「また明日な! フィリー!」
アーチャーはいつもと変わらない笑顔で差した傘を振った。そんな彼を見送ってぼくが玄関のドアに手をかけると、突然後ろからぼくを呼ぶ声がして振り返る。するとそこにずぶ濡れのアイリーンが立っていた。
「フィリー! 一体なにがあったって?」
「アイリーン!? ベビーシッターのアルバイトは!?」
質問の意図がわからず訊き返すと、そのとき勢いよく玄関の扉が開いて、ひどく慌てた様子のパパが現れた。
「あぁ! フィリー! よかった! 帰ってきたんだね。お前にだけ連絡がとれなかったから今から探しに行こうと思ってたんだ!」
突然滝のように降り出してきた大雨と、鳴り響く雷鳴に掻き消されて、パパの言葉がきちんと届いてこない。
「一体どうしたのパパ? なにかあったの?」
いつもより大きな声を張り上げるけど、激しい雨音で自分の声もちゃんと聞き取れないほどだった。
「とにかく車まで行こう! アイリーンも急いで着替えを持っておいで!」
パパはぼくの手を掴むと、車の停めてある通りまでぼくを引っ張るように走り出した。転びそうになる足を保って必死についていく。
「パパ……! 傘は!?」
よっぽど慌てているんだろう、パパは仕事着のデニムエプロンの上からコートを羽織り、傘も差さずに家を飛び出してきていた。
アルバンス通りに入った道の路肩に停めてある車の後部座席にぼくを押し込むと、パパも急いで運転席に乗り込んた。アイリーンが追いついて助手席に乗るのを待って、車を発進させる。
「パパ? そんなに慌てて一体どこに向かうの?」
「ママからさっき電話があってね、おじいさんが意識を失って病院に運ばれたそうだ。詳しいことまではわからないけど、あまり良くないみたいなんだよ」
打ち付ける激しい雨と地鳴りのように響く雷鳴。車のワイパーとぼくの鼓動が目眩を起こしそうなほど早くなっていく。
「おじいちゃん、死んじゃうの!?」
身を乗り出してまっすぐ前だけを見ているパパに、ぼくとアイリーンが声を揃えた。
「わからない。ただ、そうなる前にみんなでおじいさんに会っておいた方がいいと思ってね」
小さく呟いたパパが、フロントガラスの向こうに必死で視界を凝らして、何度も頭の角度を変えながらハンドルを握る。
「おじいちゃんのところへは、このまま車で行くの?」
助手席のアイリーンが落ち着かない様子でパパに訊いた。
「いや、アムトラックで行くつもりなんだけど……」
パパはしきりに時間を気にして腕時計に目をやっていた。降り続ける雨は、その手を緩めるどころかさらに勢いを増していく。空のダムが決壊したかのようにせき止められていた雨と雷がぼくたちの頭上に容赦なく落ちてくる。
無差別に撃ち振るわれる落雷のたびに、車の窓ガラスはガタついて軋み、その振動が身体に伝わる。おじいちゃんが死んでしまうかもしれないってときに降り出したこの大雨と落雷が、まさになにか悪いことを連想させるようでぼくは怖くて仕方がなかった。機関銃のように打ち付ける雨が車のボディーに激しく音を立てながら、今にも天井を貫いて襲い入ってくるような不安に駆られる。
「ものすごい雨ね……」
張り詰める空気にアイリーンが話題を探して呟くけど、叩きつけるような雨音でパパがどんな返事をしたのかさえ、ぼくの耳に届く前に掻き消されてしまった。
サウスブロード通りに車が進入するころには、帰宅ラッシュも重なって長い列を成している。車が少し進みまたすぐに止まってしまうたび、パパは腕時計を見てはクラクションを鳴らしていた。
「ねぇ、パパ、こんなにひどい大雨でも、列車は動くのかな? ひょっとしたら止まってるかもしれないよ?」
何度も腕時計を見る仕草に、ひょっとしてパパはものすごく苛立ってるんじゃないかと心配になったぼくが後部座席から呟くけど、大雨と落雷に阻まれてやはりぼくの声はパパの耳に届く前に虚しく掻き消された。
やっとの思いで、シティーホールをぐるりと回ってノースブロード通りへ進入するころには、もはや渋滞とは呼べないほど何台もの車が完全に連なって交通麻痺を起こしかけている。
「これじゃ道を変えないと今日中にだって駅にたどり着けないぞ」
まったく動こうとしない車の列に、パパは脇道から進路を西へと変えた。相変わらず続く激しい雨音と落雷の振動、おじいちゃんが死んでしまうかもしれないって不安で、ぼくはガタガタと震えながら隠れるように細いシートベルトにしがみついていた。
「フィリー!? どうしたんだい? 寒いのか?」
ぼくの様子をルームミラー越しに見たパパが心配そうに声を上げる。
「きっと雨に濡れて体が冷えてしまったんだね! 少し待って……アイリーン、これをフィリーに着せてあげてくれるかい」
