にバレると面倒だと言うことは理解しているみたいだ。
面倒な学校生活が始まったと舌打ちした。
誰が告げ口したのか、教室を見る限り思い当たる人がいない。
牧田に頼んで探ってもらおうか。彼にお願いすると快く引き受けてくれた。
昼休み、坂口が何かを伝えようときてくれた。
だけど、相澤たちに捕まり聞くことはできなかった。
廊下の端にある教材室に入れられる。
モワッとした汚い空気がそこにはあった。
タバコの匂いもする。
火器探知機がないこの部屋でこの二人はタバコを吸っているのだろうか。
「とりあえず、説明してくれないかな」
腹を蹴り、床に倒れた僕は、少しずつ後ろに下がる。
背が壁にぶつかると逃げ場がないのだと現実を突きつけられる。
小窓を開ける時間があっても、相澤か三木谷のどちらかが妨害する。暴力は当然あるだろう。
「別にいじめたいわけじゃないんだ。お前は、サッカー部の中でもレギュラーメンバーなんだし。俺、お前のこと結構好きだから知っておきたいだけ」
正面にしゃがみ込んだ相澤は睨みを効かせた。
「で、坂口とはどう言う関係?」
それをいえば、考えをあらためてくれるだろうか。
「どうって、別に」
「隠す必要はないだろ?」
そもそも誰がそんな告げ口したのか。教えてくれそうにない。
素直に全部を伝えたとして、彼はいじめの的から除外してくれるだろうか。そんなわけないことくらい理解しているはずなのに。
もしも、仮にいじめの的から外れたとしても次の標的はまた戻るだけ。坂口に当たるだろう。
「隠したい理由があるんだって言ったらどうすんの」
刹那、腹に蹴りが当たる。三木谷は容赦がなかった。
受け身を取らなかったために、痛みが増している。今にも吐きそうだ。
「坂口を守る理由ある?」
痛みに悶絶していると、三木谷は汚い笑みを浮かべた。
歯が黄ばんでいるのが見える。まさか、タバコを吸っているのか?
「正直ないね」
「なら」
「言うほどの関係か?僕らは」
相澤はため息をつくとつまらなそうに立ち上がる。
「また今後聞くよ」
教材室から出ていく彼に続く三木谷。
もしかすると、坂口もここでいじめに遭っていたのかもしれない。
彼女がまたこの場に誘われて、いじめに遭うようなことがあれば証拠として残すことができるかもしれない。
外から足音が聞こえる。
ドアノブが捻られる。
誰かがくる。教師だったら、言い訳のしようがない。
どうやって逃げるべきだろうか。
思考を巡らせる間も無くドアが開いた。
そこには髪の長い女子の姿。
「坂口……」
「やっぱりここにいた。牧田くんが教えてくれたの。あの二人に連れてかれたって」
「……」
「ごめん、いじめられるのは私の役目なのに」
「役目って……。いじめはいいものじゃないだろ。勝手に役を得るなよ」
「悪い役に当てられただけだと思ってるから。今度なんか聞かれたら私が的になるように答えて」
正面でしゃがむ彼女の腕を掴んだ。
「君は悪い人じゃない。悪役は似合わないだろ」
教材室にいるのは、いじめられている二人。
本音が言えない似た者同士。
だけど、坂口は悪い人じゃない。
空いていたドアが閉まる。勝手に閉まる仕様になっているらしい。経年劣化のせいだろうか。
「……あ?ハハッ。坂口、そのメガネ」
床に膝をついて、近づく。
メガネを両手でとり、レンズを確認する。
「やっぱり……。これ伊達メガネだろ」
「どうして」
少し気分が落ち着いた。蹴られるのはやっぱり痛いし苦しい。
「なんとなくかな。昨日チラッと見た時と雰囲気が全然変わらないから。度が入っていれば、少しは変わる気がして」
「……」
やっぱりメガネがない方が、綺麗だ。
肌も綺麗だし、普段から気を遣っているのだろう。
「なんで、メガネなんか?」
「なんとなくって言ったらどうするの?」
「……」
どうやら触れてほしくないらしい。どうせアニメのキャラクターがなんとかかんとかいうんだろ。
「僕は、メガネがない方が綺麗で素敵だと思うけど」
「さすが、モテた男は違うね」
「今や、好感度も底に落ちきったね」
バシッと叩かれる。
「なんで乗っかっちゃうかなぁ」
嬉しそうに口角を上げるものだから、つい笑ってしまう。
ちゃんと受け答えもするし、意外と彼女も一般的な会話ができるんじゃないだろうか。
なんて思ったりもした。
「ここ暑いな。そろそろ教室に戻ろう」
タバコ臭くて暑いこの場所から離れたかった。
教室に戻るとやはりクラスの雰囲気は最悪だった。
僕ら二人を見るなり、小声でボソボソと話す女子たち。男子たちもくすくすと冷やかそうか迷っている様子。
孤立したんだなと改めて感じる。
ただいじめられている女子と話したくらいで。
どちらが正しいのだろう。
いじめられている女子と話して仲良くなること。
見て見ぬ振りをしていじめを黙認すること。
二択ならば、きっとクラスメイトは後者を選ぶのだ。
自己防衛もできて、面倒がないから。
人の内面なんて興味もないのだから、その発想に至る。
所詮その程度の考えだ。
今更クラスメイトと馴れ合うつもりはないし、どうでもいいけれど。
五限の休み時間。
「洋馬、坂口と教材室で何をしていたのかなぁ!?」
肩を掴まれ教卓へと投げ飛ばされる。
投げ飛ばした三木谷を睨む。彼は楽しそうに笑うだけ。
誰かがまた相澤に告げ口したのだろう。
「何なに?なんかしたの洋馬?」
三木谷の隣にきたのは、よく一緒にいる三森鈴香だった。
「教材室に連れてったのはお前だろ、三木谷」
「悪いことでもした?三木谷に目をつけられて残念だったね」
三森に何かした覚えがない。どうしてこんな因縁を認めてしまうのか。
だが、彼らの目を見てよくわかる。
いじめる相手が欲しいのだと。その相手ができるなら、誰でもいいのだ。
「ねぇ、相澤か三木谷に何かしちゃったんでしょ?」
三森が、僕の前にしゃがみ頬に手を触れた。
「だってそうじゃないと、蹴られたりしないよぉ?」
ボブカットの彼女は、綺麗な笑みを浮かべる。ゾッとする恐ろしさに鳥肌がたった。
「三森、いいから離れてやれよ」
「でも、こいつあれじゃん。レギュラーだったくせに部活サボってんでしょ?怠慢じゃん」
「サッカー部のやつどう思ってんの?お前らもムカついてんなら、同志だろ」
教室内にいるサッカー部に声をかける三木谷。
生憎、彼らは僕を嫌っている。部活をサボっていることに怒りを感じていない。怒りを覚えているとするなら、僕がレギュラーの座を奪ったことだ。
けれど、彼らは無言だった。何か言いたげなくせして何も言わないのか。
「いや、無視かよ」
「相場とかどうなんだ?」
サッカー部のレギュラーの一人。無言のまま、何も返すことはしなかった。
改めて嫌われていることを実感する。
「……もういいだろ。また、後で聞いてやるから」
