今日は四月一日。

 只今の時刻は十一時四七分。
 俺、秋時間夏(あきときまなつ)は新しい制服に身を包み、河川敷を歩いていた。
 そう、今日は四月一日───つまり、高校の入学式だ。

 これから始まる新生活。
 新しい出会いに華のある青春。
 甘酸っぱくて爽やかな景色が、高校生活が、俺を待っている。

 俺はマウンテンバイクを引いていた足を止め、ため息を吐く。
 そして腕時計の時計をもう一度確認する。

 時刻は一分経って十一時四十八分。
 ……。


 遅刻だ……。
 終わった。


 「ったく……、なんでこんな日に遅刻とかするんだよ! 俺も一緒にクラスのみんなと仲良くしたりして、華のある高校生活じゃなかったのかよ!?」


 雑に頭を掻きむしって辺りを見渡す。
 今日は普通の平日で、河川敷に俺以外の人は見当たらない。
 それこそ高校の制服に身を包んだヤツはもってのほか───。


 「───って、マズっ!」


 同じ高校の制服に身を包んだ女子二人組が遠くに見えて、俺は急いで河川敷を降りる。
 向かったのは、この大きな川に架かる橋の下。
 真上に差し掛かる太陽によって、橋の影は真下に差す。
 四月なのにやけに強い日から逃げるように、橋の下の日陰に隠れる。

 またここにお世話になってしまった。
 それがよりにもよって高校の入学式とは。


 「はは……」


 自嘲気味に薄気味悪い笑みを浮かべる。


 「でさー!」

 「…!!」


 俺は一瞬にして身体が硬直し、思わず息を殺す。
 そして耳を澄ます。


 「アユはなんか高校の目標とかある?」

 「彼氏! かっこよくて優しくて年上の彼氏が欲しい!」

 「開口一番それ? 部活とか勉強とかあるでしょ?」

 「分かった! その路線で攻めていくのね! そうすれば私は青春街道まっしぐらって訳!」


 今の女子高生は『まっしぐら』とか使わないだろ……。

 そんな事はともかく、楽しそうに歩く女子二人にバレないようにしながら、その背中を見上げる。
 知的で規律高い紺色のブレザーが、オレンジの陽を浴びて白色に輝く。

 俺の制服もあの二人と全く同じだ。
 色も形も、新品特有の肩周りの固さや着慣れない感覚も。
 俺のブレザーは橋の下の日陰で、あと少しで綺麗なそのネイビーも見え辛くなる。


 「はぁ〜…。マジで、何やってるんだか…」


 ブレザーに飾られた校章を握りしめては、無力感に苛まれる。
 俺は中学の時、割と孤立していた。
 イジメとかそんな大層なもんがあった訳じゃない。
 それに、そんな中学生活が悪かったと言いたい訳じゃない。
 ただ、高校生になってちょっと変わりたいと思っただけだ。


 「…でも、始めがこれじゃあな〜! なんだよ華の高校生活って! 高校生は人生のゴールデンタイムなのは認めるけど……、そうじゃないんだよ…」


 今もこうしている内に他のヤツらは友達作ったり、部活動のことで悩んでるんだろうな。
 これから始まる新生活に希望を抱きながら。

 俺はそのスタートラインにも立ててないんだよ。
 それがただ寝坊しただけという理由で。


 「はぁ〜〜! ……」


 俺は溜め息と共に力が抜けたように脱力する。
 そのままコンクリートにドンともたれる。


 「…なんかもう、どうでも良いや」


 そうポツリと呟き、俺は溜め息を吐いて俯いた。





 少しして顔を上げて、外の景色を眺める。
 雲は青空全体の四割ほど、これは晴れを差す。
 今年は暖冬だったせいか、新シーズンを迎えてくれるはずの桜は咲いていない。
 その代わりと言ってはなんだが、日向と日陰の境界線にはオレンジの稜線が強く浮き出ている。


 「さて、明日からどうすれば良いのか…」


 俺は少し冷えて冷静になった頭で考えてみる。


 「まず俺は、入学式に寝坊したというディスアドバンテージがある。だからこれ以上高校に行くハードルを上げないためにも早く高校に行かないといけない。……うーん」


 そこまで思考が回ったところで俺は思わず黙ってしまう。
 クラスのカーストやグループは出来上がっているのか、担任の先生はどんな人なのか、俺の席はどこなのか。
 ここからの仮定はあまりにも数が多すぎる。


 「こういう時は基本的に最悪の場合を想定するのが鉄則。だとすると…。……クラスのカーストは出来上がってグループももう完成されてて、俺が入る隙間はない……」


 最悪のパターンを指折り考えてはまた一人で落ち込んでしまう。


 「…ははっ、そうだろ。別に俺だって寝坊したくてした訳じゃないし。クラスに馴染めないからボッチになった訳じゃねーし。…はぁ、もうやめだ」
 

 考えることを放棄して、トートバックからペットボトルを取り出す。
 それを一口飲んでやや乱暴に置き、次に一冊の本を取り出す。
 ブックカバーを外してシンプルな見た目になったこの小説。
 栞を挟んだところから読み進める。

 やや大人びた子供のような、少しだけ背伸びをしたような稚拙な文章。
 でも、至る所にヒロインの心情を紐解くピースが散りばめられている。
 実は俺は、この小説を読むのは今回が初めてではない。
 これまで三回、いや四回。
 それくらい読み進めてようやくそんな事が分かったくらいだ。

 ページを読み進めて、物語の中でも印象に残っている場面に辿り着く。


 「この後に主人公がヒロインに言うんだ。『君のことは何にも分からない!』って。もう何回も読んでるんだけど、俺も分からないんだよな…」


 作中のヒロインはとんでもない風来坊で、ところ構わず好き勝手に飛んでいっては問題を引き起こす。
 でもそれらは物語終盤の伏線となって、クライマックスへと繋がっていく。
 雪が積もった銀世界の街でヒロインは主人公に告げる。
 イルミネーションが輝く夜に───。


 「『君のこと、好きだよ』……ってなるかよ!? 散々連れ回しておいて急に告白とか、主人公キョトンとしてるぞ毎回」


 そう、俺はこのヒロインを理解出来ないでいた。


 「第一に! ヒロインが主人公に惚れる描写があるのか無いのか…。あったとしても、それが分かりにくすぎるんだよな」

 「うんうん」

 「ラストの伏線回収はアツいけど、それと二人の恋愛の伏線がごっちゃになってるんだよな。狙ってやってるんだったら良いけど、そうじゃなかったらちょっと分かりにくすぎる」

 「なるほど、確かにそうだね」

 「そして主人公が女々しすぎる! こういうヒロインが主人公を引っ張っていくストーリーだったら、目立たせたい部分とか、それこそ告白は男がするべきだろ」

 「なるほど」

 「最後に一番気になるのはタイトルとの親和性! これはタイトル回収するタイプじゃなくて、読者に一考させるタイプだけど、俺も分からない! どれも仮定の域を跳ばないんだよ……ってえええええええええ!」


 思わず大声をあげて尻餅をつく。
 まるで幽霊に出会ったように目を見開いて、目の前の少女を思いっきり指差す。
 俺は驚きを隠す事もなく叫ぶ。


 「い、いつの間に!?」

 「えっと、君がブツブツ文句言い始めた時かな」

 「え!? もしかして全部聞かれてた!?」

 「もちろん! 全部聞いちゃいました〜」


 その少女は人差し指をピンと立て、楽しそうに呟いた。

 ブロンドカラーのセミロングの髪を軽やかに揺らしながら、彼女はその大きな瞳を俺に向ける。
 落ち着いたブロンズの目の中心に、吸い込まれそうな黒い瞳。
 大人びた雰囲気と余裕を醸し出しながら、その表情はどこか子供のように飾らない。
 そして一番驚いたのは、彼女は俺と同じ高校の制服に身を包んでいる事だ。

 これにて俺の高校生活は終わりを告げた。
 こんなところを同じ高校の、しかも女子に見つかるなんて。
 俺はもうボッチ街道まっしぐらなんだ……。


 「面白い? それ」

 「え!?」


 俺が落ち込んでいる事を知ってか知らずか、彼女はそんな事を聞いてくる。
 俯いていた顔を上げると、彼女は俺のすぐ隣でしゃがんでいた。
 不意な接近に心臓がピクリと跳ねる。
 彼女は銀河系をなぞった大きくて黒い瞳を容赦なく、そして不思議そうに俺に向けている。


 「……っ!!」


 すぐに石鹸のいい香りがして俺はもう一度大きくのけ反る。
 …え、女子ってこんな良い匂いするの?
 それともネット社会の今だから?