パパは自分が着ていたコートを脱ぐと、助手席のアイリーンに渡してぼくの体をコートで包むように言った。
「うん、フィリー? 大丈夫?」
アイリーンは後部座席へと移動してくると、震えるぼくの身体をパパのコートで包んで抱いてくれた。コートに染み付いたパパの匂いと、どこか懐かしい匂い――古めかしい生地に顔を埋めると心が少しずつ落ち着いていく。
「フィリー、変な匂いがするかい? ごめんね、でもそのコートはパパのお父さんのコートでね、もう一人のおじいちゃんの大切な形見なんだよ」
ルームミラー越しにパパは懐かしい目でコートを羽織ったぼくを見つめる。そんなパパを見ていたら、もしかしたら若い頃のパパもぼくと同じでダディールーだったのかもしれないと思った。
ぼくにはパパの両親の記憶がない。パパのお母さんは、パパがまだ若い頃に家を出ていったきり帰ってこなかったと聞いたし、パパのお父さんはぼくが生まれた年に病気で亡くなってしまったからだ。
きっと、今パパがなるべく家にいて家族との時間をたくさん作っているのは、そんなことも関係しているんじゃないかな。ぼくは物心ついてから身内の誰かを亡くしたことはないから、会うたびにいつもダディールーと茶化すおじいちゃんにもう会うことができなくなるなんて、とても現実に感じられないし、想像もできない。
「人が死んでしまうのは、誰にも防げないことだし、それは必ずやって来ることなんだ」
パパの絵の具の匂いがぼくは好きだ。このコートに微かに残る匂いのするおじいちゃんのことを、パパはどれくらい好きだったのかな。
「なぁ、フィリー、パパは時々思うことがあるんだよ。たしかに、大切に思っていた人が亡くなるのは、とても悲しいことだし、とても寂しいことだ」
轟く雷鳴と機関銃のような大雨のなかパパは続ける。
「でもね、パパのお父さんとの思い出は、いつまでもパパの心に生き続けているんだよ。そしてなにか悪いことをすれば、思い出のなかのお父さんは叱ってくれるし、なにか良いことをすれば褒めてもくれる。そしてなにかに躓いたときは、励ましてもくれるんだよ」
相変わらず打ち付ける雨音と、雷鳴に辺りは騒々しいけど、不思議とさっきまでの恐怖心は消え、むしろ安心感を感じ始めていた。それはパパが貸してくれたコートの匂いと、ぼくの肩を抱くアイリーンの温かさ、そしてきっとこんな状況でも変わらず優しい口調で話してくれるパパのおかげだって思う。
ぼんやりと眠りに誘われそうになりながら、ぼくはエミリーのことを思い出していた。思い出の写真を毎日眺めていたエミリー。彼女にも、亡くなったご主人が心に語りかけてきたりするのかな? 寂しいけど、寂しくないって気持ちは、そんなふうに時折話し掛けてくれる、心に生き続けるご主人がいるからこそなのかな?
バツバツと車に打ち付ける雨音。規則正しく左右に振れるワイパー。すぐそばで雷が落ちるような音がして、アイリーンがぼくの肩をきつく抱きしめるけど、コートに残るパパとパパのお父さんの匂いに心はすっかり穏やかになって、意識は遥か遠くに運ばれていくような心地好さだった。ぼくはポケットのコインを握りしめるといつの間にか眠ってしまった。
†‡†
どのくらい眠っていたのか。
きっとそんなに時間は経ってない。
ぼくが目を覚ますと、さっきまで降っていた大雨は止んで、燻る雷の音が遠くの方で聞こえた。気がつけば、車の中にはぼくひとりだけで、さっきまで隣にいたアイリーンも運転席のパパも見当たらない。
車はどこかの駐車場に停まっていた。ぼくはこの場所を知っている。――ノースフィラデルフィアステーション、つまりアムトラックの駅付近の駐車場だ。
ぼくは慌てて車の外に飛び出すと、大きな声で叫んだ。
「パパ!! パパ!? アイリーン!?」
ぼくの叫びも虚しく、誰一人としてぼくの声に応えようとしない。
二人ともひどく雨に濡れていたから着替えに構内に行ってしまったのかもしれない。眠ってしまったぼくを置き去りにした二人に腹を立てながら、ぼくは泣き出しそうになってアムトラックのステーションに駆け出していた。
構内は人影も疎らでとても静かだった。見上げた天井は遥か高く、石畳の床は姿が映り込むほど磨きあげられ光沢を放っている。
神殿かと見紛うほど、通路の中央と両端にそびえ立つ三列の真っ白な柱が彼方まで続き目が眩みそうになる。吹き抜けの窓から射す光はステンドグラスに反射して数えきれないほどのアーチを空間に宿し神秘的に滲んで見えた。どこにも照明らしきものは見当たらないのに不思議と薄暗さは感じない。とにかくここは、ぼくが知るフィラデルフィアノースステーションとはまったく掛け離れた場所のようで落ち着かなかった。
