駅構内の雰囲気とは打って変わったカフェの店内。扉を開けてなかに入ると、大広間からの空気をぼくが連れてきたのか、天井に吊り下げられたウインドチャイムが美しい音色を奏でながら揺れている。
 あまり広くない店内の奥にはバーカウンターがあり、その後ろにはびっしりとお酒が並べられていた。店内には古いオーク材のラウンドテーブルが四つ置かれており、ぼくたち以外にはお客さんはいない。
 石畳の上に張られた木目のフローリングの床に、落ち着いた雰囲気のグレーの壁、剥き出しの濃い青の梁。そこから幾つかのスポット照明がテーブルや床を照らしている。カフェというよりもお酒を楽しむバーといった雰囲気だ。店内をいくら見渡してもパパやアイリーンの姿は見えない。店に入ったぼくたちを見ると、テーブルのひとつにすでに座っている赤毛の熊が手招きしてぼくたちを呼んだ。
「ねぇ! あのお金はパパに返さなきゃいけないお金だから使えないんだよ!」
 赤毛の熊の座るテーブルに詰め寄ってぼくが怒った口調で言うけど、赤毛の熊はキョトンとしている。すると突然、どこからか現れた男が、そんなぼくたちに呟くように言った。
「金なんてものは必要ない。ここは腹を空かせた者に食わせ、喉の渇く者に飲ませる、そんな店だ」
 気取った雰囲気で話すその男はどうやらこの店の店員のようで、メニューをぼくたちの前に置くとバーカウンターの方へと歩いていく。
「つまり、無料ってこと?」
 ぼくが目を丸くしながら彼の背中に向かって訊ねると、店員は振り返りもせずに手をヒラヒラとさせるだけだった。
「ラッキーじゃないか、フィリー! 俺たちツイてるよ! なんせタダで飲み食いできるんだから!」
 赤毛の熊がメニューを開いて、そのでかい足を嬉しそうにぶらつかせている。
「さぁ、お金の心配は要らなくなったわ。あなたもとにかく席に座って」
 青色の目の兎が椅子に腰掛けると、赤毛の熊と同じようにメニューを開いて、なにを注文しようかと悩んでいた。
「俺はもう決まったぜ! お前たちは?」
 赤毛の熊がメニューを閉じると、先ほどの気取った店員を呼んだ。「お決まりで?」
 楽譜に音符を描くように変なイントネーションで話す店員に、赤毛の熊は言う。
「全粒粉のハニーパンケーキをふたつにベーコンをつけてくれ、ハニーパンケーキはハチミツたっぷりで頼むよ!」
 メモ帳にサラサラと注文を書く仕草も、どこか気取った雰囲気のする店員。続けて青色の目の兎が温かい紅茶を注文すると、ぼくは赤毛の熊と同じハニーパンケーキとホットココアを注文した。
「こちらのテーブルの注文も聞いてもらってもいいかな?」
 ぼくたちのすぐ後ろでは、いつの間にか着席していた紳士風のスーツを着た虹色の派手な色をした蛙が、店員に向かって手を挙げていた。いつの間に入って来たんだ? 店内はぼくたち以外お客さんもいなくてとても静かだったし、ウィンドチャイムの音も聞こえてこなかったのに……。
「ウォーターアイスをひとつ頼むよ」
 虹色の蛙が注文すると、メモ帳に注文を書いた店員がキッチンへと歩いていった。
「珍しいコインをお持ちですな」
 虹色の蛙の座るテーブルには彼一人しか座っていないのに、彼は誰にともなく突然話し始めた。
「フィリー。君のその制服の左のポケットに入っているコインのことだよ」
 虹色の蛙がぼくに背を向けたまま話す。
「なんであなたもぼくの名前を知ってるの? それに、どうしてぼくのポケットにコインがあることがわかったの!?」