 「……じゃなくて!!」

 「え、どうしたの」

 「…ごめん。なんでもない。……それで、この小説だっけ」

 「そう! それ面白い? 前から気になってて買おうかどうか悩んでたんだよね〜」

 「あぁ、そういうことか」

 なるほど、彼女はこの本が気になってたから俺に声を掛けたのか。
 気付かない内に隣に居たから忍者かスパイの類かと思ったが、違ったようだ。
 彼女は顎に手を添えて訝しげな顔をした後、クルッと切り替えて楽しそうな表情をする。


 「というか君、新入生だよね!? 何組なの?」

 「え、…あーっと、その……。き、君の方こそ何組なのさ」

 「君が言ってくれたら私も教えてあげる」

 「っ…!! くっそ…」


 彼女は頑なに自分から組を話そうとしない。
 俺は入学式を出席していないから自分の組など知っているはずがない。
 彼女は口角を上げて薄く笑っている。
 そのあどけなさが、彼女と俺が同い年である事を思い知らせる。
 俺は苦し紛れの言い訳を呟く。


 「俺、新入生じゃなくて二年生なんだよ。だから───」

 「今日は一年生だけ登校なんだよねー。二年生も三年生もお休みだよ。実際に二年と三年の教室に行ったら誰も居なかったから本当だよ」

 「……」


 咄嗟についた嘘が一瞬で論破されてしまった。
 どうやらお見通しという事か。


 「ねぇ、何組なのか教えたくない理由があるんでしょ? 私知ってるよ」

 「え!? それって……まさか───」


 「何者かに狙われてるんでしょ? 命」


 「……は?」


 彼女は自信満々な様子でそう言った。
 『決まった!』と言わんばかりのドヤ顔を前に、俺は絶句する。


 「え、全然違うけど。命なんて狙われてないけど」

 「うそ!? とっても良いアイデアだと思ったんだけど…。うーん……。…あ! 替え玉受験で君が制服だけ貰ったんだ!」

 「それは意味が分からない」

 「えぇ〜!? 私の渾身のアイデアが二度も破られるとは……。やっぱり私のアイデアって…、凡!?」


 はぁと残念そうに溜め息を吐く。
 いやいや俺が溜め息を吐きたい状況なんだが。
 俺は座り直して彼女に話す。


 「そもそもの話、命を狙われてるのは有り得ない。ここ日本。そして、替え玉受験も有り得ない。ここ日本な」


 そして替え玉受験で制服だけ貰うというのはあまりに意味が分からないため、ここは突っ込まないでおく。
 彼女は俺の言葉に合掌して納得する。


 「あぁ確かに! 日本だったら不正はあんまり聞かないね。…でも」

 「でも?」

 「逆にそんな事が本当にあったとしたら? だとしたらそれって……、とっても面白そうじゃない?」

 「……え?」

 「国家機密で裏口入学……、難病で学校に行けない姉の代わりに、女装して女子校に忍んで通う弟くん……。果たして彼は、女子校の少女たちから生き延びることはできるのか!?」

 「…え、何。国家機密?」

 「うん。国家機密」

 「いや…、そうだけどそうじゃなくて!」


 彼女のペースに引き摺られそうになる前に突っ込む。
 なんだよ国家機密って、ちょっと面白そうなのが尚ムカつく。


 「俺は決して命を脅かされてないし、ちゃんと自分の力で入学した。国家機密にも関わってないし。そもそも俺はそんな主人公面じゃないだろ? …だって、寝坊したんだし……」

 「寝坊?」


 彼女は素っ頓狂な声でそう呟く。
 対する俺は面倒くさくなって溜め息を吐く。


 「……はぁ。そうだよ。俺は寝坊したんだって」


 やや重たくなった目を持ち上げて、俺は仕方なく彼女に経緯を説明することにした。





 「そ、そんな事が君に起こってたなんて……」


 俺の説明を聞いて、口に手を当ててそう溢す彼女。
 楽しそうな声は俺をフォローする気はないらしい。
 俺は事の顛末を全て彼女に話した。
 俺が寝坊した事、入学式を欠席した事、だから自分のクラスが何組なのか知らないという事も。
 彼女は人差し指をピーンと立てて納得した様子だった。


 「寝坊か〜。その可能性は考えてなかったなー」


 腕組みをして真剣な様子で呟く。
 俺は白けた顔でポカンとその様を眺める。
 確かに今の俺は制服を着ているし、寝坊の線は考えにくいのかもしれない。
 彼女には俺が入学初日から項垂れてるキケンな生徒に映っていたのだろう。


 「だったら君と俺は違うクラスなんだな」

 「え? なんで分かるの?」

 「だって同じクラスだったら気付くだろ。入学式に空席は意味深だし、それこそ記憶に残るだろ」

 「あぁ! 確かに! 君の言う通りだよ!」

 「そんなん誰だって分かるだろ……」

 「人の気持ちって、意外と分からないものなんだよ」

 その言葉に思わず彼女の方を見上げる。
 彼女はしゃがんだまま頬杖を突いて、河川敷の向こう岸を眺めている。
 それは先ほど俺に見せた子供のような表情とは対照的な、飄々な香りに包まれた大人びていて澄んだ目だった。
 俺は柄にもなく悪態をつきたくなった。


 「人の気持ちが分からないとか、当たり前だろ…」

 「そう言う君は…、なんか退屈そうだね」

 「君がそれを言うか……」

 「え? 当たってる? もしかして君は本当に退屈だったって事?」

 「あー…、当たってるよ。当たってるけど!」


 俺はもう一度声を荒げる。
 彼女のペースにまた釣られそうになるのを持ち堪える。


 「そんなに俺が面白いか?」

 「……え?」


 彼女は困惑した様子で俺を見つめる。
 俺は思わず目を見開く。
 たちまち俺の頭に真っ黒な雲が立ち込めるのを感じる。

 ……あーあ。
 やっぱり俺はこうなる運命だったんだな。
 悪態を吐かないと誰ともやっていけない奴なんだよ、俺って。
 去年のアレだって、やっぱり俺のせいなんだよ。
 だから高校も遠くを選んだし、変わりたいと思ったんだ。


 「俺は入学式に寝坊した! それで項垂れてる今の俺が滑稽って言いたいんだろ…」


 本当に何言ってんだろう俺。
 スタートの一歩を挫いただけなのに初対面の女子に鬱憤晴らしとか、明日どんな顔をして学校に行けば良いんだろう。


 「面白いって言いたいんだろ!?」

 「……」


 俺はもう止まることも出来ず、胸の内に溜まった劣等感を思い切りぶつける。
 対する彼女は顎に手を添えて黙ったままでいる。
 でもその眼差しは真剣な表情をしていて、俺は思わず気圧されてしまう。
 空っぽになった胸に罪悪感が湧き上がって、俺は彼女に謝る。

 「ご、ごめ───」



 「面白いよ」



 「……は?」

 予想外すぎる言葉に俺の身体がピタリと止まる。
 ん…?
 えっと、聞き間違いじゃないよな…?