相澤が、席に戻った。三木谷はそれに促される。
なんだか釈然としなかった。
どうして、相澤は僕に猶予を与えるのだろう。彼は、なぜすぐにいじめようと思わないのか。見ているだけ、聞いているだけなのは果たして理由があるのだろうか。
ある程度恐怖心を与えたらもうロボットのように言うこと全部聞くと言うのに。僕がそうなってしまうことくらいよくわかっている。
僕は、強くない。弱いから、強くなりたい。正しいことをするためには強くいる必要がある。
次、同じことがあるなら僕は強くありたい。正しいことを正しいのだと意志を貫く勇気。
今の僕にはそんなものあるだろうか。
逃げる時は逃げる。立ち向かうときは立ち向かう。それができるだろうか。
その線引きもできているはずだ。一線を超えない努力をするだけ。感情的にならないこと。それだけを意識するのだ。
放課後、すぐに僕は教室を出た。
誰とも関わらないためだ。
いじめの的に降格するなんて御免だ。
逃げられる時は、逃げる。
そうだ、これでいいのだ。
早歩きで逃げるように電車に向かう道中、スマホに着信があった。
こんな時に誰だよと、舌打ちをする。
真波だった。
「はい」
「あ、繋がった。全然、連絡返してくれないから、電話しちゃった」
可愛い声だなと思う。
彼女は一体専門学校で何を学んでいるのだろう。声楽だろうか。カワボっていい。
「学校あったし、スマホ見れないから」
「そうだよね。ねぇ、この後これる?カラオケでも行かない?」
「突然ですね」
相手が年上だったことを思い出して、敬語を使う。
「いいじゃん、行こうよ」
「栄駅でいいですか?」
「お、きてくれるんだね!栄駅で待ってるよ」
ここから二駅の場所に彼女はいる。
案外近いし、フットワークが軽い僕なんかすぐに行けてしまう。
しかし、金銭的にきつい。
スタバに行ってしまったせいであまりお金がない。
やはりバイトとかした方がいいのではないだろうか。
「すぐこれそう?」
「行けますけど」
「じゃあ、待ってるね!」
言いたいことは言えず、電話が切られてしまった。
金欠高校生がカラオケに行くのはまずいのでは?
待ってると知らないキャラクターのスタンプが送られてくる。
バリエーションが豊富だなぁと思いつつも、今置かれている現状について行けていない。
部活内で迫害され、部活に行かず、ついにクラスメイトにいじめられる。
坂口と関わるようになり、スタバの女性店員さんこと真波と連絡先を交換してカラオケに行く。
ここ数日で色々起こりすぎているような気がする。
二駅先にある栄駅。
待ち合わせであるサンシャイン栄の地下一階から地上に上がる。
夕方になると地下アイドルが歌って踊っているらしい。
よく見るけれど、毎回違うアイドル。ここもバリエーションが豊富だなぁ見惚れる。
あぁ、あの赤色担当の子可愛いぞ。
可愛い子が多いなぁ。
隣にきた女子に気づかず見惚れているとLINEの通知がなる。
『隣にいるよー』
背筋が凍るような感覚を覚えた。右を見やるとおっさんがいる。左を見やると女子大生らしき人がいる。目と目があう。
「……あ、真波さん」
震える声を極限まで隠す。
「見惚れてたね」
耳元に近づいて言われてしまったので、少し焦った。
「もう少し待つかなと思って」
と、ステージのスピーカーから出る楽曲がうるさいので耳元で伝える。
「誰がタイプ?」
アイドルを指差して言うので、赤色の子と素直に言った。
するとステージに立って踊っている赤色の子が指差して手を振ってくれた。振り返すと真波が背中を叩いてきた。
思わぬ痛みにグッと堪える。
「あのポニーテールの子がいいんだね」
真波自身も一つ結びだけれど、それとは違うのだろうか。
「行こうか」
あまりにも冷たい声で先に行ってしまう。赤色の子に手を振って、彼女についていく。
真波は、あらかじめカラオケを予約してくれていたみたいので楽々入ることができた。
先ほどの恐ろしい彼女とは打って変わって、とても愛らしい笑顔を見せてくれる。
ここでも営業スマイルを欠かさないのはいかがなものかと思うけれど、不満は胃の中にしまう。
ドリンクを取りに二人で行く。彼女は、烏龍茶を手にとっていた。
コーヒーとか甘いドリンクを好むのかと思っていたから意外だった。
カルピスソーダを手に取り、スマホでフリータイムの金額を調べる。
金欠学生がどうやってこの場を切り抜けるべきが思考を巡らせる。
「どうかしたの?」
「あ、いや、フリーっていくらなのかなって」
「いいよ、気にしなくて」
「でも」
「いいの」
それは奢ってくれると言うことなのだろうか。
スマホを持つ手の裾を摘んで歩を促す彼女。
釣られるように歩を進める。
彼女の前でスマホをいじるのは良くなかったのかもしれない。
「電気消しとくね」
「……」
普段、カラオケに行くときは電気をつけっぱなしにしておくので眠ってしまわないか不安だ。
「どうかした?」
「いえ、同じだなぁって」
なぜ、嘘をついたのか自分でも不思議だった。合わせる必要があっただろうか。
「本当?よかった」
隣に座る彼女から甘い匂いがした。柔軟剤ではなさそう。香水だろうか。
デンモクをいじる彼女はBGMの音をゼロにして、消した。そして、採点を入れる。
歌が下手だとバレてしまう。
「ねぇ?大丈夫?」
「え?あ……、僕、歌下手なんで」
「気にしなくていいよ」
友達が九十点後半をとる中、僕は九十点前半。きっと彼女も九十点後半を余裕で取るのだろうと思うと落ち着けなかった。
「先にどうぞ」
「よし!」
髪の毛を結び直すと彼女はデンモクを操作して曲を入れた。よく見るとポニーテールにしていた。歌う気力が上がったのかと思うと余計に歌う気力がなくなった。
少し前の年代のアニメソングを歌っていた彼女。
可愛らしく歌い切ったので、やはり声楽か何かを学んでいるのかと予想した。
点数は八十五点。
歌い始めだから、声を慣らすために歌ったのだろう。
アニソンなら、知っている曲が少しはある。
それを入れると彼女は、いいねぇと言わんばかりにペチペチと肩を叩いた。
目が合うと恥ずかしそうに目を逸らしたので、顔に何かついていたのか心配になる。手で触れてみても何かがついているような感覚がなくてさらに不安が押し寄せる。
気を取り直して、歌う。八十三点。
まぁ、うん、ね?
「直人君もアニソン歌うんだね!」
キラキラした目で聞くので、少しだけと返す。
以前見たことがあるその目は坂口のものだと思い出す。
彼女もアニオタなのだろうか。
「少し知ってるくらいで」
「アニメ好き?」
「少し見るくらいで」
「私も!アニメ好きなんだよね!ね、今度面白いアニメあるから私の家で見ようよ」
「……」
……ん?僕と真波が一つ屋根の下でアニメを一緒に見るだって?