 はじめは、虹色の蛙の独り言だと思ってた言葉が、まさか自分に向けられた言葉だと知り、ぼくは驚いていた。
「私は、君が知る以上のことはなにも知らないよ。しかし頭の良い君は、薄々感じ始めてるんじゃないかい?」
 喉を鳴らしながら話す虹色の蛙の言葉を、ぼくは黙ったまま聞いている。名前も知らない奇妙な生き物たちに、彼らだけ知るぼくの名前。ウィンドチャイムも鳴らさずに、音も気配もなく、いつの間にか店内に現れる客に店員。ぼくの知らないアムトラックの駅の構造に、この奇妙なカフェ。
 ぼくはただ、危篤のおじいちゃんの待つハリスバーグへ行くために、この大雨と雷のなか、パパとアイリーンと一緒にフィラデルフィアノースステーションにやって来ただけなのに……。
 店員が両腕に乗せた銀のお盆に注文の品を乗せてやって来る。パンケーキに紅茶、ホットココアにウォーターアイス。それぞれの注文を間違うことなくぼくたちの目の前に置いていく店員に、赤毛の熊が文句を言った。
「なぁ! 俺、ハチミツたっぷりって言ったよな? なのにこのパンケーキにはハチミツが全然掛かってないぜ?」
 赤毛の熊の言葉に自分のパンケーキを見ると、ぼくのパンケーキにはハチミツが掛けられている。
 店員がツンと尖った鼻先で指を鳴らすと、カウンターの奥のキッチンからは大量の蜜蜂の群れがやってきた。そんな様子にぼくも赤毛の熊も驚いてるけど、青色の目の兎も虹色の蛙も、眉ひとつ動かさずに自分の注文の品を楽しみ続けている。
「お前か? 俺たちの作るパンケーキにケチをつけるのは?」
 群れの中の蜜蜂が言うと、また別の蜜蜂が言う。
「お前は明らかにハチミツ過多だろう?」
 攻め寄る蜜蜂たちに赤毛の熊はたじろいでいる。
「でも……俺! ハチミツたっぷりの甘いパンケーキが好きなんだ!」
 すると、群れのまた別の蜜蜂が言う。
「そんなに早くあの列車に乗りたいなら、お前が望むほどにたっぷりと、ハチミツを掛けてやろうか?」
 蜜蜂たちの脅しに、とうとう赤毛の熊は俯きながら首を振り、パンケーキを口に運び出した。そんな様子を見ている青色の目の兎も虹色の蛙も笑っている。
 でも、ぼくはこのやり取りに違和感を覚えていたんだ。明らかに赤毛の熊はあの列車には乗りたくないようだったし、蜜蜂たちも明らかに脅し文句のためにあの列車を喩えに出してきた。行き先はわからないけど、あの列車に乗ることは一体なにを意味するんだろう? あの列車の行き先がハリスバーグでないなら、一体アメリカのどこへ行くっていうんだ?
「ところで……」虹色の蛙がウォーターアイスをシャリシャリと食べながら、突然呟いた。「あちらのテーブルに座る御老人は君の知り合いでは?」
 虹色の蛙に振り返ると、いつのまにか一人の老人が奥のテーブルの席に着いていた。ぼくはそれを見て一瞬凍り付いたように固まってしまう。その人物に見覚えがあったからだ。
 隅の老人はこちらに気づくと座ったまま声を掛けてくる。
「やぁ! ダディールー。しばらく見ないうちに随分と大きくなったものだ」
 ぼくを『ダディールー』だなんて呼ぶのはこの世に一人しかいない。そう、それはママのお父さん――つまりはぼくのおじいちゃんだ! 
「おじいちゃん!? どうしてここに!?」
 驚いて席を立ったぼくが、おじいちゃんの座るテーブルに移動する。
 おじいちゃんは今ハリスバーグの病院にいるはずなのに、どうしてこんなところに!? それにちっとも具合なんて悪そうじゃない。ひょっとして奇跡的に病気が治って、ぼくを迎えに来てくれたの? 