 「え…、は? これのどこに面白さがあるんだよ!? 俺は気分が悪いんだよ」

 「え、それが面白いんだよ」

 「……は?」


 俺の頭は直ぐに理解の範疇を超えた。
 多少ムカついていたせいもあって、オーバーヒート状態になってしまった。
 なんなんだコイツ、忍者やスパイじゃなくてサイコパスの類なのか。

 彼女は、そんな俺とは正反対な顔をする。
 興奮の類なのか、快楽を得てそれに浸るバケモノにも似たような恍惚な表情。


 「私からしたら、今の君はすっごく輝いて見えるの!」


 彼女は立ち上がって一歩ずつ俺に近づいて来る。
 ワクワクという名の、得体の知れない化物じみた黄色を宿しながら。


 「君は他の人と違って遅刻して、特別の称号を得てる。そんな存在をなんて言うか、知ってる?」


 彼女は目の前で立ち止まり、スッと俺のおでこに手を伸ばす。
 その手で俺の前髪を優しく持ち上げる。
 そして活力に満ちた大きな瞳で俺を見つめる。
 橋の下のここは日陰なのに、彼女のハイライトは光を吸い込んで淡い水色に輝いている。
 そしてにっと口角を上げてポツリと呟いた。



 「主人公だよ」



 「……そんな事! ……ある訳、無いだろ……」

 俺は一歩退いて彼女から離れる。
 取り敢えず初対面なんだよ、人のおでこは触るもんじゃないだろ。
 変に動揺した心臓を整えるために座り込んで一呼吸する。


 「とにかく、君の言う通りじゃない。…俺は主人公じゃない。今日寝坊して、もう出鼻を挫かれたんだよ」


 今の俺はみんなと同じスタートじゃない。
 これから始まる高校生活は俺だけ一日遅れなんだ。
 だけどそれは特別とは呼ばない。
 腫れ物は特別扱いされないのと同じなんだよ。


 「…あ、そうだ! それなら良い案があるよ」

 「良い案?」

 「うん。君には私の新作のモデルになってもらおう!」


 彼女はまた俺の隣でしゃがみ、人差し指をピンと伸ばして誇らしげにそう言う。
 もちろん俺はその言葉に思考が停止した。


 「ん? え? どういうことだ?」

 「ん? あぁそっか」


 彼女は俺の左手を指す。
 俺はすぐに手に持っていた本を指された事に気付く。

 「その小説、面白い?」

 その言葉に俺は不思議に思って彼女に問う。

 「分からない。で、この本がどうかしたのか?」



 「実はね、それ書いたの私なんだよね」



 「ふーん……。…え?」

 俺の視線は思わず手中の本と彼女を行き来する。
 さっきの彼女の言葉を理解するのに数秒かかった。
 そして、理解できた俺はすぐに声を上げた。


 「え!? 君が、これの作者!?」

 「そうなんだよね。実は私が書いたんだよね。私が作者」

 「ま…、マジ?」

 「マジ。私が作者」

 彼女は鼻を鳴らして誇らしげに呟く。
 俺の胸には確かな高揚が…、生まれるよりも前に不審感が積もる。
 彼女はそんな風に怪しむ俺を見て、もう一度呟く。

 「私が作者」

 そしてさらに顔をどんどん近づけてくる。
 近い近いとにかく圧がすごい。


 「……いや、そう言ってるけど俺を弄んでるだけだろ」

 「私が作者」

 「……いやだから───」

 「私が作者」

 「…あぁもう分かった!! 分かったから!!」

 耐えきれなくなって俺は彼女から離れる。

 「じゃあタイトルと作者は!?」

 「……?」

 「作者だったらタイトルと作者名くらい言えて当然だろ!?」

 「『私の一部に君の名前を』。『花野(かの)みき』」

 「……っ!!」


 彼女は俺の問いに即答した。
 さらに自慢げに語る。


 「去年の秋に処女作『私の一部に君の名前を』を発表。本屋大賞銀賞受賞! どこからともなく現れた異彩の問題児! そうだよ! それは私のこと!」

 「……分かった。本当に『花野みき』なんだな」

 「やっと分かってくれたね」


 そう言うと彼女は嬉しそうに、にっと口角を上げた。
 そして立ち上がってすぐに俺にピシッと指差す。


 「これからよろしくね! 特別な主人公クン!」

 「は? 俺はやるって言ってな───」

 「明日学校で会おうね」

 手をひらひらと振って、止まる事なく日陰から出ていった。
 そしてすぐにその姿が見えなくなる。
 自分勝手な彼女に俺は溜め息を吐くしかなかった。

 急に静かになって、不意にそよ風が吹き抜けた。
 今年は暖冬で、ファンファーレの教えである桜は舞い散っていない。
 橋の下から見上げる青空はやっぱり眩しい。
 彼女は、どこをどう見ても変だ。
 でもそれは、俺の歩幅を狭めるものじゃない。

 「…取り敢えず、明日は普通に学校に行くか」

 そう独り言を呟いて、俺は静かにこの場を後にした。


     ♯
 

 俺がこれから通う一年D組の教室、席は窓際一番左の、前から二番目だった。
 まあ案の定と言うか、名簿順なら俺の名前だとこれくらいだよな。

 新学期二日目、俺からしたら今日が入学式。
 まずは職員室で自分の組の確認、教卓を漁って座席確認、そして着席。
 D組の生徒同士が談笑しているのを見るに、どうやら同じ中学で元々仲が良かったヤツとか居るっぽいな。

 そしてさっきからチラチラと俺への視線が気になる。
 やっぱり、スタート出遅れの俺は他人には黄色く見えるようだ。
 華の高校生活とか、本当になんだよクソ喰らえ。
 朝は引き出しに入っていた書類を確認する時間になった。






 午前の授業が終わって昼休み。
 教科書は取り敢えずあるだけ持ってきたから問題ない。
 それよりも問題なのは、D組のカーストがもう出来上がっていた事だった。

 僅か二日目にしてカーストのトップ、いわゆる陽キャの男女グループがもう結成されている。
 七人くらいか、教室内に響くくらいの大きな声がここまで聞こえる。
 俺は昨日学校を休んだからクラスのカーストは必然的に一番下。
 正直そういうしきたりや二元論はどうでも良いのだが、華の高校生活を満喫するためには一考の余地は十分にある。
 まずは敵を知ることがこれからの俺には必要だ。

 俺は前の席の青星(あおほし)アキラに声を掛ける。


 「なぁ青星君」

 「ん? なんだい。腑抜けた面の秋時間夏クン」


 青星は振り返って眼鏡をクイっと持ち上げる。
 青い髪に感情に読めない高圧的な細い目で俺を見下す。

 俺から見た青星の第一印象はバカ真面目なメガネだ。
 落ち着いた口調で知的な雰囲気を纏っているが、さっき俺のこと腑抜け面って言ったか?
 それはお前の方だろバカ面が。

 まあとにかく、俺の安泰な高校生活のために青星とは仲良くしよう。
 休み時間に少し話したが、青星はなかなか面白いヤツだ。


 「それを言うなら君の方がだろ」

 「それはどういうことだ? オレは腑抜けていないぞ。で、話とはなんだ?」


 無表情もとい仏頂面でそう聞いてくる青星。
 そういう取り繕えている風の真顔で鈍感なところがバカっぽいんだよな…。
 俺は陽キャ集団を指差して呟く。


 「アイツらって昨日もあんな感じだったのか?」

 「ああ。どうやら同じ中学出身らしいな。どおりでずっとワイワイ騒いでいる訳だ」

 「へぇ。やっぱりそういうヤツは多いんだな、この高校」


 なるほど、それなら特に気にする必要はないかもしれないな。
 いわゆる身内ノリというのがそのまま高校に来ただけみたいだ。


 「そういう青星君には、同じ中学のヤツが居ないのか?」

 「それなら全然居るぞ」

 「おぉ…! 誰だ? 教えてくれよ!」


 俺は青星が垂らした一本の蜘蛛の糸をしっかりと掴む。
 もし誰かと青星経由で仲良くなる事が出来れば、昨日の躓きをケアできる。
 クラスに顔見知りが増えるだけで俺もここに居場所ができる。
 ましてや友達といえる仲になれるのなら、とても良いスタートだ。

 青星は顎に手をやって淡々とそう答える。

 「知らない」

 「……は? …知らないって、そんな訳ないだろ」

 「いや、知らないな。俺が知ってるのは、同じ中学からこの高校に入学した人間が居るという事だけだ」

 「ん? じゃあなんでそれだけ知ってるんだよ」

 「オレの中学は学校新聞に進路状況が載るんだ。だからこの高校にはオレ含めて六十八人の同胞が居る」

 「そ、その中で仲がいいヤツは…?」

 「知らないな」

 「それもう同胞じゃねえだろ」

 本当になんなんだよ昨日のあの少女然り、青星然り。
 この高校は変なヤツしか居ないのか。


 「秋時間夏クン」

 「えっと、何だ?」

 青星はフルネーム呼びするから、呼ばれるとなんか緊張してしまう。
 青星は起伏の少ない声で話す。

 「そういう君は居ないのか? 同胞が」

 「同胞というか、同じ中学のヤツだろ。…居ないよ。ここは家からちょっと遠いし」

 俺は悪態をつくように気怠げにそう呟く。
 青星は表情を変える事なく淡々と話す。

 「そうなのか。同じ時代を過ごした友とは縁を切ったんだな。君は」

 「……まあ、そういう事だな」

 窓の外に見える一日遅れて咲いた満開の桜を眺めて俺はそう呟く。
 青星は表情を変えること無く、グッドポーズを作る。

 「じゃあ安心しろ。ここにはオレが居る」

 「…! 青星……」

 その言葉に俺は思わず嬉しくなる。

 「ありがとう。青星君」

 「気にしないでいいぞ。秋時間夏クン。こういうのはお互い様と言うらしい」

 「ああ知ってる。それで、なんだが…」

 俺はバッグから弁当箱を取り出す。
 このまま一緒に昼飯を食って、俺は安泰な高校生活を手に入れる!