なんてイベントだ。最高だ。
「良いですね」
「良いですねって。敬語やめてよ。敬われるような相手じゃないし」
「そうですか?僕は結構尊敬しますよ」
「どこがー」
じーっと見つめてくるので、惚れそうだ。
この子、僕の好きな仕草をわかっているのではないだろうか。そのジト目いいですよ。
「接客してる時、目を合わせてくれるじゃないですか。声がはっきりしてて、バイトするなら見習いたいって」
「照れるなー」
肩をペシペシと叩く彼女。優しいのか全然痛みがない。坂口とは大違いだ。
「一緒にバイトする?教えてあげるよ」
「良いんですか?」
朗報が過ぎる。バイトを探してもなかなか選びきれない僕にとってはちょうどいい。
「良いよ良いよ。今度店長に聞いてみる」
金欠学生、バイトするってよ。
デンモクを操作して入れた彼女の曲はまた少し前の曲だった。
有名なアニソンだし、知らないわけじゃない。
ただ、ここまで可愛らしく歌う女性が他にいるだろうか。
最近のロックサウンドが目立つアニメ曲ばかり聞いていたので新鮮だった。
「お、これまたかっこいい曲を」
「バスケはしたことないですけどね」
「サッカー一筋?」
「……えぇ、まぁ」
今はもうやっていないことを隠してしまった。
「今度、一緒にサッカーしようよ」
「この辺でできる場所なくないですかね」
「大久屋公園があるよ」
「あそこできるんですか?」
「ちょっと、まだ敬語があるよ?」
なぜ質問とは違う質問を返してきたのだろうか。
「……」
歌詞の一番が始まってしまったので、歌い出す。
無視するには十分だった。
彼女は睨んでいた。
暗い部屋で彼女と二人きり。歌うだけだ。変に緊張するのはよろしくない。
それからもいくつか曲を歌う。
段々と彼女は、歌う気がなくなったのか、僕の体に触れて遊んでいる。
指で腿を撫でたり、じーっと見つめていたり。
何がしたいのかわからなかった僕は、どうして良いのかもわからず、特に何もしなかった。
いや、僕がイケメンだから見惚れているのではないだろうか。まぁ、そんなわけないのだが。
まだ時間はあるけれど、お開きにした方がいいと思った。
次、誘われる可能性が低くなるのは良くない気がした。
また次が欲しい。次も会いたい。
学校に居場所がないのなら、ここに居場所が欲しい。
「ねぇ」
彼女の声にハッと顔を向ける。
悩む顔が、暗い部屋の中でバレてしまっていないか不安だった。
「あ、えっと」
何か話題を振ってくれていたのではないかと焦る。
だけれど、彼女はグッと体を寄せて顔を近づけて唇を奪った。
一瞬の出来事で僕は何がなんだかわからなかった。
「いこっか」
僕の使ったコップも手に取り部屋を出る彼女。
もう終わりかと思うと同時に今のはなんだったのか考える。
今のは確かにキスだったよな、と。
ポニーテールの髪が揺れる。
僕をみる彼女は小さく手招きをしていた。エレベーターが来ていたからだ。
会計のために財布を取り出す。
しかし、彼女は電子決済で二人分の会計を済ませてしまう。
「え、あれ」
魔法を使われたのかと思うほど、一瞬だった。
「今日、来てくれたから」
それはやはり驕りということだろう。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
気にしない様子で首を振る彼女。
「今度、うち来てよ。二人で映画でも見ようよ」
「映画?」
「ちょっと前のやつなんだけど、おすすめでさ」
映画なら名古屋駅に行けばいいじゃないか、映画館ありますよと、言いたかったが彼女の求める言葉ではない気がして言わなかった。
「来週どう?今週はもうバイトで埋まってて」
「忙しいんですね」
「高校生ほど忙しくないよ。学校、二限目からだったりするし」
「早起きしなくていいってことですか!?」
なんだその嬉しい話は。
「そういうこと。高校生は、大変だよねぇ」
「大変ですね。地獄」
「そんなに?」
今、いじめられてますなんて彼女には言えなかった。
近くの地下鉄に到着すると彼女と解散した。
甘い香水に甘いキス。
初キスを奪われた感覚は、あまり不快じゃなかったけど、嬉しいとも思わなかった。可愛い子とカラオケに行けた喜びが大きいのだろうか。
僕はまだ、彼女のことを好きではないのだろうか。こんなにも短期間で人を好きになれるわけがない。
一体、彼女はどんなつもりで僕にキスをしたのだろう。
彼女は僕の何を良いと思ったのだろう。どこを好きになったのだろう。
次の週。彼女の家に向かうため彼女の最寄り駅に着いた。
あれから僕はいじめられるようになり、体にあざができたり、精神的に追い詰められていた。相澤がボスであることには代わりなかった。
今日がなければ、学校にも行かず家で引きこもっていただろう。
両親は共働きで僕をみてくれる相手なんてどこにもいない。
僕は、誰からも必要とされていない。
しかし、彼女だけは僕を見てくれていた。
何度もLINEでやり取りをしてちょっと前にはインスタの交換もした。
学校帰りに見えたサッカー部の練習も今ではどうでも良く思えた。
彼女は、地下鉄の柱にもたれてぼーっと待っていた。
スマホくらい触っていればいいのにと思うけれど、彼女はしなかった。
僕を見つけると嬉しそうに笑みを浮かべて、スタスタと僕へと向かってきた。
可愛らしい歩き方に惚れそうだ。
いや、もしかしたらもう惚れているのかもしれない。
彼女の上目遣い、自然に服の袖に触れる彼女の仕草。
「行こ」
小さく切るようにいう彼女。
笑顔で僕も返事をする。
彼女の前では明るくいたかった。
クラスでいじめられているなんてこと知られたくない。
彼女の家は、最寄りから少し離れたところでオートロック式になっていた。
着くまでは彼女の車に乗せてもらった。
よく女性が乗っている車のメーカーで乗り心地は親の車とあまり変わらなかった。
「車、いいですね」
「いいでしょー。都会にいても車の免許は持っておくといいよ」
「使う気がしないんですけど」
「田舎の観光名所とか基本、車だよ?使う時が来るよ」
「そうなんですね」
「あ、ていうか、また敬語使ってる」
ムッと表情を変える彼女はやはり可愛らしかった。
「じゃあ、敬語やめますね」
なんて言えば、また敬語だと腕を叩く。
オートロックを解除した先にはエレベーターがあって、3階を押す。
「女子の家なんて入ったことないでしょ?」
「入ったことないですね。女子友がいないので」
「嘘だ」
「本当にいないので」
「へー、じゃあ、今回が初めてと」
「初めてで、緊張してます」
「本当に?」
あまりにも感情を込めなかったせいで疑われてしまっている。
女性経験がないと思われるよりあると思われた方がいいじゃないか。
「どうせ、一回くらい経験してるでしょ」
「一回くらいは」
嘘をついた。
彼女は、テイッと肩を叩いた。
「嘘でも初めてって言ってくれた方が嬉しいんだけど?」