 理由はわからなかったけど、とにかく誰も知ってる人がいない不穏なこの場所で、心細かったぼくはおじいちゃんに会えて本当にほっとしていた。
「また背が伸びたんじゃないか? 声も少し落ち着いてきたなぁ」
 おじいちゃんの隣に座って顔を見上げる。おじいちゃんの顔はしわくちゃだけど、円らな瞳はママにそっくりで、いつも奥の方で楽しげに朝露のように光っている。でもやっぱり意地悪を言いながら、いつもぼくの肩を摩るんだ。
「相変わらず、ダディールーは直ってないようだがね」
「だから、そんな言い方はやめてよ、おじいちゃん! ぼくにはフィリップスっていう、ちゃんとした名前があるんだから!」
 何度こんなやり取りを交わしたかな。会うたびにする呆れ顔で変わらずに笑うおじいちゃんにぼくは訊いた。
「どうしておじいちゃんがここにいるの?」
「私はいつだってお前の傍にいるさ。それは、お前が私を思い出してくれるかぎり、ずっと変わらないんだよ」
 想像していた答えが返ってこずに、ぼくは少しだけモヤモヤとする。
「人が動くとき、そこには必ず痕跡が残るものだ。たとえば、足跡だったり、匂いだったりね。私がこの店に入ってきたとき、なぜ、お前は気づかなかったんだと思う?」
 ぼくがおじいちゃんに気づかなかった? なんの謎掛けか、その言葉にぼくは店内を見渡した。
 テーブルだって四つしかない狭い店内だ。どこに座っていたってすぐわかるはずだし、店には入口がひとつしかない。誰かが入ってこれば、外から連れてきた風でウィンドチャイムが美しい音色を奏でるから、気づかないはずなんてないんだ。
 虹色の蛙に言われたとき、きっとぼくも薄々感じていたんだと思う。
 ――ここが、フィラデルフィアでもなければ、ハリスバーグでもないってことを。
 神殿のような構内に、広い通路、名前のない変な動物たち、ぼくを不思議そうに見送る人々、そしてここに停まらないはずの長距離列車――。大広間に噴き出されていた蒸気がいつしかカフェの店内にまで染み込んできているように視界が時折霞む。
「おじいちゃんは、……あの列車に乗っていくの?」
 声を震わせながら訊くと、おじいちゃんはなにも言わずに大きく頷いた。――やっぱり、そうなんだ……。おじいちゃんは旅立つ前にぼくにわざわざお別れを言いに来てくれたんだろうか? でも、もしここが『そういう場所』なら、もしかしておじいちゃんはぼくを迎えに来たってこと? 
「……ぼくも、おじいちゃんと一緒にあの列車に乗っていくの?」
 そんな問いに、今度はおじいちゃんは首を横に振った。
「お前は一緒には行けないよ、ダディールー。一緒に行くのは別の人だ」
 おじいちゃんの言葉に胸が少しずつ苦しくなってくる。赤毛の熊と青色の目の兎が椅子から立ち上がると、ぼくの傍にやってきて肩を撫でながら言った。
「フィリー。大丈夫だよ、俺たちが傍にいるから」
 赤毛の熊が店の入口を指差すと、いつのまにかそこに一人の男の人がこちらを見つめて立っていた。
「やぁ、来たね。さぁ、君もここに来なさい」
 おじいちゃんがその人を呼び寄せると、ぼくの胸は息もできないほどに締め付けられた。呼ばれて歩いてきたのは、ぼくのパパだったから。ぼくは固まり続ける。パパはいつもの仕事着のデニムエプロンを着てゆっくりと近づいてくる。
「フィリー、パパのためにコーヒーは注文してくれたかい?」
 そう優しく訊ねながら、パパはニッコリ笑ってぼくの隣に座った。
「パパ!? どうしてここに! 駄目だよ! ここはパパの来るところじゃないよ!!」
 吐き出すように泣きながらパパをこの店から追い出そうとするけど、パパは動こうとしなかった。穏やかな笑みを湛えたままそこに座っている。暴れるぼくの手と気持ちはパパの身体を叩いているはずなのに、ぼくだけがこのカフェで風を起こしている気がするんだ。
 ――どうして動かないんだ!