 「一緒に昼飯食わないか?」

 「断る」

 「えぇ!?」

 青星は俺の誘いをキッパリと断った。
 俺は断られるという想定外の事態に思わず驚いてしまう。
 今の流れは一緒に昼飯ルートしかなかっただろ。
 も、もしかして早とちりしてしまったのか…?


 「ど、どうして…」

 「すまないが、どうしてもだ」

 「…そ、そうか……」

 青星にそう言われた以上、俺は食い下がることが出来ない。
 はぁ、青星とは上手くやれると思ったのに。
 昨日の寝坊といい、また出鼻を挫かれてしまった。


 「それは…、ごめん。俺が悪かったよ」

 「君が謝る必要はない」

 「……あぁ」

 本当だよ。
 謝るのはお前の方だよ。
 俺が恥をかいたみたいになってしまってるじゃないか。

 その時、教室のドアが勢いよく開かれる。
 そこから小柄な赤髪の少女が現れた。
 艶やかなロングヘアは腰あたりまで伸びていて、胸あたりで腕組みをしている。


 「青星居るかしら!」

 「カスミ。ちょっと待ってくれ」

 青星は赤髪の少女に一言言って立ち上がる。
 そして振り返って俺に呟く。


 「悪い。こういう事だ」

 「あ、ああ…」

 青星はカスミと言う赤髪の少女の元へ歩いていった。
 そして二人はすぐに姿を消した。

 「…そういう事かよ。それならそう言ってくれよ…」

 俺は昨日と同じように項垂れる。
 聞いてないぞそんな事…というか、青星はリア充みたいなキャラじゃないだろ。

 「はーあ。高校二日目で彼女が居るなんて、もはやトリックの類だろ…」

 これで一緒に昼飯ルートは消滅してしまった。

 うむ、このままでは俺はボッチルートを辿ることになってしまう。
 出来ることなら、それはなるべく避けたい。
 あんな時間の過ごし方の繰り返しはやっぱり気が滅入ってしまう。
 でもどうしよう。

 周りをチラッと見ると、それぞれ少人数のグループで固まっている。
 そこに割って入るのはハードルが高いし、断られて拒否されるのは怖い。
 こうして悩んでいる間にもボッチルートの未来が迫って来ている。

 俺がそんな風に考えていると、コツコツと足音が近づいていることに気付く。
 それは一つでは無く複数で、俺は音の鳴る方に振り向く。

 そこには、先ほど俺と青星が話題にしていた陽キャの面々が居た。
 俺の正面のメッシュ頭の男子は薄気味笑いを隠すことなく俺に向ける。
 後ろに固まっている女子も俺を嗤うような視線を浴びせている。
 なるほど、コイツらはタチが悪いタイプなんだな。

 正面の男子が俺を見下して話しかける。


 「なぁ秋時。昨日の入学式休んだって? 熱でも出したのか? 今日ずっとボッチで辛かったよな?」

 「……」

 「おいおい、僕たち初対面だろ? そういうのはやめようぜ、光川(みつかわ)

 「荒田(あらた)は優し過ぎるんだよ。D組は仲良いんだからこれくらい普通だって」

 メッシュ頭の光川が隣の荒田にそう呟く。
 光川は振り返って後ろの女子の一人、活発な印象のショートヘアの女子に話しかける。


 「だよな? (みやこ)?」

 「光川の言う通り。このクラスが仲良しなのは、私たちのおかげだから」

 「だよな! でも、秋時。入学式休んで異端児アピールとか、痛いんだよな〜。 そんなん今の時代誰も面白がらねぇって!」

 「本当それ! それで高校デビューとか、私絶対無理なんだけど!」

 「あはは! それな!」

 俺の目の前で俺を嘲笑する陽キャ達。
 俺は白けた目をそいつらに向ける。
 光川は俺の視線に気付くと、眉をひそめて細目で俺を睨み返す。


 「何だよ秋時。俺たちの仲だろ? これくらいのイジりはなんて事ないよな!?」

 「ああ。正直なんて事ない。そんなゴミみたいな承認欲求に興味はないんだよ」

 俺は頬杖を突いて、面倒くさい様子を隠す事なく溜め息を吐く。


 「で、何か話でもあるのか? ないならさっさと昼飯食いたいんだけど」

 「コイツ…、俺たちが折角心配してやってるのに偉そうに!」

 「偉そうにしてるのはお前だろ。なんだよ、俺の悪口言いに来たのかよ。それなら俺の居ない所で言ってくれよ。わざわざ言ってくるのはかえって迷惑だぞ」

 「秋時君、言い過ぎだよ。幾ら僕たちが鬱陶しいからって、八つ当たりのような真似は好ましくないよ」

 「他人の落ち度に漬け込むようなヤツには言われたくない」


 「ち、ちょっと光川! 今日はもう良いんじゃない?」

 「いや…、ムリだな。…ムカつくんだよ。『自分は特別です』みたいな面しやがって。特別なのは俺たちの方だって事教えてやらないと、な!」

 光川は勢い良く俺の胸ぐらを掴む。
 俺は成す術なく、光川に力の限り引き寄せられる。
 光川は目を見開いて、猟奇的で攻撃的な姿勢を隠そうとしない。
 俺はただボーッと光川を眺める。

 これからコイツに殴られたりするんだろうか。
 ふと俺の脳裏に浮かんだのは中学の時の記憶だった。
 結局俺は、腫れ物である事に変わりないんだ。
 あーあ、面倒くさいな。

 「今からお前を不登校にする事なんざ大層もないんだぞ? 俺たちのお陰で仲良くやれてるの、忘れてないだろうな」

 もう良いからさっさと殴ってくれないかな。
 そうしてくれたら俺は手っ取り早く被害者面出来るというのに。
 それかもういっそ、俺が先に殴って終わらせる方が──。
 その時、教室のドアの方から女子の声が聞こえる。


 「秋時君って居ますかー?」

 楽しそうな音色を隠しきれない声が俺の名前を呼んでいる。
 この…、大人びたような余裕と子供のような無邪気さは、とても思い当たりがある。

 かくして俺は光川の身体からヒョイっと顔を覗かせる。
 視線の先には案の定、昨日出会ったあの猟奇的な愉悦犯…じゃなくて、どこからともなく現れた異彩の問題児作家『花野みき』が居た。
 妙に着慣れた紺色のブレザーに、大人びたセミロングのブロンドヘア。
 彼女は俺に気付くと、銀河みたいに大きな瞳を細めて、にっと笑みを作り、俺に手を振る。


 「『花野みき』!? なんでここに!?」

 「こんにちは、秋時君。…もとい、私の主人公!」

 彼女は俺たちの側へ歩み寄ると、俺にビシッと人差し指を指す。
 そこでやっと今の俺たちの状況を認識したようだ。

 「…ってあれ? 何この面白い状況」

 「気付くのが遅すぎる」

 光川は俺を掴んでいた手をすぐに離して、彼女の方を振り向く。
 対する俺は下された勢いのまま椅子にぶつかるように強く座る。
 普通に痛い。

 「…っ!! いった……」

 「ど、どうしたんだ? 俺に何か用?」

 光川は後頭部を掻きながら、浮き足だった様子で彼女に聞く。
 俺はその様を不思議に思って、荒田に話しかける。

 「どうしたんだ? コイツ」

 「そりゃあ相手が『花野みき』だからだろうね」

 「えっ、やっぱり『花野みき』は有名なのか」

 「うん。なんと言っても一年美人三人衆の一人だから。そんな高嶺の花を目の前にしたら緊張するのも無理ないよ」

 「あ…、あぁ。なるほど…」


 俺は荒田の言葉にぎこちなく頷く。
 どうやら彼女が有名な理由は、俺が思っていた方じゃなかったらしい。
 彼女が作家である事を知っている人は、もしかして意外と少ないのかもしれない。
 『花野みき』は俺を一瞥した後、光川に話しかける。

