「美味しいパンが食べたい」
「今、食べているだろ」
「これじゃなくて」

 朝食の時間である。
 朝はいつもパンが出てくる。料理人お手製の焼き立てパンである。もぐもぐしながら呟けば、兄上は変な顔をする。

 パンをちぎってパクパク食べる。これも美味しいんだけど、俺が食べたいのはこれではない。

 思い出すのは先日のこと。こっそり屋敷を抜け出して、街の探検をした時である。迷子になった俺を助けてくれた優しいお姉さん。クレアが出してくれたパンは美味しかった。ものすごく。一緒に出してくれたジャムも美味しかった。

 希望としては、あれをもう一度食べたい。だが、俺は街に行く予定はない。この間の件で、オリビアや兄上は俺のことを警戒している。多分だけど、当分の間は街には連れて行ってはもらえないだろう。元々兄上は、俺がお出かけすることをあまり好まない。「おまえはすぐに余計なことをするからな」というのが兄上の言い分である。よくわからないが、悲しすぎる。

「美味しいパンが食べたい」

 はぁっとため息をつけば、兄上が器用に片眉を持ち上げる。その視線は、俺の手元。正確には俺が握っている焼き立てパンに注がれている。

「それではダメなのか」
「美味しいパンが食べたい」
「いやだから」

 美味しいパンが食べたいとひたすら繰り返す俺に、兄上が困った顔をする。だが、クレアに助けてもらったことはみんなには内緒なのだ。オリビアにバレたら「知らない人の家に入るなんて!」とか「知らない人にもらったものを口に入れない!」とか。色々と口うるさくお説教してくるだろうから。こういう時、貴族って面倒だなぁと思う。いい生活をさせてもらっているが、その分面倒なことも多い。

 前世日本人の俺からすれば、身の安全を真剣に確保しなければならない貴族っていうのは少々窮屈である。だがこの世界で七年も生きていると、護衛の存在くらいは当たり前に受け入れてしまう。幸いにも、そんなに危ない世界ではないらしく、今まで命の危険を感じたことはあまりない。強いてあげるならば、昨日木から降りられなくなった件くらいだろう。それくらい、この屋敷は平和である。

「兄上。美味しいパンがあるんだけど」

 クレアのことを黙っておけば大丈夫かもしれない。クレアのやっているパン屋で買って食べたということにしておこう。勝手に家にあがったと知られたら、多分だけど兄上も怒ると思う。

「この間さぁ、俺が街に行ったでしょ」
「おまえが脱走した時の話か?」

 脱走って。言い方。ちょっと街まで遊びに行っただけだ。

「あの時にね、街でパン食べた。美味しかった。ものすごく」

 また食べたい、と口にすれば、兄上は遠い目をする。

「おまえ、そんなことをしていたのか? 金はどうした」
「持ってるもん。ちゃんと買い物した。すごくない!? 俺ひとりで買い物できたんだけど」
「あぁ、よかったな」

 全然よかったと思っていない顔で、兄上は適当に頷いてくる。そのあしらうような態度が気に入らない。

「可愛い弟が成長したんだぞ! もっと褒めろ!」
「自分で可愛いとか言うんじゃない」
「俺は可愛いもん! ものすごく!」
「どこから出てくるんだ、その自信は」

 なにやら盛大に頰を引き攣らせる兄上は、すごく失礼だと思う。俺が可愛いというのは、お母様からの受け売りだ。お母様は、俺に会うたびに可愛い可愛いと連呼してくる。今の俺は異世界っぽい金髪碧眼の少年である。普通に可愛いと思う。お母様が俺を褒めるたびに、俺は堂々と胸を張って頷いておく。そうすると、お母様はますます喜ぶ。よくわからないが、可愛いと褒められて得意になる俺が可愛いらしい。可愛いの大渋滞だ。

 それなのに、兄上は俺のことを真剣に褒めてくれない。こんなのってあんまりだ。

「兄上には人の心がないのかぁ!?」
「食事中だぞ。静かにしろ」

 酷い対応をしてくる兄上に、俺はやり返してやろうと拳を握りしめる。

「俺のこといじめたって、お父様に言ってやったから!」
「は? なんのことだ」

 きょとんとする兄上は、記憶力が乏しいらしい。

「俺のこといじめたもん! 昨日!」
「昨日……?」

 本気でわかっていないらしい兄上に、改めて説明してあげる。昨日のことである。木登りして降りられなくなった俺に対して、この兄は飛び降りろと無茶を言ってきた。結局はオリビアが助けてくれた。あの時は、イライラと顔を顰める兄上のことが怖かった。なので俺は、昨夜のうちにお父様に告げ口しておいたのだ。俺の告発を聞いたお父様は「可哀想に。怖かっただろう」と頭を撫でてくれた。お父様も、お母様と同じく俺のことを猫可愛がりしていた。

 それを聞いた兄上は、突然眉を吊り上げる。

「なんでも父上に報告するんじゃない!」
「事実だもん! 俺をいじめる兄上が悪いんだもん」
「おまえは……!」

 なんだか怒りに拳を握りしめる兄上。危機感を覚えた俺は、残りの朝食を慌てて口に詰め込んで席を立つ。そのまま逃げるように、部屋を後にした。