「ねぇ! おじいちゃんも言ってよ! パパを連れて行かないで!」
 出て行こうとしないパパに、ぼくはおじいちゃんを攻め立てる。
「フィリー、起きてしまったことは変えられないわ」
 青色の目の兎が悲しそうにぼくの肩を摩る。
「だってそんなのおかしいよ!! ぼくたちは車に乗って駅に向かってたんだよ!? こんなの絶対におかしいよ!! なにかの間違いに決まってる!!」
 取り乱したぼくは椅子から転げ落ちて床に倒れ込んだ。すぐにぼくを起き上がらせようと、パパが手を差し延べる。
「フィリー、彼女の言うとおりだ。起きてしまったことは誰にも変えられないんだよ」
 ぼくはその手と言葉を振り払った。
「嫌だよ! そんなの絶対に嫌だ!」
 拒絶するように暴れて泣きじゃくるぼくを、赤毛の熊も、青色の目の兎も、そして虹色の蛙もただ心配そうに見守っていた。
「ダディールー。お前には酷なことだけれど、こうしてる間にも出発の時間は迫っているんだ。こうしてお前がぐずったまま、出発まで過ごすのもお前の自由だし、それよりももっと別のことに時間を使うのもお前の自由だ」
 おじいちゃんは席に座ったまま呆れたような声を出す。
「フィリー、こうして親父さんに会えたんだ。今話せることを今話しておかなくちゃ、きっとお前は後悔するぞ?」
 床に突っ伏したままのぼくに、赤毛の熊が心配そうに腕を組む。
「そうよフィリー。それに、あなたのパパはあなたの思い出のなかで永遠に生き続けるわ。ずっと見守ってくれているの」
 今度は青色の目の兎が優しくぼくに話し掛けた。
「さあ、フィリー。起き上がってお前の顔をパパによく見せておくれ」
 パパが再び差し延べた手をぼくはしっかりと握りしめた。大きな手の平はいつもと変わらずとても温かい。
「さぁ、涙を拭いて」
 パパは絵の具でグズグズになったデニムエプロンでぼくの顔を拭く。途端に周りにいたみんながくすくすと笑い出す。
「パパ! そのエプロンで顔を拭いたら絵の具がついちゃうよ!」
 ぼくの言葉に、みんながいっせいに声を出して笑い始めた。
「ごめん! ごめん! 店員さん! おしぼりを持ってきてくれないか!?」
 オロオロと慌てておしぼりを頼むパパを見ていたら、なんだかいつものパパにコーヒーを飲ませたくなる。
「あと、熱々のコーヒーをください! ミルクは1でダイエットシュガーをたっぷりのやつを!」
 ぼくの注文に店員はニッコリ頷くと、キッチンへと歩いていった。
「ごめんな? フィリー、いつもお前にエプロンのことは注意されてたのに……」
 申し訳なさそうにパパがしょんぼりとするなか、ぼくたちにおしぼりとコーヒーが届けられた。
「いつもフィリーに注意されてるのにやっちゃうなんて、親父さん結構間抜けなんだな!」赤毛の熊が笑う。
「これじゃどっちがダディールーなのか、わかったもんじゃない」
 笑いを堪えるおじいちゃんの前で面目なさそうに鼻の頭をポリポリと掻くパパは、なんだかいつものぼくにダブって見えた。
「パパ、ぼくこそパパに謝らなきゃならないことがあるんだ……」
 ぼくはこの目まぐるしく変わる状況のなかで、パパに伝えられずにいた嘘の告白をずっと心に棘として残したままだった。
 パパはコーヒーを口に含むと、カップを置いてぼくを見つめる。
「実はね、パパに借りた5ドルを勝手に使ってしまったんだ……」
 ぼくは制服のポケットから6ペンスコインを取り出してテーブルに置いた。
「もうすぐパパの誕生日でしょ? ピザが買えずに帰りに寄った雑貨屋でこのコインを見つけて、パパへのプレゼントにピッタリだと思ったんだ。でもぼくにはおこづかいが残ってなかったし、他のお客さんがこのコインを欲しがってたからつい……」
 今度は虹色の蛙が、なぜか申し訳なさそうに喉を鳴らす。