ジトっと睨むのでどうしたらいいのか悩む。
「初めてです」
「今更遅いよ」
女性の心はわからない。なにを求めているのだろう。
「真波さんは経験あるんですか?」
「えぇー、そういうこと普通きく?」
だめなんだ。貴方様は聞いてきたというのに。
彼女は鍵を開けて先に家に入れてくれる。
女性の部屋は汚いと聞いたことがあったが、思いの外綺麗だった。
サンリオのぬいぐるみが置いてあったりするだけ。
こんな綺麗なことがあるのか。足の踏み場もある。
「上がってー」
靴を脱いで、踵を合わせて端に置く。
どこに座っていいのかわからない。
1Kの家で少し広い。すぐ右にはキッチン。キッチンの延長線に備え付けのクローゼット。奥にはベッドがあって枕元に窓がある。ベッドの対面にはテレビもあってその間に小さい机が置いてある。
「ベッドの前でも座ってよ」
彼女はちょこんと座ると隣に来るように手招きする。
なんとも可愛らしい姿。
恐る恐る隣に座る。
同級生の女子の部屋に入ったことさえない僕が、年上の専門学生の女性の部屋に入っている。
ありえないシチュエーションだ。想像できなかった。
「真波さんって、今日、学校は?」
「今日午前だけで終わりだから」
「早いですね」
「そんなもんだよ」
大学生や専門学生は午前だけとか午後だけとかもっと言えば、一限だけとかあるのだろうか。
「そう考えたら、すごいよね。私、今から高校生と同じ生活してって言われたらできないもん」
「確かに、午前中だけとかだと」
「大学はもっと楽なんだって」
「遊べるっていうのはよく聞きます」
「本当なんだか」
「遊べるとして、真波さんは、遊びます?」
「どんな遊びかだよ。バイトばっかりしてると思うなぁ、私は」
「僕もです。遊んでるなんて想像できない」
「……。ちょっと、シャワー浴びようかな」
ちょっと強引な話題の切り替え方に驚くと同時に、なぜ今シャワーに行こうと思ったのか疑問に思う。
「え?」
「ベタついてて、気持ち悪くて」
「あー……」
なんて反応したらいいのだろうか。
「一緒に入る?」
「馬鹿なこと言わないでくださいよ」
と、変な冗談を軽くあしらう。
「気になってるくせにー」
何を企んでいるのか、僕の頬をツンツン指で触れる。
「じゃ、ちょっと待っててね」
クローゼットから何やら取り出している。見てはまずいと思って視線を窓に向けた。
「すぐ出るから」
風呂場に向かう彼女が何か箱を落としたが、彼女は気づいていない様子。
「真波さん」
声をかけたけれど、キッチンの向かいにある風呂場に行くわけにもいかない。
机に置いておこうと腰を上げる。
手に取る刹那、僕は変な声をあげてしまった。
コンビニでも売っているアレが、そこにある。
いやいや、女子が使うものじゃない。男子が使うもので、なぜそれを彼女が?
彼女はモテるから、男子が家に来た時用に持っていただけ。
思考を必死に巡らせる。思い切って手に取る。
「いや、これ、新品じゃん……まだ開けてもない……」
もしかして、僕がこの家に来る前に彼女はコンビニで買ったのか?
シャワーの音が聞こえ始める。
これ帰った方がいいんじゃないだろうか。
彼女が無意識に落としてしまって、本命がいたならこれを使う相手は僕じゃないだろう。
紳士な対応で有名なこの直人。速やかに帰る事にしよう。
そもそも気になっている誰かがいるなら、ここに僕を呼ばないのでは?
少し前に里中部長が言っていた言葉を思い出す。
部長は、真波の願いに応えることを優先した。僕の意見は聞いていない。
彼女は元から僕に気があった。
じゃあ、今、目の前にあるアレもわざと床に置いてった?
悩みあぐねていると、シャワーから出てきた彼女の足元が見えて元の場所に戻る。
アレは見なかったことにしたらいい。
彼女もきっと気にしないだろう。
ダボっとした緩いオーバーサイズの服で出てきた彼女。脚が見えてしまっているその姿に普段の彼女を想像してしまう。
いつもその格好で夕飯をとったり、テレビを見たりするのだろう。
というか、その格好ズボン履いているのか?
「どこ見てるの?」
ちょっと恥ずかしそうにいう彼女。どこも見てないと言い聞かせ理性を保つ。
「……あ、これか」
アレを取る彼女は気にしてないのか、向かいから机に置いた。
一番置いてほしくなかった場所に置かれてしまい、変な汗が出る。
経験がないし、リードできない。
いや、そもそもしたくない。
好きだと思えていない相手とそういうことするものじゃないだろう。
そういうのは、好きな人としたい。
「ごめんね、買ってきちゃった」
「……」
雷に打たれるほどの衝撃が走る。予想を超えてくる言葉に僕は逃げる覚悟を決めた。
腰をあげ、足に力を入れる。
しかし、彼女はその小さな体で僕に抱きつくとベッドに押し倒した。
仰向けの僕にまたがる彼女。
髪の毛を耳にかきあげる。甘い匂いがする。
ジタバタ足を動かすのもダサい気がして、逃げ方がわからなくなった。
押し返して逃げる。そうだ、それがいい。
上体を起こすと、まぁまぁまぁと宥めるように肩を優しく叩きスーッと足を床に向ける。
だけれど、彼女はぎゅっと抱きしめてきた。肩に顔を埋めるように。
「嫌がらないでよ……」
か弱く、脆い、幼ささえ感じる声。小さくなる彼女に僕は何も言えなくなっていた。
「直人君だって、私のことそういう目で見てたでしょ?」
言い返せなかった。スタバの店員として彼女を見てた時、少なくとも何度か牧田と連絡先を交換できないかという話になっていたから。それは、一切の好意がないならありえない会話だ。
「私、直人君が欲しいよ」
体に力が入らなくなっていた。逃げることも忘れていた。
彼女の顔が肩から離れて、僕を求めるように見つめている。
両頬に手のひらが触れる。
目だけが反応して、彼女に目を向ける頃には唇を奪われて。
求められるがままに、吸い寄せられる唇が、彼女に全部委ねてしまって。
気がつけば、僕らは映画なんて見ることもなく夜を迎えていた。
教室の雰囲気がいつもと違って見えた。
僕を見て何かを言い合う女子の姿。
刹那、左腰を誰かに蹴られてゴミ箱にぶつかった。
ゴミ箱にあったものが倒れて、床に散らばる。
「おはよぉ。サボり部さん」
髪を掴まれる。
そいつは、坂口をいじめている男子、三木谷だった。
「三木谷、相澤……、急になんだよ」
隣にいる相澤はバスケ部のエースで、今まで一度も出場できなかった東海大会に連れて行った期待の部員。
新人戦で見せたチームプレイは、他校にも衝撃を与えたらしい。
「いやぁ、お前が、坂口と仲がいいと聞いてね」
「……」
「見たやつがいるんだってさ。お前、部活サボってんのに、呑気に女子とスタバ?」
三木谷が僕の腹を蹴る。面倒ごとが増えた。
この事態を考えるといじめの的になっていることは確定だった。
「あー、お前と違って女子人気あるから。今はないか」
女子人気のない相澤。
煽りに耐えられなかったのか、代わりに三木谷が腹に蹴りを入れてくる。
