バス停からわたしの家に向かう道の逆方向を歩いて十分。青くんのリクエストでやってきた場所は剣道教室。今は別の場所に移動したからあまり使われてないけど、ここはお父さんの元職場だ。

「で、なんでここに来たかったなの?」
「翠ちゃんの育った場所だから」
「剣道教室なんて見て楽しい?」
「うん」

 青くんはにこりとする。
 嬉しそうだから、まあいいやと思う。

「じゃあ中入る?」
「え?」
「スペアの鍵、ここにある」

 私が鍵のないポストに入っている缶ケースを開け鍵を取り出した。
 青くんは隣でわたしの様子を見守る。
 剣道教室の鍵を開けて、中に入る。

「変わらないね」
「わたしも久々に来た」

 梅雨の間にしか会えないのに、青くんはよくこの道場を覚えていられるなあと思った。
 本来晴れていれば、太陽の光がこぼれる温かな空間であるこの場所。
 今は少々暗いので電気をつける。
 年季を重ねた道場の木は鮮やかな茶色をしている。
 ゆったりとした道場に飾られている額縁にはこう書かれている。

 『不動心』

「ねえ翠ちゃん、これってどういう意味だっけ?」

 青くんが額縁を指差して私に尋ねる。

「他によって動かされることのない心、動揺しない精神って意味だよ。江戸時代の名僧である沢庵禅師が言った言葉でもあるらしい」
「沢庵禅師ってどんな人なの?」
「10歳の若さで出家し、さまざまな寺を転々としながら修行を重ね、37歳で京都の大徳寺住職に就任した人みたい」

 青くんが何度か頷き、わたしは言葉を重ねた。

「葉一つに心をとられ候わば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候という言葉があるんだよ」
「どういう意味なの?」
「ひとつのことに心を奪われ過ぎると、他の大切なことが見えなくなるという意味かな。逆に、ひとつのことに固執せずに心を広く持てば、たくさんのことを見渡せるという教え、らしい」
「すごい……翠ちゃん、詳しいね」
「お父さんが言ってたのを言ってるだけだよ」

 そういえば私が小さい頃、テストの点数が悪かったり、何もない場所で転んだりして落ち込むと、わたしはよくここに一人で来てた。
 あの時は一人で。
 今は隣に青くんがいる。
 
「ん、なに?」

 青くんが柔らかく微笑み、わたしは思わず顔を横に向けた。
 なんだか青くんがかっこよく見えてどきりとしてしまった。
 
 ギシギシとわずかに床がきしむ音がして、わたしはちらりとそちらを見る。
 青くんは竹刀置き場から竹刀を握る。

「翠ちゃんと久々にお手並み拝見」

 青くんは竹刀を軽く構えて、わたしににこりとした。

「えー」
「翠ちゃんは好きなんでしょ。お父さんの影響で剣道が」

 まあ、それは間違っていない。
 剣道も一位まではいかないが、全国大会に出たことがある。
 お父さんが別の場所に剣道教室をたててから、わたしは剣道をやめた。
 それは青くんと知り合う少し前、
 そうちょうど、わたしが、
 雨に打たれた紫陽花に傘をさした日のことだ。
 バス停の近くにあった紫陽花。
 あの紫陽花は、今、人間になっている。
 
『悲しいときに僕に傘をさしてくれた人がいて、ずっとその人のために人間なりたいと願っていたら神様に叶えてもらえた』

『これからは僕が君のことを守るから』

 痴漢から助けた、はじめましての時に、青くんはわたしにそう言った。

 わたしは竹刀置き場に近づく。
 竹刀を一本取り出し、青くんから離れる。
 距離をあけて竹刀を構えると
 青くんも同じようにした。

「合図は青くんからどうぞ」
「構え、はじめ」

 『はじめ』の合図で
 静寂を破る音が響いた。
 青くんは一気に攻めてきた。
 わたしに緊迫感が増す。
 青くんの俊敏な動きを冷静に読み取り、わたしは青くんの攻撃を瞬時によけた。
 相手の呼吸、相手の一手を
 わたしは見極めた、つもりだった。

「さすがだね、翠ちゃん。だけど……」

 青くんはわたしの構えた竹刀を払い、わたしの頭の上で竹刀を止めた。
 面布団をつけてないから、直前のところで止めた。つまりわたしはあっという間に……青くんに一本をとられた。