「パパー!? アイリーン!?」
水中で溺れてもがく子犬のように叫び続ける。すれ違う人たちは心配そうに見るだけで誰も声を掛けてこない。今にも泣き出しそうになりながらぼくは奥へと進んでいった。
石を積み上げて造られた凹凸のある壁面に、化粧室の案内板を見つける。アイリーンは家を出るときにパパから着替えを持ってこいと言われていたから、もしかしたら化粧室にいるかもしれない。きっと一人じゃ心細いからぼくが眠っているうちにパパを連れて着替えに行ったんだ。
案内板に沿って壁伝いに歩いていくとやがて目の前に化粧室が見えてくるけどそこにパパたちの姿はなかった。なかへ入ると真っ白なタイル張りの化粧室では中年のおじさんが用を足していて、突然踏み込んで立ち尽くすぼくを不思議そうに眺める。
洗面台には誰もいない。ジロリと向けられる視線に不愉快になりながらも、ぼくは後ろを通り過ぎて使用中の個室の前に立った。
「パパー!? いるの?」
ドアには鍵が掛かっている。内側まで聞こえるように呼ぶけどなんの返答もない。おじさんが洗面台で手を洗い、鏡越しにぼくを見る。そして、濡れた水気を飛ばすように最後にぼくを一瞥すると外へと出ていった。
「パパー!? いるなら返事をして! どこ!?」
なんだよ!? おじさんが出て行ったのを確認して再びパパを呼ぶと、しゃがみ込んでドアの下から様子を伺おうとした。その瞬間、水の流れる音がしたかと思うと突然個室の扉が開かれ、なかから出てきた人物がしゃがみ込むぼくに声を掛ける。
ぼくはその人物の顔を見て、完全に怖気づいていた。
「フィリー?」
ぼくの名前を呼ぶその相手。一瞬パパかと勘違いしたけど、その男はパパに似せても似つかないような奇妙な風貌をしている。
「フィリー? お前なにしてるんだ? こんなところで……」
その男の風貌にぼくは怯えて言葉も出ない。今すぐにでも全速力で、この場から逃げ出したかったけど、足はすくんで立つこともできなかった。
「フィリー? どうした? 起てないのか?」
男はぼくに手を差し出す。差し出された手は毛むくじゃらで、その毛色は燃えるように赤い。ぼくはガタガタと震えながら気が遠くなりそうになる。だってぼくの目の前にいる男は、まるで熊の着ぐるみを着て、その上から人間の服を着てるような風貌だったから。二本足で立ち、全身を覆う毛はやっぱり燃えるような赤だった。
「フィリー? 大丈夫か?」赤毛の熊が不思議そうに訊ねる。
「な……なんで……ぼ……ぼくの名前を!? あ、あなたは誰なの!?」
「俺にお前のような立派な名前はないよ。あるとしたら見た目どおり『赤毛の熊』だろ? でもお前には立派な名前がある。それがフィリップス。愛称はフィリーだろ?」
この赤毛の熊はなにを言ってるんだ? さっぱりわからない!
なぜ、そんな奇妙な着ぐるみを着てぼくをからかうんだ!? なぜ、ぼくの名前を知っているんだ!?
しゃがみ込んだままのぼくはやっとの思いで体を動かし、床を這うようにそいつから逃げ出した。化粧室から転がり出ると大声で助けを求める。
「誰か! 誰か来て! トイレにおかしな人がいるんだ!」
構内を歩く人たちにはっきりと聞こえるような大声で叫ぶけど、誰一人として駆け寄って来てくれる人はいない。それどころか、化粧室でぼくに訝しげな目を呉れたおじさんと同じに、ただ不思議そうに遠巻きにするだけだった。
「ねぇ! 本当なんだよ! 本当にトイレにおかしな格好をした人がいて、ぼくの名前を呼ぶんだ!!」
必死に訴えても、誰も助ける気配を見せない。
「どうしたのフィリー?」
すると今度は、後ろから女の人の声が聞こえた。
「アイリーン!?」
思わず喜んで振り返ったぼくの目の前には、さっきトイレで会った赤毛の熊と同じ、奇妙な着ぐるみを着て女性の服装をした青色の目の兎が不思議そうに立っていた。
「フィリー? こんなところでなにをしてるの?」
そう訊ねる青色の目の兎に、ぼくの頭はもう真っ白になり、その場に座り込んで泣き出してしまった。
「一体ここはなんなの!? どうしてぼくをそんな格好でからかうの!?」
ワンワンと泣くぼくの肩に、青色の目の兎が優しく手を置く。
「シーッ! フィリー。シーッ! 大丈夫よ、心配しないで」
どこか聞き覚えのある声だけど、誰の声だったか思い出せない。
「わかるわ、不安なのね。大丈夫! 私がついててあげるわ」
そういってぼくの背中を摩る青色の目の兎は、座り込んだぼくを立たせてくれた。
「あなたは誰なの? なぜぼくの名前を知ってるの? ぼくはあなたのことなんて知らないのに」
青色の目の兎は、ぼくの膝の埃を掃いながら優しく答える。