 「そこの彼に用があるんだけど、もしかして取り込み中だった?」

 「い、いや! 仲良く話してただけだ!」

 「秋時君…、彼女と知り合い?」

 「いや…。まあちょっとな…」

 「秋時君!」

 名前を呼ばれて俺は視線を荒田から『花野みき』へ向ける。

 「何だよ……って!! 近い近い!」

 振り向くと彼女の顔が鼻先数センチ程の距離にあって、俺はすぐに退く。
 昨日の件やら作家やら、取り敢えず彼女がおかしいのは置いといても、距離感までおかしいのは聞いていない。
 俺は動揺を抑えるために一度咳払いをして、改めて問う。

 「…で、用って何だ?」

 俺の言葉に『花野みき』は腰に手を当てて、人差し指をピンと伸ばす。
 そしてにっと口角を上げて、楽しげに呟いた。

 「お昼一緒に食べない?」





 屋上のベンチで昼食を食べながら、俺は『花野みき』から取材という名の質問攻めを受けていた。
 それは朝何時に起きたのかやら朝食は何だったのか、何時に家を出て何時に高校に着いたのかなど、今日の俺の行動を事細かに聞かれた。
 そして彼女は真剣な様子でペンを走らせる。

 「その手帳は資料か何かか?」

 「…ちょっと待って。今書いてる途中なの」

 「あ、あぁ…。ごめん」


 少し経って、彼女のペンの動きがやがて止まる。
 メモ帳を畳んでペンを置き、やっと弁当に手を出す。

 「資料だよ」

 「……え?」

 「この手帳のこと。…さっきの質問の答えだよ? 次の新作に向けて、主人公である君の事を分析するんだよ」

 彼女はもう一度手帳を開き、俺に見せる。
 そこには先ほど俺が話したことが抜け目なくびっしりと書かれている。


 「…あのー、俺のプライベートに対する配慮はあるのか?」

 「あ、えっーと……。…あります! あるから安心して!」

 「…具体的には?」

 「今から作ります!」

 そう言って彼女はメモ帳から一枚破って取り出す。
 そして何やらいろいろ書き込んでいき、ずいっと俺の目の前に突き出す。


 「契約書……?」

 「そう。私と契約しよう! 秋時君! この契約書にサインする事で、君は私の取材を正式に受けるという事になります!」

 「なるほど。確かにこのままだと俺だけ不利益を被る事になる。というか、もう受けている」

 「うっ……。ま、まあともかく、契約内容は三つ!」

 彼女は人差し指をピンと伸ばして続ける。

 「一つ。取材で受け取った君の情報は、必ず口外しないこと」

 「うむ」

 「二つ。取材は私が良いと言うまで続けること。もう取材をする必要がなくなったら、そこでこの契約は終了」

 「うむ」

 「そして最後は…、何があっても絶対に取材を続けること」

 「質問がある」

 「何? なんでも言って」

 俺は視線を契約書から『花野みき』へ向ける。

 「君が俺の情報を漏らした場合のペナルティはないのか?」

 「…私がそんなに口軽そう見えるって事?」

 「違う。こういうのはお互いに保障されてこそ成り立つものだ。今のままだと君は俺を殺せるが、俺は君を殺せない」

 要するに、これからの取材で彼女は俺の弱みを握っていく訳だが、対する俺は彼女の弱みを握る機会がない。
 それはあまりに不公平だ。
 この契約を申し込んだ彼女が俺を陥れる可能性は低い方だと思うが、そういう取り決めは契約で決めた方が良い。

 「…で、何にする? そのペナルティとやらは俺の情報と同じくらいの重みにしてくれ」

 「分かった」


 彼女は頷くと、急にブレザーを脱ぎ始める。
 そしてネクタイを外してカッターシャツのボタンを上から外し始める。
 俺が視線を契約書から彼女の方へ向けた頃には、もう第二ボタンが外れていてそこから白い肌と綺麗な鎖骨が覗く。

 「な、なんで脱いでるんだよ!!」

 俺は慌てて視線を逸らす。
 あーまずい。
 青い空でも見て心臓と気分を落ち着けないと。
 あー落ち着かない。
 猟奇的愉悦犯は露出も趣味だったのか。
 割と知りたくない発見だったな。
 動揺が収まる前に隣から『花野みき』の声が聞こえる。


 「秋時君」

 「…何だよ」

 「こっちを見て」

 「…見たくない」

 「…お願い。お願いだから、見て欲しいの」

 彼女の真剣な声が背後から聞こえる。
 冷や汗だろうか、優しく吹く風が涼しくて気持ち良い。
 でもそれ以上に身体が固まってしまっている。


 「……見れない」

 「……やっぱり、協力できない? 私の勝手なわがままには、付き合えない?」

 「……」

 「……」

 「……はぁ」

 訪れた沈黙を壊すように、俺は悪態を隠さず溜め息を吐く。

 今日の朝、俺は痛感した。
 俺が変わるためにはきっと、彼女の力が大いに役立つと。
 だから俺の中で『花野みき』の契約を破棄するという考えはもっとう無かった。
 でも何故か、とても変で不器用で猟奇的な彼女を見るとイライラした。

 だから俺はそのイライラを容赦なく彼女にぶつけようと思う。
 それが俺が変わるための第一歩と信じて。
 俺は気怠げな声で鬱憤を晴らすべく彼女に話す。


 「違うんだよ。やり方が」

 「……え?」

 「自分の身体を曝け出したら俺にサインしてもらえるとか、そんな安易な考えを持ってるんじゃないのか? …違うだろ。曝け出すのは身体じゃなくて心の方だ……っておいいいいいいいいいいいい!!」


 彼女の方を振り向くと、彼女は上半身裸にカッターシャツを羽織っていた。
 胸を腕で力一杯隠していて、押さえているからこそ伝わる女子特有の柔らかさが隙間から溢れ落ちそうになっている。
 カッターシャツの下から白い肌が僅かに透けていて、白と肌のコントラストが妙に堪える。
 健康的で撫でやかなくびれとおへそが露わになっていて、俺はとても視線に困る。

 その後に目が合った彼女の顔は数秒と経たない内に耳まで赤くなっていく。
 仕舞いには涙ぐんで、少女のその大きな瞳に潤いをもたらす。

 「良いから服を着てくれ! 頼む!」

 俺はすぐに目を瞑って、彼女から視線を思い切り外す。
 でもまたすぐに彼女の手が俺の頬を包んで、俺は無理矢理彼女の方を向く。
 生温くて柔らかな手の温度に、俺は心臓の音が鳴り止まなくなった。
 彼女はその銀河系を宿した黒くて鮮やかな目を細めて、声を振るわせながら弱々しく呟いた。


 「……けいやく…………オー…、ケー……?」


 「……」

 彼女の震える手が熱くなった俺の温度も奪っていくようで、俺は暫く目が離せなかった。
 時間が止まったように俺は動けなくなって、意識が全て彼女に集中する。

 彼女はずっと、狂っているほどに変な人だ。
 確か、どこからともなく現れた異彩の問題児と言ったか。
 彼女の作品に対する熱意は、ここまで彼女自身を動かす。
 その片鱗を受け取った俺は自ずと感じざるを得なかった。
 彼女の原動力は、俺が計り知れないものなのではないか、と。

 すぐに俺は彼女に興味が湧いた。
 多分俺は、目の前の少女、『花野みき』とはおそらく解り合えない。
 それが今の俺にとっての大きなターニングポイントとなる。
 普段は全く機能しない直感が珍しく、黄色い声を上げているのに気が付いた。
 だから俺は取り敢えず、頬に添えられた彼女の手を掴んだ。