受け身をとっていなかったせいで、当たりどころが悪く吐きそうだ。
「てめぇ、あんま調子乗んなよ?」
「はいはい。肝に銘じるので、手、退ける?」
「おい、お前、相澤に向かって調子乗りすぎなんだけど」
それでも三木谷は相澤がボスだと、二番手である三木谷は別だといいたげだ。
三木谷はバスケ部で目立つ成績はないと聞く。
構う理由もない。相澤に目を向ける。
「退ける?」
「お前、後で覚えとけよ」
三木谷は、時計を見て読書の時間に気づいたのか、手をどけた。
相澤が三木谷の隣にいた理由はわからないが、なんだかあまり僕に興味がないように見えた。というより、ゴミを見る目で見られたような気がすると言ったほうがいいのだろうか。
教師にバレると面倒だと言うことは理解しているみたいだ。
面倒な学校生活が始まったと舌打ちした。
誰が告げ口したのか、教室を見る限り思い当たる人がいない。
牧田に頼んで探ってもらおうか。彼にお願いすると快く引き受けてくれた。
昼休み、坂口が何かを伝えようときてくれた。
だけど、相澤たちに捕まり聞くことはできなかった。
廊下の端にある教材室に入れられる。
モワッとした汚い空気がそこにはあった。
タバコの匂いもする。
火器探知機がないこの部屋でこの二人はタバコを吸っているのだろうか。
「とりあえず、説明してくれないかな」
腹を蹴り、床に倒れた僕は、少しずつ後ろに下がる。
背が壁にぶつかると逃げ場がないのだと現実を突きつけられる。
小窓を開ける時間があっても、相澤か三木谷のどちらかが妨害する。暴力は当然あるだろう。
「別にいじめたいわけじゃないんだ。お前は、サッカー部の中でもレギュラーメンバーなんだし。俺、お前のこと結構好きだから知っておきたいだけ」
正面にしゃがみ込んだ相澤は睨みを効かせた。
「で、坂口とはどう言う関係?」
それをいえば、考えをあらためてくれるだろうか。
「どうって、別に」
「隠す必要はないだろ?」
そもそも誰がそんな告げ口したのか。教えてくれそうにない。
素直に全部を伝えたとして、彼はいじめの的から除外してくれるだろうか。そんなわけないことくらい理解しているはずなのに。
もしも、仮にいじめの的から外れたとしても次の標的はまた戻るだけ。坂口に当たるだろう。
「隠したい理由があるんだって言ったらどうすんの」
刹那、腹に蹴りが当たる。三木谷は容赦がなかった。
受け身を取らなかったために、痛みが増している。今にも吐きそうだ。
「坂口を守る理由ある?」
痛みに悶絶していると、三木谷は汚い笑みを浮かべた。
歯が黄ばんでいるのが見える。まさか、タバコを吸っているのか?
「正直ないね」
「なら」
「言うほどの関係か?僕らは」
相澤はため息をつくとつまらなそうに立ち上がる。
「また今後聞くよ」
教材室から出ていく彼に続く三木谷。
もしかすると、坂口もここでいじめに遭っていたのかもしれない。
彼女がまたこの場に誘われて、いじめに遭うようなことがあれば証拠として残すことができるかもしれない。
外から足音が聞こえる。
ドアノブが捻られる。
誰かがくる。教師だったら、言い訳のしようがない。
どうやって逃げるべきだろうか。
思考を巡らせる間も無くドアが開いた。
そこには髪の長い女子の姿。
「坂口……」
「やっぱりここにいた。牧田くんが教えてくれたの。あの二人に連れてかれたって」
「……」
「ごめん、いじめられるのは私の役目なのに」
「役目って……。いじめはいいものじゃないだろ。勝手に役を得るなよ」
「悪い役に当てられただけだと思ってるから。今度なんか聞かれたら私が的になるように答えて」
正面でしゃがむ彼女の腕を掴んだ。
「君は悪い人じゃない。悪役は似合わないだろ」
教材室にいるのは、いじめられている二人。
本音が言えない似た者同士。
だけど、坂口は悪い人じゃない。
空いていたドアが閉まる。勝手に閉まる仕様になっているらしい。経年劣化のせいだろうか。
「……あ?ハハッ。坂口、そのメガネ」
床に膝をついて、近づく。
メガネを両手でとり、レンズを確認する。
「やっぱり……。これ伊達メガネだろ」
「どうして」
少し気分が落ち着いた。蹴られるのはやっぱり痛いし苦しい。
「なんとなくかな。昨日チラッと見た時と雰囲気が全然変わらないから。度が入っていれば、少しは変わる気がして」
「……」
やっぱりメガネがない方が、綺麗だ。
肌も綺麗だし、普段から気を遣っているのだろう。
「なんで、メガネなんか?」
「なんとなくって言ったらどうするの?」
「……」
どうやら触れてほしくないらしい。どうせアニメのキャラクターがなんとかかんとかいうんだろ。
「僕は、メガネがない方が綺麗で素敵だと思うけど」
「さすが、モテた男は違うね」
「今や、好感度も底に落ちきったね」
バシッと叩かれる。
「なんで乗っかっちゃうかなぁ」
嬉しそうに口角を上げるものだから、つい笑ってしまう。
ちゃんと受け答えもするし、意外と彼女も一般的な会話ができるんじゃないだろうか。
なんて思ったりもした。
「ここ暑いな。そろそろ教室に戻ろう」
タバコ臭くて暑いこの場所から離れたかった。
教室に戻るとやはりクラスの雰囲気は最悪だった。
僕ら二人を見るなり、小声でボソボソと話す女子たち。男子たちもくすくすと冷やかそうか迷っている様子。
孤立したんだなと改めて感じる。
ただいじめられている女子と話したくらいで。
どちらが正しいのだろう。
いじめられている女子と話して仲良くなること。
見て見ぬ振りをしていじめを黙認すること。
二択ならば、きっとクラスメイトは後者を選ぶのだ。
自己防衛もできて、面倒がないから。
人の内面なんて興味もないのだから、その発想に至る。
所詮その程度の考えだ。
今更クラスメイトと馴れ合うつもりはないし、どうでもいいけれど。
五限の休み時間。
「洋馬、坂口と教材室で何をしていたのかなぁ!?」
肩を掴まれ教卓へと投げ飛ばされる。
投げ飛ばした三木谷を睨む。彼は楽しそうに笑うだけ。
誰かがまた相澤に告げ口したのだろう。
「何なに?なんかしたの洋馬?」
三木谷の隣にきたのは、よく一緒にいる三森鈴香だった。
「教材室に連れてったのはお前だろ、三木谷」
「悪いことでもした?三木谷に目をつけられて残念だったね」
三森に何かした覚えがない。どうしてこんな因縁を認めてしまうのか。
だが、彼らの目を見てよくわかる。
いじめる相手が欲しいのだと。その相手ができるなら、誰でもいいのだ。
「ねぇ、相澤か三木谷に何かしちゃったんでしょ?」
三森が、僕の前にしゃがみ頬に手を触れた。
「だってそうじゃないと、蹴られたりしないよぉ?」
ボブカットの彼女は、綺麗な笑みを浮かべる。ゾッとする恐ろしさに鳥肌がたった。
「三森、いいから離れてやれよ」
「でも、こいつあれじゃん。レギュラーだったくせに部活サボってんでしょ?怠慢じゃん」