「此処に私の名前なんてないわ。みんなそうよ、でもあなたは違う、あなたには立派な名前があるでしょ? フィリー」
まただ! 赤毛の熊とまったく同じに、訳のわからないことを話す青色の目の兎。そんなぼくたちに向かって、化粧室から出てきたさっきの赤毛の熊もやってくる。
「フィリー! まだいたのか?」
「フィリーにはきっと、此処でやるべきことが残っているのよ。だから私たちは、彼の傍でそれを見守ってあげましょう?」
そう話す青色の目の兎に、赤毛の熊は大きく頷いて巨体を揺らす。
「あなたたちはなにか勘違いをしてるよ! ぼくはただ、パパとお姉ちゃんを探しに来ただけなんだから! 二人が見つかったら、ぼくたちは、アムトラックに乗ってハリスバーグにあるおじいちゃんの家に行くんだ!」
そう、ぼくは今からおじいちゃんに会いに行くんだ! そのためにこのフィラデルフィアノースステーションに来たんだから。
「そうなのか? じゃあ早くお前のパパと姉ちゃんを探さないとな!」そういって赤毛の熊はぼくの肩を叩く。
「そうね、グズグズしてたら列車が出発してしまうわ」
青色の目の兎もそう言うと、さも親切にぼくについてこようとする。
「いいよ! ぼくひとりで探すから! それにあなたたちはぼくのパパのこともお姉ちゃんのことも知らないでしょう!?」
肩に置かれた赤毛の熊の手を振り払ってその場から逃げ出そうとするけれど、構内のただ広い通路はひたすらにまっすぐで、どこにも隠れるところもない。小走りに距離を置こうとするぼくを不思議そうに眺めながらついてくる赤毛の熊と青色の目の兎……。
結局ぼくたちは一緒になってパパとアイリーンを探した。
「パパー! アイリーン!」
構内を疎らに歩く他の人たちは、そんなぼくたちをただ遠巻きに見ては流れる景色のように通り過ぎていくだけ。
そりゃあそうだよ。誰も好き好んで、こんな奇妙な格好をした二人組と一緒にいるぼくに話し掛けたいなんて思うはずもないんだから……。
構内の広い通路を、パパとアイリーンを探しながらぼくたちは奥へと進んでいく。ぼくが知るアムトラックの駅とは明らかに構造の違う建物に不安を覚えながら、隣を歩く赤毛の熊に訊く。
「ねぇ? 君たちには、ここがどこなのかわかるの?」
赤毛の熊は、困ったように青色の目の兎を見た。
「私たちは、今のあなた以上のことはなにも知らないわ。でもあなたが此処でなにかをしなくてはならないのはわかってるつもりよ」
はぐらかされたような答えにぼくはがっかりしながらも、さらに建物の奥へと歩いていく。しばらくいくと、広い通路の真ん中に金色の時計が建っていた。後方に通路の三倍の広さはありそうな大広間が広がっている。その中央に、ポツンと時代物の古い蒸気機関車が一台、蒸気を漏れ出すように吹きながら出発の時刻を待っているようだった。
「蒸気機関車だ……」
明らかにキーストーン号じゃないその列車に、ぼくは驚きながらも引き寄せられるように近づいていった。青色の塗装を施されたその蒸気機関車には、たくさんの車輌が連結されている。見るかぎり、座席車が数両に寝台車や食堂車までもが連結され、まるでこれから長距離でも走るかのような編成だ。
「ここはフィラデルフィアノースステーションじゃないよ! ここに停まるアムトラックは、こんな長距離列車じゃないもの!」
青色の目の兎に訴えると、彼女はゆっくりと頷いた。
「えぇ、そのようね。でもフィリー? あなたが此処にいるということは、きっとあなたには此処でやらなくてはならないことがあるんだと私は思うわ」
優しく答える青色の目の兎を見ながら、ぼくは彼女の言う『ここでやらなくてはならないこと』を必死に思い出そうとするけど、まるで心当たりがない。
「なぁ? あそこにカフェがあるみたいだぜ? なにかつまみながら落ち着いて考えればやるべきことが思い出せるんじゃないか?」
赤毛の熊が毛むくじゃらの指で差す先には、ひっそりと建つカフェがあった。もちろん、ぼくが知ってるアムトラックの駅にはあんな場所にカフェなんてない。
「でもぼく、お金なんて持ってないよ……」
そういってポケットを叩くと、パパのプレゼントに買ったエプロンのお釣りが入っているのに気がついた。ポケットから取り出した5ドル紙幣と小銭を見た赤毛の熊は、「あるじゃないか!」と嬉しそうに話すと、さっさと店へと入っていった。
「ちょっと待って! このお金は駄目だよ! パパに返さなきゃならないお金なんだ!」
ぼくの訴えも虚しく、赤毛の熊はとっくに店内へ入ってしまった。傍にいた青色の目の兎がぼくに言う。
「とにかくなかへ入りましょう。ひょっとしたら、あなたのパパたちも店内にいるかもしれないわ」
青色の目の兎の言葉に、ぼくは少し希望を持って店内へと入った。