「本当にごめんなさい! ぼく、預かったお金でパパへのプレゼントを買ってしまって、お金を失くしたなんて嘘をついたんだ!」
 パパは顔色ひとつ変えずに優しく笑ったままぼくを見ている。
「でもさ! フィリーはよく頑張ったんだよ! 友達と一緒にアルバイトをして、使ってしまったお金を稼いだんだぜ!」
 なぜそのことを知っているのか、赤毛の熊がぼくのポケットに勝手に手を突っ込むと、エプロンのお釣りの5ドル紙幣を取り出してテーブルに置いた。
「フィリーは仕事に対してとても責任感が強く、素晴らしい働きをしたわ」
 今度は青色の目の兎が、ぼくの肩に手を置いてパパに向かって話す。
「もちろん、パパだってお前がなにかを企んでるのは知っていたよ。生まれた瞬間からの古い親友じゃないか、フィリーとパパとは」
 パパも変わらない笑顔のままだ。
「どうして!? どうしてみんなが知ってるの?」
 訳がわからずみんなを見渡すと、青色の目の兎が答えてくれた。
「世の中にはね、ズルをしたり、嘘をついたり、人の見ていないところでコツコツと努力したり、様々な生き方をする人がいるわ。でも、そんな人たちを誰かはきっと見てるのよ。たとえばその人の周りにいる誰かかもしれないし、その人の心のなかに住む誰かかもしれないし、あるいは神様かもしれないわ」
 なぜだか青色の目の兎の言葉がとても懐かしく思えるし、とても勇気をくれる言葉のように感じる。
「それにしても! パパはフィリーに関して驚かされたことがふたつあるよ!」
 ぼくの手をとって嬉しそうに笑うパパの目に、うっすらと涙が溜まってるように見えた。パパの大きな手の温もりを感じる。
「どういうこと?」
「ひとつ目は、今回のことでお前が大人になるための視野を広げたってことさ。覚えてないかい? お前がサウスサイドピザの代金をパパにせびりに来たときのことを……」
 もちろん覚えてるよ。アーチャーに誘われたピザのお金がなくていつものようにおねだりに行くと、毎月恒例のようにおこづかいを使い果たして申し訳なさそうにお金をせびるぼくに、パパはどうすればいいか考えてごらんって言ったんだ。
「お前は見事にその悩みを解決するために考え、そして行動し、結果を出したんだ!」
 ぼくの手を摩りながらパパの目からは涙がこぼれていた。
「でもね、あれはアーチャーがアイデアをくれたからできたことなんだ! ぼくだけじゃ今でも途方に暮れていたよ!」
 するとなぜか赤毛の熊が照れ臭そうに頭を掻きむしる。
「ほら? 青目の兎も言ってたろ? お前のことをちゃんと見てる奴がいたってことだよ!」
 アーチャーはぼくの大親友だし、パパ以外でぼくのことをわかってるのは彼の他にはいない。そんな親友のアイデアがあったからこそ、ぼくはこうしてパパにお金を返すことができたんだ。だからこれはぼく一人の力じゃなくて、アーチャーがいてくれたからこそできたことなんだってわかる。
「ダディールー。大きなチャンスが舞い込むってことはね、チャンスをあげたいと思う人に、とても大きな魅力がなければ成り立たないものなんだよ。だから、お前が得た成果はやはりお前自身が勝ち得たものなんじゃないかと私は思うよ」
 おじいちゃんがぼくの顔を誇らしく見ながら優しく言った。
「フィリー、おじいちゃんの言うとおりだよ。お前は本当に素晴らしい友達を持つことができたね。その友達がお前の視野を広げるチャンスをくれて、そしてお前は見事それに応えた。口で言うほど簡単にできることじゃないさ」
 ぼくの手を摩るパパの温度が上がっていく。パパが興奮しているのがその熱でぼくにも伝わってくる。
「それからあとひとつは、じつはパパもお前に謝らなくちゃならないんだけど、お前の作るジオラマのことなんだよ……」
 ジオラマ? 誰にも見せたことのないぼくのジオラマのこと?