「サッカー部のやつどう思ってんの?お前らもムカついてんなら、同志だろ」
教室内にいるサッカー部に声をかける三木谷。
生憎、彼らは僕を嫌っている。部活をサボっていることに怒りを感じていない。怒りを覚えているとするなら、僕がレギュラーの座を奪ったことだ。
けれど、彼らは無言だった。何か言いたげなくせして何も言わないのか。
「いや、無視かよ」
「相場とかどうなんだ?」
サッカー部のレギュラーの一人。無言のまま、何も返すことはしなかった。
改めて嫌われていることを実感する。
「……もういいだろ。また、後で聞いてやるから」
相澤が、席に戻った。三木谷はそれに促される。
なんだか釈然としなかった。
どうして、相澤は僕に猶予を与えるのだろう。彼は、なぜすぐにいじめようと思わないのか。見ているだけ、聞いているだけなのは果たして理由があるのだろうか。
ある程度恐怖心を与えたらもうロボットのように言うこと全部聞くと言うのに。僕がそうなってしまうことくらいよくわかっている。
僕は、強くない。弱いから、強くなりたい。正しいことをするためには強くいる必要がある。
次、同じことがあるなら僕は強くありたい。正しいことを正しいのだと意志を貫く勇気。
今の僕にはそんなものあるだろうか。
逃げる時は逃げる。立ち向かうときは立ち向かう。それができるだろうか。
その線引きもできているはずだ。一線を超えない努力をするだけ。感情的にならないこと。それだけを意識するのだ。
放課後、すぐに僕は教室を出た。
誰とも関わらないためだ。
いじめの的に降格するなんて御免だ。
逃げられる時は、逃げる。
そうだ、これでいいのだ。
早歩きで逃げるように電車に向かう道中、スマホに着信があった。
こんな時に誰だよと、舌打ちをする。
真波だった。
「はい」
「あ、繋がった。全然、連絡返してくれないから、電話しちゃった」
可愛い声だなと思う。
彼女は一体専門学校で何を学んでいるのだろう。声楽だろうか。カワボっていい。
「学校あったし、スマホ見れないから」
「そうだよね。ねぇ、この後これる?カラオケでも行かない?」
「突然ですね」
相手が年上だったことを思い出して、敬語を使う。
「いいじゃん、行こうよ」
「栄駅でいいですか?」
「お、きてくれるんだね!栄駅で待ってるよ」
ここから二駅の場所に彼女はいる。
案外近いし、フットワークが軽い僕なんかすぐに行けてしまう。
しかし、金銭的にきつい。
スタバに行ってしまったせいであまりお金がない。
やはりバイトとかした方がいいのではないだろうか。
「すぐこれそう?」
「行けますけど」
「じゃあ、待ってるね!」
言いたいことは言えず、電話が切られてしまった。
金欠高校生がカラオケに行くのはまずいのでは?
待ってると知らないキャラクターのスタンプが送られてくる。
バリエーションが豊富だなぁと思いつつも、今置かれている現状について行けていない。
部活内で迫害され、部活に行かず、ついにクラスメイトにいじめられる。
坂口と関わるようになり、スタバの女性店員さんこと真波と連絡先を交換してカラオケに行く。
ここ数日で色々起こりすぎているような気がする。
二駅先にある栄駅。
待ち合わせであるサンシャイン栄の地下一階から地上に上がる。
夕方になると地下アイドルが歌って踊っているらしい。
よく見るけれど、毎回違うアイドル。ここもバリエーションが豊富だなぁ見惚れる。
あぁ、あの赤色担当の子可愛いぞ。
可愛い子が多いなぁ。
隣にきた女子に気づかず見惚れているとLINEの通知がなる。
『隣にいるよー』
背筋が凍るような感覚を覚えた。右を見やるとおっさんがいる。左を見やると女子大生らしき人がいる。目と目があう。
「……あ、真波さん」
震える声を極限まで隠す。
「見惚れてたね」
耳元に近づいて言われてしまったので、少し焦った。
「もう少し待つかなと思って」
と、ステージのスピーカーから出る楽曲がうるさいので耳元で伝える。
「誰がタイプ?」
アイドルを指差して言うので、赤色の子と素直に言った。
するとステージに立って踊っている赤色の子が指差して手を振ってくれた。振り返すと真波が背中を叩いてきた。
思わぬ痛みにグッと堪える。
「あのポニーテールの子がいいんだね」
真波自身も一つ結びだけれど、それとは違うのだろうか。
「行こうか」
あまりにも冷たい声で先に行ってしまう。赤色の子に手を振って、彼女についていく。
真波は、あらかじめカラオケを予約してくれていたみたいので楽々入ることができた。
先ほどの恐ろしい彼女とは打って変わって、とても愛らしい笑顔を見せてくれる。
ここでも営業スマイルを欠かさないのはいかがなものかと思うけれど、不満は胃の中にしまう。
ドリンクを取りに二人で行く。彼女は、烏龍茶を手にとっていた。
コーヒーとか甘いドリンクを好むのかと思っていたから意外だった。
カルピスソーダを手に取り、スマホでフリータイムの金額を調べる。
金欠学生がどうやってこの場を切り抜けるべきが思考を巡らせる。
「どうかしたの?」
「あ、いや、フリーっていくらなのかなって」
「いいよ、気にしなくて」
「でも」
「いいの」
それは奢ってくれると言うことなのだろうか。
スマホを持つ手の裾を摘んで歩を促す彼女。
釣られるように歩を進める。
彼女の前でスマホをいじるのは良くなかったのかもしれない。
「電気消しとくね」
「……」
普段、カラオケに行くときは電気をつけっぱなしにしておくので眠ってしまわないか不安だ。
「どうかした?」
「いえ、同じだなぁって」
なぜ、嘘をついたのか自分でも不思議だった。合わせる必要があっただろうか。
「本当?よかった」
隣に座る彼女から甘い匂いがした。柔軟剤ではなさそう。香水だろうか。
デンモクをいじる彼女はBGMの音をゼロにして、消した。そして、採点を入れる。
歌が下手だとバレてしまう。
「ねぇ?大丈夫?」
「え?あ……、僕、歌下手なんで」
「気にしなくていいよ」
友達が九十点後半をとる中、僕は九十点前半。きっと彼女も九十点後半を余裕で取るのだろうと思うと落ち着けなかった。
「先にどうぞ」
「よし!」
髪の毛を結び直すと彼女はデンモクを操作して曲を入れた。よく見るとポニーテールにしていた。歌う気力が上がったのかと思うと余計に歌う気力がなくなった。
少し前の年代のアニメソングを歌っていた彼女。
可愛らしく歌い切ったので、やはり声楽か何かを学んでいるのかと予想した。
点数は八十五点。
歌い始めだから、声を慣らすために歌ったのだろう。
アニソンなら、知っている曲が少しはある。
それを入れると彼女は、いいねぇと言わんばかりにペチペチと肩を叩いた。
目が合うと恥ずかしそうに目を逸らしたので、顔に何かついていたのか心配になる。手で触れてみても何かがついているような感覚がなくてさらに不安が押し寄せる。
気を取り直して、歌う。八十三点。
まぁ、うん、ね?