アーチャーはいつもと変わらない笑顔で差した傘を振った。そんな彼を見送ってぼくが玄関のドアに手をかけると、突然後ろからぼくを呼ぶ声がして振り返る。するとそこにずぶ濡れのアイリーンが立っていた。
「フィリー! 一体なにがあったって?」
「アイリーン!? ベビーシッターのアルバイトは!?」
質問の意図がわからず訊き返すと、そのとき勢いよく玄関の扉が開いて、ひどく慌てた様子のパパが現れた。
「あぁ! フィリー! よかった! 帰ってきたんだね。お前にだけ連絡がとれなかったから今から探しに行こうと思ってたんだ!」
突然滝のように降り出してきた大雨と、鳴り響く雷鳴に掻き消されて、パパの言葉がきちんと届いてこない。
「一体どうしたのパパ? なにかあったの?」
いつもより大きな声を張り上げるけど、激しい雨音で自分の声もちゃんと聞き取れないほどだった。
「とにかく車まで行こう! アイリーンも急いで着替えを持っておいで!」
パパはぼくの手を掴むと、車の停めてある通りまでぼくを引っ張るように走り出した。転びそうになる足を保って必死についていく。
「パパ……! 傘は!?」
よっぽど慌てているんだろう、パパは仕事着のデニムエプロンの上からコートを羽織り、傘も差さずに家を飛び出してきていた。
アルバンス通りに入った道の路肩に停めてある車の後部座席にぼくを押し込むと、パパも急いで運転席に乗り込んた。アイリーンが追いついて助手席に乗るのを待って、車を発進させる。
「パパ? そんなに慌てて一体どこに向かうの?」
「ママからさっき電話があってね、おじいさんが意識を失って病院に運ばれたそうだ。詳しいことまではわからないけど、あまり良くないみたいなんだよ」
打ち付ける激しい雨と地鳴りのように響く雷鳴。車のワイパーとぼくの鼓動が目眩を起こしそうなほど早くなっていく。
「おじいちゃん、死んじゃうの!?」
身を乗り出してまっすぐ前だけを見ているパパに、ぼくとアイリーンが声を揃えた。
「わからない。ただ、そうなる前にみんなでおじいさんに会っておいた方がいいと思ってね」
小さく呟いたパパが、フロントガラスの向こうに必死で視界を凝らして、何度も頭の角度を変えながらハンドルを握る。
「おじいちゃんのところへは、このまま車で行くの?」
助手席のアイリーンが落ち着かない様子でパパに訊いた。
「いや、アムトラックで行くつもりなんだけど……」
パパはしきりに時間を気にして腕時計に目をやっていた。降り続ける雨は、その手を緩めるどころかさらに勢いを増していく。空のダムが決壊したかのようにせき止められていた雨と雷がぼくたちの頭上に容赦なく落ちてくる。
無差別に撃ち振るわれる落雷のたびに、車の窓ガラスはガタついて軋み、その振動が身体に伝わる。おじいちゃんが死んでしまうかもしれないってときに降り出したこの大雨と落雷が、まさになにか悪いことを連想させるようでぼくは怖くて仕方がなかった。機関銃のように打ち付ける雨が車のボディーに激しく音を立てながら、今にも天井を貫いて襲い入ってくるような不安に駆られる。
「ものすごい雨ね……」
張り詰める空気にアイリーンが話題を探して呟くけど、叩きつけるような雨音でパパがどんな返事をしたのかさえ、ぼくの耳に届く前に掻き消されてしまった。
サウスブロード通りに車が進入するころには、帰宅ラッシュも重なって長い列を成している。車が少し進みまたすぐに止まってしまうたび、パパは腕時計を見てはクラクションを鳴らしていた。
「ねぇ、パパ、こんなにひどい大雨でも、列車は動くのかな? ひょっとしたら止まってるかもしれないよ?」
何度も腕時計を見る仕草に、ひょっとしてパパはものすごく苛立ってるんじゃないかと心配になったぼくが後部座席から呟くけど、大雨と落雷に阻まれてやはりぼくの声はパパの耳に届く前に虚しく掻き消された。
やっとの思いで、シティーホールをぐるりと回ってノースブロード通りへ進入するころには、もはや渋滞とは呼べないほど何台もの車が完全に連なって交通麻痺を起こしかけている。
「これじゃ道を変えないと今日中にだって駅にたどり着けないぞ」
まったく動こうとしない車の列に、パパは脇道から進路を西へと変えた。相変わらず続く激しい雨音と落雷の振動、おじいちゃんが死んでしまうかもしれないって不安で、ぼくはガタガタと震えながら隠れるように細いシートベルトにしがみついていた。
「フィリー!? どうしたんだい? 寒いのか?」
ぼくの様子をルームミラー越しに見たパパが心配そうに声を上げる。
「きっと雨に濡れて体が冷えてしまったんだね! 少し待って……アイリーン、これをフィリーに着せてあげてくれるかい」