 そしてそのままゆっくりと腕を下ろす。
 俺は立ち上がって、彼女にビシッと指を突き出す。
 そして動揺と羞恥で茹で上がって混乱した頭で叫ぶ。


 「取り敢えず服を着ろ!!」

 「え…、は、はいっ!」

 彼女は我に帰ったようで、今の自分の姿に顔を真っ赤にして恥ずかしがる。
 側に置かれた下着を手に取って、細くて華奢な腕で自分の胸を押さえつけて隠す。
 そして赤面冷えぬまま恥ずかしげに俺を見上げる。


 「秋時君…」

 「な、なんだ……?」

 「見ないで……!」

 「えっ」

 その言葉で俺の視線は反射的に彼女の身体に。
 だがすぐに茹で上がってしまってすぐに身体を翻す。

 「あ…、ごめん……」

 「…うん」

 「……」


 というか…、なんで俺が謝ってるんだよ。
 絶対急に脱いだコイツに非があるはずだろ。

 すぐ後ろで衣擦れの音がして落ち着かない俺に、良いよという声が聞こえた。
 振り返ると、ちゃんと形式高く制服を身につけた姿の彼女に戻っていた。
 だけどまだ羞恥心が残っているようで、顔は赤いし身体は小刻みにぷるぷると震えている。

 俺は特に表情を変える事なくベンチに座り込む。

 「ペン貸りるぞ」

 「え? あぁ、うん」

 彼女からペンを受け取り、俺は契約書にサインと契約内容を付け足す。
 そしてペンを返して彼女に向き直る。

 「契約には乗るが一つだけ付け加えて貰うぞ。もし君が俺の情報を漏らした際も、この契約は破棄となる。これで良いな?」

 「…ダメだね」

 「……は?」

 「契約書貸してよ」

 そう言って『花野みき』は再び契約書にペンを走らせる。
 すぐに新しい契約内容として付け足された場所を確認する。


 「もし私が契約違反を行った場合。その時は──」

 彼女、いや『花野みき』は口角をにっと上げて、黄色い笑みを浮かべる。


 「私になんでも好きなことして良いよ」


 「……罰ゲームとしてっていう事だな」

 「まあそうだけど、これが私の想いだよ。もしその時が来たら、君にはその罰を受け取って欲しい」

 その言葉に俺は思わず目を見開く。
 そして面倒くさそうに溜め息混じりで呟く。

 「……はぁ、分かったよ。そういう事なら、俺から何も言う事はない。これで、契約は成立だ」

 そう言って契約書を制服のポケットに突っ込む。

 「これからもよろしくね。主人公もとい、秋時君」

 「『花野みき』はなんて呼べば良いんだ? …ん?」

 そこで不意に彼女のメモ帳に視線が向く。
 メモ帳の表紙には彼女の名前が載っていた。

 「花乃三紀(かのみき)……。これ…、本名か?」

 「おぉ正解! よく気付いたね。…そうだよ、私の名前は作家名と同音なんだよね。だから好きに呼んでよ」

 「なら、花乃で」

 「う、うん…」

 俺の言葉に花乃は少し照れ臭そうに頷く。
 俺はまた無性にイラッとして、花乃に呟いた。


 「これからはもう脱ぐな。何が合っても絶対に」

 「わ…、私も、脱ぎたくて脱いだ訳じゃないんだけど!」


     ♯


 入学一日目の日程が終わり、俺は河川敷の道を一人で歩いて帰る。
 一七時前の空はまだ青くて、たまに吹く風で舞う桜が春の訪れを感じさせくれる。
 マウンテンバイクを押しながら歩いていると、スマホが振動する。
 確認すると、花乃からのラインだった。

 彼女とは新作のモデルに抜擢した俺の取材をするということで、連絡先を交換した。
 腫れ物の俺が一年美人三人衆の一人、花乃三紀の連絡先を知っているというのはなんだかくすぐったい。
 いやニヤついてないから邪推はするもんじゃないぞ。

 気を取り直して、取り敢えずメッセージを確認する。


 『秋時君、明日は何する?』

 「……本当にコイツ、銀賞作家なのか? これだけだと語弊が生まれまくるぞ」

 俺は思わずイラッとして愚痴をこぼす。
 かくいう俺と花乃の関係は作家とそのモデルであり、そんな心配をする必要は当たり前にない。
 俺は今日の昼休みでの会話を思い出す。
 途端に脱ぎだす花乃……ではなくて、次の新作についての作戦会議だ。

 聞いてみると現段階のプロットはそんなに決まっていないらしかった。
 花乃が言うには、『高校生になったから青春っぽいものが書きたい』という事だと。
 だからモデルの俺にはそれ相応のストーリーを期待されているんだろう。

 「で、何をするのかは俺の自由って訳か」

 そう、俺は花乃から何かしらの指定を受けているわけでもないのだ。
 だから俺が何をしようと基本的には問題ないはず。

 でも青春っぽいものを書くというのなら、俺に求められるのもそれ相応だというのはその通りだ。
 だからまあ、恋とか、するんだろうか。

 「……は? つまり、俺は強制的に誰かと恋仲になれって事か?」

 『花野みき』の処女作『私の一部に君の名前を』はラブストーリーだったし、次も同じ路線で行く可能性は十分にある。
 だからといって、すぐに恋路に踏み切れるほどの度胸は俺にはない。
 取り敢えず恋愛についてはその時を待とう。

 「……うむ。だったら───」

 俺は思考を巡らせて、一つの考えに辿り着く。
 スマホのキーボードを打鍵し、花乃にメッセージを送信する。
 そしてにやっと口角を上げて呟く。

 「取り敢えずこれはやっておきたかったんだよな」

     
     ♯


 高校生活は早くも一週間が経過し、今日は週明けの月曜日。
 温かな春の日差しとたまに吹く風が気持ち良い。
 俺はD組のドアを開けて、教室へと入っていく。

 ガラガラと音を立てて開くドア。
 その先には、一目で分かるくらいに異常な光景が広がっていた。
 クラスメイトは全員静まり返って俺を見つめる。
 そんな奇妙な状況に、俺は訳も分からずその場で固まってしまう。

 「……来たか」

 教卓前に立つ光川が振り返ってポツリと溢す。
 俺がその方角を見ると、一人の女子が椅子に縛られていた。
 手と身体がロープでキツく結ばれていて、半ば涙目になっている。
 彼女がSOSを出すことなく黙っているのが、この状況を実に物語っている。

 「秋時」


 光川は感情の読めない仏頂面で手招きをする。
 俺は招かれるまま光川達がいる教卓の前へ歩み寄る。

 光川の他には荒田、都といったD組の陽キャ厄介集団が集まっている。
 想像以上の展開に若干心躍っている自分がいることに気付く。
 俺は縛られた女子の元へ近付いて観察を始める。

 「まさか、同級生の女子を縛る趣味があったなんて。新しい発見だな」

 光川へ煽り文句を言いながら、縛られたロープの結び目を見る。
 手首、身体それぞれ固く結ばれていて解くのは大変そうだ。
 ロープはホームセンターで購入したのだろうか。

 朝の時間に拘束、そして俺を待つ間クラスを掌握するという非人道的行為。

 「あ? そんな趣味ねーよ。そういうのはお前の方が十二分に似合ってるぞ」

 光川は低い声で俺を煽り返す。
 その隣の都が冷めた目をしてるのを横目に、俺は呟く。

 「本当か? じゃあこの女子は俺が貰っていいか?」

 「無理だ。…コイツがこんな目に遭ってるのはお前のせいだぞ、秋時」

 「……」

 黙っている俺に荒田が話し始める。


 「隠しても無駄だよ。君が光川の噂を流したんだよね?」

 「……噂?」

 「学内掲示板の存在は知ってるでしょ。そこに突然あるスレッドが立ったのよ。『一年D組の光川は中学の時、問題を起こして停学になった事がある』っていうね。去年、近くの中学であった暴行事件の犯人は光川だっていう内容で。それで、これが超悪質なのよ」

 「ああ。事件の概要は全て本当だが、加害者は公表されていないんだ」

 「そこで、俺を陥れたいヤツが俺をその犯人にでっちあげたって訳さ」

 学内掲示板とは、この高校ネットワーク専用の秘密裏に栄えているSNSだ。
 こういうのは普通取締りされるが、この高校は黙認されているらしい。
 ちなみに俺は花乃経由でその情報を知った。