「直人君もアニソン歌うんだね!」
キラキラした目で聞くので、少しだけと返す。
以前見たことがあるその目は坂口のものだと思い出す。
彼女もアニオタなのだろうか。
「少し知ってるくらいで」
「アニメ好き?」
「少し見るくらいで」
「私も!アニメ好きなんだよね!ね、今度面白いアニメあるから私の家で見ようよ」
「……」
……ん?僕と真波が一つ屋根の下でアニメを一緒に見るだって?
なんてイベントだ。最高だ。
「良いですね」
「良いですねって。敬語やめてよ。敬われるような相手じゃないし」
「そうですか?僕は結構尊敬しますよ」
「どこがー」
じーっと見つめてくるので、惚れそうだ。
この子、僕の好きな仕草をわかっているのではないだろうか。そのジト目いいですよ。
「接客してる時、目を合わせてくれるじゃないですか。声がはっきりしてて、バイトするなら見習いたいって」
「照れるなー」
肩をペシペシと叩く彼女。優しいのか全然痛みがない。坂口とは大違いだ。
「一緒にバイトする?教えてあげるよ」
「良いんですか?」
朗報が過ぎる。バイトを探してもなかなか選びきれない僕にとってはちょうどいい。
「良いよ良いよ。今度店長に聞いてみる」
金欠学生、バイトするってよ。
デンモクを操作して入れた彼女の曲はまた少し前の曲だった。
有名なアニソンだし、知らないわけじゃない。
ただ、ここまで可愛らしく歌う女性が他にいるだろうか。
最近のロックサウンドが目立つアニメ曲ばかり聞いていたので新鮮だった。
「お、これまたかっこいい曲を」
「バスケはしたことないですけどね」
「サッカー一筋?」
「……えぇ、まぁ」
今はもうやっていないことを隠してしまった。
「今度、一緒にサッカーしようよ」
「この辺でできる場所なくないですかね」
「大久屋公園があるよ」
「あそこできるんですか?」
「ちょっと、まだ敬語があるよ?」
なぜ質問とは違う質問を返してきたのだろうか。
「……」
歌詞の一番が始まってしまったので、歌い出す。
無視するには十分だった。
彼女は睨んでいた。
暗い部屋で彼女と二人きり。歌うだけだ。変に緊張するのはよろしくない。
それからもいくつか曲を歌う。
段々と彼女は、歌う気がなくなったのか、僕の体に触れて遊んでいる。
指で腿を撫でたり、じーっと見つめていたり。
何がしたいのかわからなかった僕は、どうして良いのかもわからず、特に何もしなかった。
いや、僕がイケメンだから見惚れているのではないだろうか。まぁ、そんなわけないのだが。
まだ時間はあるけれど、お開きにした方がいいと思った。
次、誘われる可能性が低くなるのは良くない気がした。
また次が欲しい。次も会いたい。
学校に居場所がないのなら、ここに居場所が欲しい。
「ねぇ」
彼女の声にハッと顔を向ける。
悩む顔が、暗い部屋の中でバレてしまっていないか不安だった。
「あ、えっと」
何か話題を振ってくれていたのではないかと焦る。
だけれど、彼女はグッと体を寄せて顔を近づけて唇を奪った。
一瞬の出来事で僕は何がなんだかわからなかった。
「いこっか」
僕の使ったコップも手に取り部屋を出る彼女。
もう終わりかと思うと同時に今のはなんだったのか考える。
今のは確かにキスだったよな、と。
ポニーテールの髪が揺れる。
僕をみる彼女は小さく手招きをしていた。エレベーターが来ていたからだ。
会計のために財布を取り出す。
しかし、彼女は電子決済で二人分の会計を済ませてしまう。
「え、あれ」
魔法を使われたのかと思うほど、一瞬だった。
「今日、来てくれたから」
それはやはり驕りということだろう。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
気にしない様子で首を振る彼女。
「今度、うち来てよ。二人で映画でも見ようよ」
「映画?」
「ちょっと前のやつなんだけど、おすすめでさ」
映画なら名古屋駅に行けばいいじゃないか、映画館ありますよと、言いたかったが彼女の求める言葉ではない気がして言わなかった。
「来週どう?今週はもうバイトで埋まってて」
「忙しいんですね」
「高校生ほど忙しくないよ。学校、二限目からだったりするし」
「早起きしなくていいってことですか!?」
なんだその嬉しい話は。
「そういうこと。高校生は、大変だよねぇ」
「大変ですね。地獄」
「そんなに?」
今、いじめられてますなんて彼女には言えなかった。
近くの地下鉄に到着すると彼女と解散した。
甘い香水に甘いキス。
初キスを奪われた感覚は、あまり不快じゃなかったけど、嬉しいとも思わなかった。可愛い子とカラオケに行けた喜びが大きいのだろうか。
僕はまだ、彼女のことを好きではないのだろうか。こんなにも短期間で人を好きになれるわけがない。
一体、彼女はどんなつもりで僕にキスをしたのだろう。
彼女は僕の何を良いと思ったのだろう。どこを好きになったのだろう。
次の週。彼女の家に向かうため彼女の最寄り駅に着いた。
あれから僕はいじめられるようになり、体にあざができたり、精神的に追い詰められていた。相澤がボスであることには代わりなかった。
今日がなければ、学校にも行かず家で引きこもっていただろう。
両親は共働きで僕をみてくれる相手なんてどこにもいない。
僕は、誰からも必要とされていない。
しかし、彼女だけは僕を見てくれていた。
何度もLINEでやり取りをしてちょっと前にはインスタの交換もした。
学校帰りに見えたサッカー部の練習も今ではどうでも良く思えた。
彼女は、地下鉄の柱にもたれてぼーっと待っていた。
スマホくらい触っていればいいのにと思うけれど、彼女はしなかった。
僕を見つけると嬉しそうに笑みを浮かべて、スタスタと僕へと向かってきた。
可愛らしい歩き方に惚れそうだ。
いや、もしかしたらもう惚れているのかもしれない。
彼女の上目遣い、自然に服の袖に触れる彼女の仕草。
「行こ」
小さく切るようにいう彼女。
笑顔で僕も返事をする。
彼女の前では明るくいたかった。
クラスでいじめられているなんてこと知られたくない。
彼女の家は、最寄りから少し離れたところでオートロック式になっていた。
着くまでは彼女の車に乗せてもらった。
よく女性が乗っている車のメーカーで乗り心地は親の車とあまり変わらなかった。
「車、いいですね」
「いいでしょー。都会にいても車の免許は持っておくといいよ」
「使う気がしないんですけど」
「田舎の観光名所とか基本、車だよ?使う時が来るよ」
「そうなんですね」
「あ、ていうか、また敬語使ってる」
ムッと表情を変える彼女はやはり可愛らしかった。
「じゃあ、敬語やめますね」