パパは自分が着ていたコートを脱ぐと、助手席のアイリーンに渡してぼくの体をコートで包むように言った。
「うん、フィリー? 大丈夫?」
アイリーンは後部座席へと移動してくると、震えるぼくの身体をパパのコートで包んで抱いてくれた。コートに染み付いたパパの匂いと、どこか懐かしい匂い――古めかしい生地に顔を埋めると心が少しずつ落ち着いていく。
「フィリー、変な匂いがするかい? ごめんね、でもそのコートはパパのお父さんのコートでね、もう一人のおじいちゃんの大切な形見なんだよ」
ルームミラー越しにパパは懐かしい目でコートを羽織ったぼくを見つめる。そんなパパを見ていたら、もしかしたら若い頃のパパもぼくと同じでダディールーだったのかもしれないと思った。
ぼくにはパパの両親の記憶がない。パパのお母さんは、パパがまだ若い頃に家を出ていったきり帰ってこなかったと聞いたし、パパのお父さんはぼくが生まれた年に病気で亡くなってしまったからだ。
きっと、今パパがなるべく家にいて家族との時間をたくさん作っているのは、そんなことも関係しているんじゃないかな。ぼくは物心ついてから身内の誰かを亡くしたことはないから、会うたびにいつもダディールーと茶化すおじいちゃんにもう会うことができなくなるなんて、とても現実に感じられないし、想像もできない。
「人が死んでしまうのは、誰にも防げないことだし、それは必ずやって来ることなんだ」
パパの絵の具の匂いがぼくは好きだ。このコートに微かに残る匂いのするおじいちゃんのことを、パパはどれくらい好きだったのかな。
「なぁ、フィリー、パパは時々思うことがあるんだよ。たしかに、大切に思っていた人が亡くなるのは、とても悲しいことだし、とても寂しいことだ」
轟く雷鳴と機関銃のような大雨のなかパパは続ける。
「でもね、パパのお父さんとの思い出は、いつまでもパパの心に生き続けているんだよ。そしてなにか悪いことをすれば、思い出のなかのお父さんは叱ってくれるし、なにか良いことをすれば褒めてもくれる。そしてなにかに躓いたときは、励ましてもくれるんだよ」
相変わらず打ち付ける雨音と、雷鳴に辺りは騒々しいけど、不思議とさっきまでの恐怖心は消え、むしろ安心感を感じ始めていた。それはパパが貸してくれたコートの匂いと、ぼくの肩を抱くアイリーンの温かさ、そしてきっとこんな状況でも変わらず優しい口調で話してくれるパパのおかげだって思う。
ぼんやりと眠りに誘われそうになりながら、ぼくはエミリーのことを思い出していた。思い出の写真を毎日眺めていたエミリー。彼女にも、亡くなったご主人が心に語りかけてきたりするのかな? 寂しいけど、寂しくないって気持ちは、そんなふうに時折話し掛けてくれる、心に生き続けるご主人がいるからこそなのかな?
バツバツと車に打ち付ける雨音。規則正しく左右に振れるワイパー。すぐそばで雷が落ちるような音がして、アイリーンがぼくの肩をきつく抱きしめるけど、コートに残るパパとパパのお父さんの匂いに心はすっかり穏やかになって、意識は遥か遠くに運ばれていくような心地好さだった。ぼくはポケットのコインを握りしめるといつの間にか眠ってしまった。
†‡†
どのくらい眠っていたのか。
きっとそんなに時間は経ってない。
ぼくが目を覚ますと、さっきまで降っていた大雨は止んで、燻る雷の音が遠くの方で聞こえた。気がつけば、車の中にはぼくひとりだけで、さっきまで隣にいたアイリーンも運転席のパパも見当たらない。
車はどこかの駐車場に停まっていた。ぼくはこの場所を知っている。――ノースフィラデルフィアステーション、つまりアムトラックの駅付近の駐車場だ。
ぼくは慌てて車の外に飛び出すと、大きな声で叫んだ。
「パパ!! パパ!? アイリーン!?」
ぼくの叫びも虚しく、誰一人としてぼくの声に応えようとしない。
二人ともひどく雨に濡れていたから着替えに構内に行ってしまったのかもしれない。眠ってしまったぼくを置き去りにした二人に腹を立てながら、ぼくは泣き出しそうになってアムトラックのステーションに駆け出していた。
構内は人影も疎らでとても静かだった。見上げた天井は遥か高く、石畳の床は姿が映り込むほど磨きあげられ光沢を放っている。
神殿かと見紛うほど、通路の中央と両端にそびえ立つ三列の真っ白な柱が彼方まで続き目が眩みそうになる。吹き抜けの窓から射す光はステンドグラスに反射して数えきれないほどのアーチを空間に宿し神秘的に滲んで見えた。どこにも照明らしきものは見当たらないのに不思議と薄暗さは感じない。とにかくここは、ぼくが知るフィラデルフィアノースステーションとはまったく掛け離れた場所のようで落ち着かなかった。