「お前がお金を失くしたって帰ってきたあの日、お前にドーナツを買ってくるように、パパは頼んだだろう?」
 ぼくがピザを買ってくるとばかり思っていたパパは、朝からなにも食べずに待っていた。預かったお金を勝手に使ってしまった言い訳が思い浮かばずに、ものすごく心配を掛けてしまったことを思い出す。誰かに恐喝されたんじゃないかって疑うほど、パパはぼくを心配していた。
「心配になったパパは、お前にドーナツを買いに行ってもらってる間に、こっそりお前の部屋に忍び込んだんだよ。すまない、フィリー。そのときに机の上のものを見てしまったんだ」
 そうか、あのボロボロの使い古しのスポンジで作った木や歯ブラシで作った鳥の巣とかを見つかっちゃったのか。プロのイラストレーターのパパからしたらきっと稚拙なんだろうな。パパをがっかりさせたんじゃないかって急に恥ずかしくなってくる。
「ごめんね、ぼくには才能がないんだ。ママに似て少しは手先が器用かもしれないけど、パパみたいに上手に絵だって描けないし」
「違うんだよ、フィリー! あんなにも想像を掻き立てられて、独創的なジオラマは初めて見たって伝えたかったんだ! お前には間違いなく造形作家の才能が溢れているよ!」
「本当!? パパ? 本当にそう思う!?」
 信じられない言葉に、ぼくは食いつくようにかじりつく。
「もちろんだとも! パパがお前に嘘を言ったことがあったかい? その証拠に、お前の作品に刺激を受けたものを、パパの仕事部屋に残してきたよ。お前に貰ってほしくてね。早くお前に見てもらいたいよ! 今のパパの自信作なんだ!」
 パパは自信と涙に溢れたクシャクシャの笑顔でテーブル越しにぼくの手をとる。
「今回は、すごく横長のキャンパスを使ったんだ! 上下を自分で削ってね……。ほら、お前が作っていたジオラマの小さな木や草原には、本当にいろんな色がひしめくように塗られていただろう? あれはパパには思いもよらないことだったんだ。赤や黄色、白……いったいどうしてっていう色が、小さく点のようにそこに息づいていた。お前のジオラマには空はないのに、そこで休息したり遊んだりする動物たちや、空から射す光や影が目に見えるようだったんだ。だからパパもそんな一面の草原を描いた。光や影や動物たちの足跡や、零れ落ちてくる鳥の羽根、昨日降った雨、去年来た嵐……。そんな一面の草原のその真ん中に、一本の名前も知られていない木が生きている。空にも届きそうなその巨大な木に世界中の鳥たちが羽を休めるために留まっているんだよ」
 子供のように興奮して目を輝かせるパパの絵が、ぼくの頭にまざまざと浮かび上がる。ぼくは草原の温度や風に纏わりつかれて抱えきれずに泣き出しそうになる。
「……たとえば、どんな鳥?」
 今にも溢れそうな気持ちを無理矢理押し殺すように呟くと、パパはそんなぼくの目に溜まった涙を拭ってくれた。
「本当に様々だよ。オウムや隼、インコに梟に鷹に孔雀に白鳥……。描いたパパでさえ、思い出せないほどたくさんの鳥たちだよ」
 パパの呼吸、表情に声の温もり、そのどれも見逃さないようにぼくは注意深く微笑み続けるパパを見つめた。
「そんな鳥たちが羽を休める名も無い巨木の後ろを、まるで夕焼けのように朱く染めるたくさんのフラミンゴが一面の空に羽ばたいているんだ」
 パパの目からは一粒、また一粒とキラキラと輝く涙が落ちて、テーブルに水溜まりを作っていく。
「一本の巨大な木に、休息する彩りに溢れた鳥たち、そして羽ばたく朱い空――まるでこの世界の縮図のような絵なんだ! ともに意識し、ともに助けあい、そして力強く生きていく。そんなメッセージを込めて描きあげたパパの最高傑作だ。タイトルは『マイホーム』!」
 パパは大粒の涙を流しながら立ち上がると、ぼくを力いっぱい抱きしめた。なにかを必死に堪えて真っ赤な顔をさらに赤くする。痛いほどに抱きしめるパパの震えが伝わると、ぼくも堪らず涙がこぼれた。
「パパ! 寂しいよ! ぼくたちのこと、置いていかないでよ!」
 あとからあとから涙が溢れて言葉はもう呻きにしか聞こえない。
「ごめんな! フィリー! この先はお前がパパのように家族を守ってほしい! パパのわがままだけど、こんなことお願いできるのはお前しかいないんだ」
 パパの声だってもう全然聞き取れなかった。それでも言ってることははっきりと理解できるんだ。たとえ言葉なんてなくてもぼくたちの間には深い愛とお互いを思い合う気持ちがあるんだから。
 周りでは、みんなが優しくぼくたちを見守っているようだった。赤毛の熊も、青色の目の兎も、虹色の蛙も、気取った店員も、蜜蜂のコックも、そしておじいちゃんも……。