 そして俺は、光川のデマをその掲示板に投稿した。
 内容は先程彼らが話した通りだ。

 「それは、災難だったな。でも噂は噂だ。気にする必要はないんじゃないのか」

 「…だと良かったんだが、もう被害が出てしまった。俺に関する悪い噂は今も後を絶たない。だったらもう…、やり返すしか無いよな」

 「事の発端が俺という証明は?」

 「そ、そんなんアンタに決まって───」

 「パソコン室から掲示板のデータベースにアクセスして、君のアカウントを特定したんだよ。だから、君以外あり得ない」

 「…そうか」

 荒田の言葉に俺は興味なさげに頷く。

 さて、ここまでは想定内だ。
 ここからどうやってストーリーを組み立てていくか。
 デマを流したのが俺である事がバレる、これは良い。
 その後の、コイツらの負かし方が上手く想像出来ない。

 「だから砂上(さがみ)さんがこうなってるのは君のせいだよ。そこはちゃんと自覚した方が良い」

 「日本語が上手いのは褒められる事だが、使い所はちゃんと考えるべきだぞ?」

 「だから、今がその使い所だよ」

 光川は砂上を縛り付けた椅子に手を置いて、にやっと口角を上げる。
 砂上と呼ばれる少女は身体を大きく震わす。

 「なあ砂上。お前がこうなったのは秋時のせいだよな?」

 「……はい。あ、秋時君のせい…です……」

 「……」

 砂上は俯き、震えながら俺の名前を口にする。
 そして涙ぐんだ目でやや荒っぽく続ける。

 「く、クラスが仲良く出来ないのは…、す、全て、秋時君に原因がありますっ…。光川君達は…今回の被害者です」

 「……」

 「みたいだぞ? 秋時。今回のデマの件で被害者は間違いなく俺だ。だから、俺はお前に謝罪を求める」

 「謝罪?」

 「それくらい言われなくても分かるでしょ? アンタが加害者なんだから」

 都が語気を強めて俺に言い放つ。
 なるほど、状況が概ね理解できた。

 光川達からは俺がデマを流して、光川を陥れようとしていると思われている。
 その仕返しとして砂上を拘束し、このクラスが仲良く出来ないのは俺のせいで、謝罪を要求する、と。

 「うむ。自らに非がありながら、それを他人のせいにする。そしてその理由もクラスメイトの砂上に言わせる事で、俺の罪悪感を煽ろうという訳か。荒田、お前か?」

 「うん。アカウントの特定から今日のこの場も、僕が提案したんだ」

 「おぉ、上出来だな。入念な準備は素直に感心する。でも───」

 そう言って俺は青星に視線を向ける。
 青星は席に座って、興味がないのか、それともクールを装っているのか、仏頂面で読書に集中している。
 俺は躊躇なく青星に声を掛ける。

 「青星君」

 「なんだ、秋時間夏クン。どうやら注目の的になっているみたいだな」

 「人気者っていうのも大変なんだよな意外と。…質問だ。ストーリーの伏線とは何のためにあると思う?」

 青星とは小説好きが高じて何かと話す機会が多い。
 青星は眼鏡をクイっと持ち上げて、冷静に話す。

 「伏線か。君に割には面白い質問だな」

 「……」

 コイツは俺のことを小馬鹿にしないとやっていけないタチなのが玉に瑕。
 だが、その代わりに知識と教養に長けた真面目なバカだ。
 俺の視線と、質問の意図を大いに汲んでくれる。

 「で、何だと思う?」

 「ふむ……。物語はラストが一番大事だ。そしてそれを盛り上げるために伏線は存在する。…ただ」

 「ただ?」

 「オレの事を勘違いされているままでは、流石に癪だ。ここは一つ、貸しという事で手を打とうか」

 「……はぁ。…まあ良いよ。それで」

 「流石だ。君は物分かりが良い。…さて。伏線は何のためにあるのか、か」

 青星は席から立ち上がり、教卓に鎮座する。
 手に持った本を勢い良く閉じて、高らかに叫ぶ。


 「伏線は回収されるためにある。ただそれだけだ」


 「……よし。やっと外れた」

 「あ…、ありがとうございます」


 青星のかっこつけタイムの間に砂上の拘束を外す。
 青星は出番が終わって、俺を見下ろす。

 「オレの出番は終了か」

 「ありがとう、空気の読める青星君。この借りはいつか返す」

 「今日でも良いぞ」

 そう言って青星は席に帰って行った。
 拘束を外した砂上はおずおずと俺の隣に並ぶ。
 俺はふぅと息を吐いて、光川に鋭い視線を向ける。


 「取り敢えず、コイツを突き出せば、お前らは何かしらの罰を受けるだろうな。なんで縛った? 明らかにデメリットだったろ」

 「そ、それはアレだ。俺たちは仲良しだからこれくらいは普通だ。…だろ?」

 「…と言っているが、どうだ? 砂上」

 「え、えっとその……」

 「光川達の事は気にしなくて良い。お前の本音を教えてくれ」

 砂上はもう一度俯いて、床に広がったロープを見つめる。
 そして肩身を震わせながら、小さな声で呟く。

 「み、光川君に急に力ずくで縛られて…、その…、こ、怖かったです……」

 「…おい! 怖いなんて嘘に決まってるだろ? 俺たちは仲良しなんだから、怖いなんて思わないよな!?」

 「……」

 「……」

 砂上はもう一度俯いて、俺は黙り込む。

 「なんで黙ってるんだよ! 怖くないんだろ? だったらそう言えよ! そうすれば───」


 「光川、周りを見ろ」

 「え?」

 「良いから。周りを見てみろ」


 光川はイラつきながらも振り返り、教室を見渡す。
 注目の俺たち以外のクラスメイトは男女それぞれ後ろで固まり、何やらヒソヒソと話しているようだ。
 何を話しているのかは分からないが、その視線は軽蔑にも近い。
 光川は後頭部を掻きながらも、その異常さには気が付いていないようだ。

 振り返って俺に話しかける。

 「おい。別に何ともないだろ。なんだよ急に変な事言いやがって」

 「……はぁ。おかしいのはお前だよ」

 俺は溜め息と共に肩を落として、面倒くさそうに呟く。

 「今の状況の異常さに気付けないのか? それはお前が立派なご都合主義だからだろ。そういうのはもう辞めろよ。うんざりしてんだよ」

 「……は? クラスが仲良いのは悪い事じゃねーだろ。俺はみんなの為に毎日頑張ってるんだよ」


 「じゃあ、コレもそうなのか?」

 そう言って俺はスマホの画面を見せつける。
 それは派手に落書きされた俺の机の写真だった。
 暴言の類が乱雑に散りばめられた机は見るからに悲惨だ。

 「これ油性ペンだろ? 消すの大変だったんだぞ」

 「っ!!」

 実は俺は、光川からの嫌がらせを受けていた。
 俺が高校に登校した初日、つまり俺が光川と初めて会った日。
 あれから数日間に渡って、いじめまがいの仕打ちを受けていた。

 「これが仲良しだと言うのなら、それはお前がどうかしてるぞ。砂上の拘束も含めて…、これがみんなの為とか、まかり通る訳ないだろ」

 「……」

 反論せずに黙り込む光川に都が声を掛ける。

 「光川…、流石にマズいんじゃない…?」

 「……うるせー」

 「あっ! ちょ、ちょっと!」

 光川は都をどかして、俯きながら俺の元へ歩み寄る。
 そして苛立ちを隠す事もせず、俺の胸ぐらを力強く引っ張る。

 「……元を言えばお前が悪いんだ。デマを流して、俺への風評被害を企んだから、俺は仕返しをした。それの何が悪い! 俺は至って正当防衛だ!!」

 光川は眉間に皺を寄せて、今にも蒸発しそうな勢いで俺に楯突く。
 俺は至って冷静に淡々と事実を呟く。

 「お前が全部悪い」

 「…違う。秋時、お前のせいだ……!」

 「違う。お前は最初から間違っている。でも、特にやり方が悪い」

 「あ!?」

 俺はさらに強い力で持ち上げられ、胸あたりが苦しくなる。
 それでも俺は続けて話す。

 「……今の時代は姑息が主流だ。お前のやり方は形に残るものばかりで、すぐに足跡が着く。それだとすぐに分かるんだよ。現代は生憎」

 「…っ」

 掲示板のデマがバレたのは荒田が俺のアカウントを特定したからで、そこに対する労力と時間は思ってる以上にある。
 対する俺はそんな事しなくても、どうせ光川だろうという憶測が大体の確率で当たる。
 掲示板含めSNSの匿名性は一長一短だ。