「パパー!? アイリーン!?」
水中で溺れてもがく子犬のように叫び続ける。すれ違う人たちは心配そうに見るだけで誰も声を掛けてこない。今にも泣き出しそうになりながらぼくは奥へと進んでいった。
石を積み上げて造られた凹凸のある壁面に、化粧室の案内板を見つける。アイリーンは家を出るときにパパから着替えを持ってこいと言われていたから、もしかしたら化粧室にいるかもしれない。きっと一人じゃ心細いからぼくが眠っているうちにパパを連れて着替えに行ったんだ。
案内板に沿って壁伝いに歩いていくとやがて目の前に化粧室が見えてくるけどそこにパパたちの姿はなかった。なかへ入ると真っ白なタイル張りの化粧室では中年のおじさんが用を足していて、突然踏み込んで立ち尽くすぼくを不思議そうに眺める。
洗面台には誰もいない。ジロリと向けられる視線に不愉快になりながらも、ぼくは後ろを通り過ぎて使用中の個室の前に立った。
「パパー!? いるの?」
ドアには鍵が掛かっている。内側まで聞こえるように呼ぶけどなんの返答もない。おじさんが洗面台で手を洗い、鏡越しにぼくを見る。そして、濡れた水気を飛ばすように最後にぼくを一瞥すると外へと出ていった。
「パパー!? いるなら返事をして! どこ!?」
なんだよ!? おじさんが出て行ったのを確認して再びパパを呼ぶと、しゃがみ込んでドアの下から様子を伺おうとした。その瞬間、水の流れる音がしたかと思うと突然個室の扉が開かれ、なかから出てきた人物がしゃがみ込むぼくに声を掛ける。
ぼくはその人物の顔を見て、完全に怖気づいていた。
「フィリー?」
ぼくの名前を呼ぶその相手。一瞬パパかと勘違いしたけど、その男はパパに似せても似つかないような奇妙な風貌をしている。
「フィリー? お前なにしてるんだ? こんなところで……」
その男の風貌にぼくは怯えて言葉も出ない。今すぐにでも全速力で、この場から逃げ出したかったけど、足はすくんで立つこともできなかった。
「フィリー? どうした? 起てないのか?」
男はぼくに手を差し出す。差し出された手は毛むくじゃらで、その毛色は燃えるように赤い。ぼくはガタガタと震えながら気が遠くなりそうになる。だってぼくの目の前にいる男は、まるで熊の着ぐるみを着て、その上から人間の服を着てるような風貌だったから。二本足で立ち、全身を覆う毛はやっぱり燃えるような赤だった。
「フィリー? 大丈夫か?」赤毛の熊が不思議そうに訊ねる。
「な……なんで……ぼ……ぼくの名前を!? あ、あなたは誰なの!?」
「俺にお前のような立派な名前はないよ。あるとしたら見た目どおり『赤毛の熊』だろ? でもお前には立派な名前がある。それがフィリップス。愛称はフィリーだろ?」
この赤毛の熊はなにを言ってるんだ? さっぱりわからない!
なぜ、そんな奇妙な着ぐるみを着てぼくをからかうんだ!? なぜ、ぼくの名前を知っているんだ!?
しゃがみ込んだままのぼくはやっとの思いで体を動かし、床を這うようにそいつから逃げ出した。化粧室から転がり出ると大声で助けを求める。
「誰か! 誰か来て! トイレにおかしな人がいるんだ!」
構内を歩く人たちにはっきりと聞こえるような大声で叫ぶけど、誰一人として駆け寄って来てくれる人はいない。それどころか、化粧室でぼくに訝しげな目を呉れたおじさんと同じに、ただ不思議そうに遠巻きにするだけだった。
「ねぇ! 本当なんだよ! 本当にトイレにおかしな格好をした人がいて、ぼくの名前を呼ぶんだ!!」
必死に訴えても、誰も助ける気配を見せない。
「どうしたのフィリー?」
すると今度は、後ろから女の人の声が聞こえた。
「アイリーン!?」
思わず喜んで振り返ったぼくの目の前には、さっきトイレで会った赤毛の熊と同じ、奇妙な着ぐるみを着て女性の服装をした青色の目の兎が不思議そうに立っていた。
「フィリー? こんなところでなにをしてるの?」
そう訊ねる青色の目の兎に、ぼくの頭はもう真っ白になり、その場に座り込んで泣き出してしまった。
「一体ここはなんなの!? どうしてぼくをそんな格好でからかうの!?」
ワンワンと泣くぼくの肩に、青色の目の兎が優しく手を置く。
「シーッ! フィリー。シーッ! 大丈夫よ、心配しないで」
どこか聞き覚えのある声だけど、誰の声だったか思い出せない。
「わかるわ、不安なのね。大丈夫! 私がついててあげるわ」
そういってぼくの背中を摩る青色の目の兎は、座り込んだぼくを立たせてくれた。
「あなたは誰なの? なぜぼくの名前を知ってるの? ぼくはあなたのことなんて知らないのに」
青色の目の兎は、ぼくの膝の埃を掃いながら優しく答える。