なんて言えば、また敬語だと腕を叩く。
オートロックを解除した先にはエレベーターがあって、3階を押す。
「女子の家なんて入ったことないでしょ?」
「入ったことないですね。女子友がいないので」
「嘘だ」
「本当にいないので」
「へー、じゃあ、今回が初めてと」
「初めてで、緊張してます」
「本当に?」
あまりにも感情を込めなかったせいで疑われてしまっている。
女性経験がないと思われるよりあると思われた方がいいじゃないか。
「どうせ、一回くらい経験してるでしょ」
「一回くらいは」
嘘をついた。
彼女は、テイッと肩を叩いた。
「嘘でも初めてって言ってくれた方が嬉しいんだけど?」
ジトっと睨むのでどうしたらいいのか悩む。
「初めてです」
「今更遅いよ」
女性の心はわからない。なにを求めているのだろう。
「真波さんは経験あるんですか?」
「えぇー、そういうこと普通きく?」
だめなんだ。貴方様は聞いてきたというのに。
彼女は鍵を開けて先に家に入れてくれる。
女性の部屋は汚いと聞いたことがあったが、思いの外綺麗だった。
サンリオのぬいぐるみが置いてあったりするだけ。
こんな綺麗なことがあるのか。足の踏み場もある。
「上がってー」
靴を脱いで、踵を合わせて端に置く。
どこに座っていいのかわからない。
1Kの家で少し広い。すぐ右にはキッチン。キッチンの延長線に備え付けのクローゼット。奥にはベッドがあって枕元に窓がある。ベッドの対面にはテレビもあってその間に小さい机が置いてある。
「ベッドの前でも座ってよ」
彼女はちょこんと座ると隣に来るように手招きする。
なんとも可愛らしい姿。
恐る恐る隣に座る。
同級生の女子の部屋に入ったことさえない僕が、年上の専門学生の女性の部屋に入っている。
ありえないシチュエーションだ。想像できなかった。
「真波さんって、今日、学校は?」
「今日午前だけで終わりだから」
「早いですね」
「そんなもんだよ」
大学生や専門学生は午前だけとか午後だけとかもっと言えば、一限だけとかあるのだろうか。
「そう考えたら、すごいよね。私、今から高校生と同じ生活してって言われたらできないもん」
「確かに、午前中だけとかだと」
「大学はもっと楽なんだって」
「遊べるっていうのはよく聞きます」
「本当なんだか」
「遊べるとして、真波さんは、遊びます?」
「どんな遊びかだよ。バイトばっかりしてると思うなぁ、私は」
「僕もです。遊んでるなんて想像できない」
「……。ちょっと、シャワー浴びようかな」
ちょっと強引な話題の切り替え方に驚くと同時に、なぜ今シャワーに行こうと思ったのか疑問に思う。
「え?」
「ベタついてて、気持ち悪くて」
「あー……」
なんて反応したらいいのだろうか。
「一緒に入る?」
「馬鹿なこと言わないでくださいよ」
と、変な冗談を軽くあしらう。
「気になってるくせにー」
何を企んでいるのか、僕の頬をツンツン指で触れる。
「じゃ、ちょっと待っててね」
クローゼットから何やら取り出している。見てはまずいと思って視線を窓に向けた。
「すぐ出るから」
風呂場に向かう彼女が何か箱を落としたが、彼女は気づいていない様子。
「真波さん」
声をかけたけれど、キッチンの向かいにある風呂場に行くわけにもいかない。
机に置いておこうと腰を上げる。
手に取る刹那、僕は変な声をあげてしまった。
コンビニでも売っているアレが、そこにある。
いやいや、女子が使うものじゃない。男子が使うもので、なぜそれを彼女が?
彼女はモテるから、男子が家に来た時用に持っていただけ。
思考を必死に巡らせる。思い切って手に取る。
「いや、これ、新品じゃん……まだ開けてもない……」
もしかして、僕がこの家に来る前に彼女はコンビニで買ったのか?
シャワーの音が聞こえ始める。
これ帰った方がいいんじゃないだろうか。
彼女が無意識に落としてしまって、本命がいたならこれを使う相手は僕じゃないだろう。
紳士な対応で有名なこの直人。速やかに帰る事にしよう。
そもそも気になっている誰かがいるなら、ここに僕を呼ばないのでは?
少し前に里中部長が言っていた言葉を思い出す。
部長は、真波の願いに応えることを優先した。僕の意見は聞いていない。
彼女は元から僕に気があった。
じゃあ、今、目の前にあるアレもわざと床に置いてった?
悩みあぐねていると、シャワーから出てきた彼女の足元が見えて元の場所に戻る。
アレは見なかったことにしたらいい。
彼女もきっと気にしないだろう。
ダボっとした緩いオーバーサイズの服で出てきた彼女。脚が見えてしまっているその姿に普段の彼女を想像してしまう。
いつもその格好で夕飯をとったり、テレビを見たりするのだろう。
というか、その格好ズボン履いているのか?
「どこ見てるの?」
ちょっと恥ずかしそうにいう彼女。どこも見てないと言い聞かせ理性を保つ。
「……あ、これか」
アレを取る彼女は気にしてないのか、向かいから机に置いた。
一番置いてほしくなかった場所に置かれてしまい、変な汗が出る。
経験がないし、リードできない。
いや、そもそもしたくない。
好きだと思えていない相手とそういうことするものじゃないだろう。
そういうのは、好きな人としたい。
「ごめんね、買ってきちゃった」
「……」
雷に打たれるほどの衝撃が走る。予想を超えてくる言葉に僕は逃げる覚悟を決めた。
腰をあげ、足に力を入れる。
しかし、彼女はその小さな体で僕に抱きつくとベッドに押し倒した。
仰向けの僕にまたがる彼女。
髪の毛を耳にかきあげる。甘い匂いがする。
ジタバタ足を動かすのもダサい気がして、逃げ方がわからなくなった。
押し返して逃げる。そうだ、それがいい。
上体を起こすと、まぁまぁまぁと宥めるように肩を優しく叩きスーッと足を床に向ける。
だけれど、彼女はぎゅっと抱きしめてきた。肩に顔を埋めるように。
「嫌がらないでよ……」
か弱く、脆い、幼ささえ感じる声。小さくなる彼女に僕は何も言えなくなっていた。
「直人君だって、私のことそういう目で見てたでしょ?」
言い返せなかった。スタバの店員として彼女を見てた時、少なくとも何度か牧田と連絡先を交換できないかという話になっていたから。それは、一切の好意がないならありえない会話だ。
「私、直人君が欲しいよ」
体に力が入らなくなっていた。逃げることも忘れていた。
彼女の顔が肩から離れて、僕を求めるように見つめている。
両頬に手のひらが触れる。
目だけが反応して、彼女に目を向ける頃には唇を奪われて。
求められるがままに、吸い寄せられる唇が、彼女に全部委ねてしまって。
気がつけば、僕らは映画なんて見ることもなく夜を迎えていた。