 「だから、もうこういうのは辞めろ。迷惑してるのは俺だけじゃない」


 「……お前にそれを言う資格はない」

 「ん?」

 「…俺を陥れようとしたお前が! 俺にそんな事言ったところで! 何にも響かないんだよ!」

 「……」

 「俺は俺の好きにやってるだけなんだ。…お前らのノリが悪いから、俺もお前らが気に食わないんだよ!」

 「……!」

 グッと胸ぐらを持ち上げられ、身構える俺。
 光川は右手を握りしめて、ゆっくりと大きく振りかぶる。
 理性を失くした猟奇的な目がギロリと俺を捉える。
 光川は息を荒くして呟いた。

 「後悔しろ」

 「……っ!!」

 身体をのけ反って、極限まで右腕のバネを伸ばす光川。
 そして身体を勢いよく捻って、トップスピードで拳を突き出す。
 それは空気を切って、もの凄い勢いで俺に近付く。
 身動き出来ない俺は光川の拳を避けることができない。

 「───」

 そしてそのまま、拳は俺の目の前へ───。


 「待て! 光川!」

 その時、俺の前に荒田が庇うように立ち塞がった。
 光川は荒田の目の前で拳を止め、ハッと目を見開いた。

 「……っ! 荒田……!!」

 「……前から思ってたんだ。僕たちもそろそろ、考えなきゃいけないって…」

 「なんだ…? 砂上を拘束しようって言ったのはお前だろ?」

 「ああ…! 間違いない…。それは僕だ」

 「じゃあなんでそんな事を言うんだ? おかしいだろ」

 「それは…、自分でも痛いほど分かってる。でも、光川も気付いているだろう? 僕たちは今クラスの中で疎まれていること」

 「……いや、そんな訳ないだろ」

 スッと都が手を上げて、間に入って話し始める。

 「ごめん。これだけは私も荒田と同じ。こんな事続けてたらクラスの居場所がなくなるばっかりだよ」

 都は光川の腕を下ろして、諭すように呟く。

 「光川、変わろう? アンタが楽しむのは良いけど、それで誰かを傷つけるのは違う」

 「……都」

 「都の言う通りだよ。こんな事を続けたら、自分の首を絞めるだけだよ」

 「……」

 都と荒田が光川を説得する。
 荒田の言う通り、このままだと光川は自分で自分の居場所を狭めていくことになる。
 少なくとも今のやり方は止めるべきだ。
 光川一人の自己満足で、他は誰も得をしていない。

 「まだやり直せるよ。僕と都がついてる」

 「うん」

 「……」

 二人の説得が光川に響いたようで、光川は二人に謝る。

 「……ごめん」


 「謝るなら俺に謝ってくれ」

 「…え?」

 間髪入れず俺は謝罪を要求する。
 隣にいる砂上の素っ頓狂な声を聞き流しながら、俺は光川に視線をやる。

 元はと言えば、光川が俺の遅刻を嗤ったところから始まったんだ。
 非は俺じゃなく、光川にある。
 光川は俺の前に立ち、俯きながら呟く。

 「……俺が悪かった」

 「……」

 光川は素直に謝罪をする。
 荒田と都はそんな光川の姿に安堵した表情を見せる。
 俺はまだ表情を変える事なく、光川を見つめる。
 数秒の沈黙が流れて、またポツリと光川の声が聞こえる。

 「こんなんで俺が納得すると思うか……」

 「え?」

 「……光川?」

 「……」

 「偉いのは俺に決まってるだろ……。悪者は俺じゃねぇ…。お前に一発喰らわせねぇと気が済まねぇ……」

 光川がギュッと拳を作って、また大きく振りかぶる。
 そして赤色の殺意を身に宿し、俺にもう一度襲いかかる。

 「死ね!」

 「危ない!」

 光川の拳がものすごい勢いで俺に向かって飛んでくる。

 「……っ!!」

 俺は右足を後ろに突き身体を捻って拳を避け、左足を少し引いて一度重心を軽く掛ける。
 すぐに右足を持ち上げて、その勢いのまま光川の腹に蹴りを入れる。

 「ぐはっ!」

 俺のキックを喰らった光川はバランスを崩し、後ろに吹き飛ぶ。
 後ろの机に勢いよくぶつかって、ドシャンと大きな音を立てながら一緒に倒れ込む。

 「光川!」

 「だ、大丈夫?」

 すぐに荒田と都が光川の元へ駆け寄る。

 「……え?」
 
 困惑した砂上の声が隣から聞こえた。


     ♯


 「見てみて! すごいよ秋時君! スーパーヒーローだよ!」

 子供のような無邪気な声が昼休みの屋上に響く。
 花乃は大きな瞳を輝かせながら、隣の俺にスマホの画面を突き出す。
 それは高校内で秘密裏に栄えているSNS、もとい学内掲示板だ。

 「それを言うならヴィランの方だろ。ちゃんと見てるのか? それ」

 「もちろんだよ。君を知るためにも、周辺の情報収集は欠かさないよ」

 「そうか」

 俺は概ね予想通りの返しに、興味なさげに頷く。
 高校生活はまだ始まったばかりだが、俺のクラス、一年D組は絶賛炎上している。
 俺と光川の軋轢が動画付きで拡散されたからだ。

 あれからまだ数時間しか経っていないのに、俺は周りから避けられ始めている。
 屋上に来るまでに浴びた黄色い視線が実に痛かった。
 あの後砂上と教室に戻ると、教室はこれまでにないくらい静まり返っていた。
 ヒソヒソと俺と光川についてのあるない話が飛び交っていて、空気が重かった。

 花乃との時間が一番リラックス出来るという、まさかの異常事態。
 花乃は俺の情報が詰まったメモ帳を手に、にやっと笑みを浮かべる。
 まだ手付かずの弁当箱が、花乃の新作に対する熱量を如実に表している。


 「ねぇ秋時君」

 「なんだ?」

 花乃は上を向いて、一面に青く広がる空を見つめる。
 そして俺に向かって挑戦的な笑みを浮かべる。

 「面白くなってきたね?」

 「……はぁ。…誰のせいだと思ってる」

 冷凍の唐揚げを運ぶ手を止めて、俺は気怠げに呟く。

 入学式の日、寝坊して項垂れていた俺の前に花乃はやって来た。
 河川敷の橋の下、陽の光から逃げた俺を花乃が引っ張り出した。
 偶然にも俺たちは利害が一致した。

 花乃は作家『花野みき』の新作のモデル探し、俺は華のある高校生活。
 花乃は俺を利用し、俺はそれに乗じて逆に利用し返す。
 この関係は如何様にも言い換えれず、そしてため息が出るほどに面白い。

 「私のせい!」

 満面の笑みを浮かべて、自慢げに呟く猟奇的愉悦犯。
 俺はその様子に微かに笑みを浮かべる。

 「それはそれは。分かってるなら言う事はない」

 軽く鼻を鳴らして、昼食の続きに取り掛かる。

 「突っ立ってないで、花乃も昼飯食べろよ。時間なくなるぞ」

 「ふふん」

 花乃は翻して大人びた仕草で弁当を食べ始める。
 こうして見ても、俺には決して高嶺の花とは思えない。
 花乃に纏う黄色はもう、異物のようなオーラとして認識されている。
 それは俺には関係なくて、今の俺は次の策を考える時間が欲しい。


 「秋時君。次は何するの?」

 「……さあ。取り敢えず、考える時間が欲しい。その時になったら、状況も見えてくるだろ」

 「そうだね。…この後何が起こるのかな? 楽しみだなー」

 「まあ、そういうことだな」

 「期待してるよ、秋時君。…もとい、主人公」

 花乃は黄色い笑みを浮かべて俺を見つめる。
 さて、これはやっぱり異常という言葉が似合ってしまう。

 怖気づく必要はない。
 俺は花乃に、『花野みき』に利用されているのだ。
 ならば俺もどっしりと構えておいた方が良いだろう。

 「まあ、期待を裏切ることはないだろうな」

 そう言って俺はまた弁当を食べ進める。
 すぐに含みのある笑い声が、隣から聞こえた。