「此処に私の名前なんてないわ。みんなそうよ、でもあなたは違う、あなたには立派な名前があるでしょ? フィリー」
まただ! 赤毛の熊とまったく同じに、訳のわからないことを話す青色の目の兎。そんなぼくたちに向かって、化粧室から出てきたさっきの赤毛の熊もやってくる。
「フィリー! まだいたのか?」
「フィリーにはきっと、此処でやるべきことが残っているのよ。だから私たちは、彼の傍でそれを見守ってあげましょう?」
そう話す青色の目の兎に、赤毛の熊は大きく頷いて巨体を揺らす。
「あなたたちはなにか勘違いをしてるよ! ぼくはただ、パパとお姉ちゃんを探しに来ただけなんだから! 二人が見つかったら、ぼくたちは、アムトラックに乗ってハリスバーグにあるおじいちゃんの家に行くんだ!」
そう、ぼくは今からおじいちゃんに会いに行くんだ! そのためにこのフィラデルフィアノースステーションに来たんだから。
「そうなのか? じゃあ早くお前のパパと姉ちゃんを探さないとな!」そういって赤毛の熊はぼくの肩を叩く。
「そうね、グズグズしてたら列車が出発してしまうわ」
青色の目の兎もそう言うと、さも親切にぼくについてこようとする。
「いいよ! ぼくひとりで探すから! それにあなたたちはぼくのパパのこともお姉ちゃんのことも知らないでしょう!?」
肩に置かれた赤毛の熊の手を振り払ってその場から逃げ出そうとするけれど、構内のただ広い通路はひたすらにまっすぐで、どこにも隠れるところもない。小走りに距離を置こうとするぼくを不思議そうに眺めながらついてくる赤毛の熊と青色の目の兎……。
結局ぼくたちは一緒になってパパとアイリーンを探した。
「パパー! アイリーン!」
構内を疎らに歩く他の人たちは、そんなぼくたちをただ遠巻きに見ては流れる景色のように通り過ぎていくだけ。
そりゃあそうだよ。誰も好き好んで、こんな奇妙な格好をした二人組と一緒にいるぼくに話し掛けたいなんて思うはずもないんだから……。
構内の広い通路を、パパとアイリーンを探しながらぼくたちは奥へと進んでいく。ぼくが知るアムトラックの駅とは明らかに構造の違う建物に不安を覚えながら、隣を歩く赤毛の熊に訊く。
「ねぇ? 君たちには、ここがどこなのかわかるの?」
赤毛の熊は、困ったように青色の目の兎を見た。
「私たちは、今のあなた以上のことはなにも知らないわ。でもあなたが此処でなにかをしなくてはならないのはわかってるつもりよ」
はぐらかされたような答えにぼくはがっかりしながらも、さらに建物の奥へと歩いていく。しばらくいくと、広い通路の真ん中に金色の時計が建っていた。後方に通路の三倍の広さはありそうな大広間が広がっている。その中央に、ポツンと時代物の古い蒸気機関車が一台、蒸気を漏れ出すように吹きながら出発の時刻を待っているようだった。
「蒸気機関車だ……」
明らかにキーストーン号じゃないその列車に、ぼくは驚きながらも引き寄せられるように近づいていった。青色の塗装を施されたその蒸気機関車には、たくさんの車輌が連結されている。見るかぎり、座席車が数両に寝台車や食堂車までもが連結され、まるでこれから長距離でも走るかのような編成だ。
「ここはフィラデルフィアノースステーションじゃないよ! ここに停まるアムトラックは、こんな長距離列車じゃないもの!」
青色の目の兎に訴えると、彼女はゆっくりと頷いた。
「えぇ、そのようね。でもフィリー? あなたが此処にいるということは、きっとあなたには此処でやらなくてはならないことがあるんだと私は思うわ」
優しく答える青色の目の兎を見ながら、ぼくは彼女の言う『ここでやらなくてはならないこと』を必死に思い出そうとするけど、まるで心当たりがない。
「なぁ? あそこにカフェがあるみたいだぜ? なにかつまみながら落ち着いて考えればやるべきことが思い出せるんじゃないか?」
赤毛の熊が毛むくじゃらの指で差す先には、ひっそりと建つカフェがあった。もちろん、ぼくが知ってるアムトラックの駅にはあんな場所にカフェなんてない。
「でもぼく、お金なんて持ってないよ……」
そういってポケットを叩くと、パパのプレゼントに買ったエプロンのお釣りが入っているのに気がついた。ポケットから取り出した5ドル紙幣と小銭を見た赤毛の熊は、「あるじゃないか!」と嬉しそうに話すと、さっさと店へと入っていった。
「ちょっと待って! このお金は駄目だよ! パパに返さなきゃならないお金なんだ!」
ぼくの訴えも虚しく、赤毛の熊はとっくに店内へ入ってしまった。傍にいた青色の目の兎がぼくに言う。
「とにかくなかへ入りましょう。ひょっとしたら、あなたのパパたちも店内にいるかもしれないわ」
青色の目の兎の言葉に、ぼくは少し希望を持って店内へと入った。