夏が嫌いな僕は

冬が嫌いな私は

君のおかげで変われたんだ。


*

今年も夏が来てしまった。大嫌いで大嫌いで仕方ない夏が。
遠慮のない直射日光が嫌い。
やかましいセミの鳴き声も、花火の音も嫌い。
僕が生まれた8月は、もっと嫌いだ。
ああ、早く夏が終わればいいのに。
そんなわがままな僕は、今日も本のページをめくる。

「ねえ」

突然、東から金色の光が落ちてきた。それはスポットライトのように、日陰を明るく染めていく。

「──村松響くん」

「えっ」
僕は、声の主を知っていた。
向坂陽花里。整った顔立ちに加え、明るい性格のクラスメイト。
常に誰かに囲まれている、僕とは違う世界に住んでいるような人だ。
そんな彼女が僕の名前を知っていることに驚く。
夏休みは毎日、日陰で本を読んでいる暗い奴なんか、覚えるだけ無駄だ。
「この河原、素敵だね」
「……うん」
本に目線を落としたまま、短く答える。
向坂の言う通りだ。自転車に乗って、家から5分。青空と流れる雲を映す川は美しく、せせらぎが心地よい。世界でひとりきりになったようなこの場所が、僕は好きだった。
すると、隣に座った向坂は、僕の顔を覗き込んできた。
「ふふっ、やっと目が合った!」
至近距離で、向坂がくすぐったそうに笑う。
僕は捕まった。彼女の、宝石をちりばめたような瞳に。
本を閉じる。絡まる視線を切り落として、背を向ける。
「じゃあね」
「待って、どこ行くの!?」
「家」
僕は自転車のサドルにまたがった。
しかし、漕ぎ出すことができなかった。
……なぜなら、向坂が手を広げて立ちはだかったからだ。
「あのさ、いいかげんに……」


「ねぇ、一緒に逃げよう」


「……え?」

「一緒に、逃げよう」
もう一度、ゆっくり噛みしめるように彼女は言った。
肩までの髪をなびかせて、整った顔を苦しげにゆがめて。

──高校最後の夏が始まった。



「向坂、どこまで行くつもり?」
線路をわたって、僕たちの高校の側を歩いて、杉並木を通り抜けて。
足取りが重くなり、首筋を汗が流れ落ちる。
僕は、元気よくスキップする向坂の背中に問いかけた。
「南極」
「……君は何を言ってるの?」
「何日くらいかかるんだろうね。とりあえず飛行機とか乗る?ペンギンに会えるかなあ」
足音のテンポが上がる。あさっての方向を向いて喋り続ける向坂。どこからツッコミを入れるべきだろうか。
「響くん、南極まで競走ね!」
そう言うや否や、彼女はスキップをやめて走り出した。
「ちょっと、待って!」
ずるいじゃないか。僕、自転車を押しているんだけど。遠ざかる向坂に置いて行かれないよう、僕も急いだ。
しかし、向坂の暴走はすぐに止まった。人影が一切ない、閑静とした住宅街で。
立ち尽くす彼女の目線の先を追う。
道路の反対側。まちがいさがしをするようにあたりを見渡していると、見覚えのある建物が目についた。
ぞうの滑り台が置かれた公園。看板が色あせて読めないコンビニ。ここ、どこかで……。

「向坂、コンビニ行っていい?」
「え?」

右手を挙げて、目の前の横断歩道を渡る。
小走りのような足音が後ろから聞こえてくる。僕は、コンビニのドアを引いた。ギギギ、と甲高い音がする。今にも壊れてしまいそうだった。
「いらっしゃいま……」
レジにいた女の人が、途中で言葉を切って目を見開いた。
振り向くと、向坂は目を丸くしていた。僕に気づくと、目線を雑紙の棚に移した。
僕はレジの前に立つ。
「すみません、防寒グッズってありますか?」
「ひ、響くん!?」
「ぼ、防寒グッズ!?」
二人そろって素っ頓狂な声。
「えーっと……探してみます」
レジの人は、奥へ消えていった。
「……どういうつもり?」
「南極へ行くなら、必要でしょ」
「そうじゃなくて!」
まただ。唇を噛んで、苦しみに耐えるような表情。
「……ごめんなさい、急に怒鳴って」
「いや、こちらこそ……ごめん」
「公園で頭冷やしてくるね」
彼女が出て行って、少し時間が経ってからレジの人が出てきた。
「カイロがございましたが……」
「2個買います」
「はい、かしこまりました」
笑顔は優しいのに、どこか哀愁漂う雰囲気の人だ。
会計を終えて店を出ようとすると、「あの」と声をかけられた。
「陽花里ちゃんを……お願いいたします」
「……」
どう答えれば正解か。僕に答えは分からず、会釈だけしてお店を後にした。

公園に行くと、「ぞうさん公園」と彫られた石碑が置いてあった。ぞうの滑り台は、鼻が滑る部分、しっぽが階段になっていた。
「はい」
しっぽの先に座っていた向坂に、袋を手渡す。
「……これ……」
「懐かしいよね、スイカバー。好き?」
「うん、大好き!」
ありがとう、と向坂がはにかんだ。その笑顔が、なんだか懐かしい気がした。……いや、まさか。
「あ、お金……」
「いいよ、気にしないで」
「そっか」
鮮やかな赤色のスイカバーを、向坂がおいしそうに頬張る。
「んー、おいしー!」
「それはよかった」
「一口食べる?ほら、あーん」
「いらない」
向坂がニヤニヤ笑ってスイカバーを近づけてくる。
どういうつもりで言ってるんだ、それ。
あっという間に大きなスイカバーを食べつくした向坂は、ふぅ、と息をついた。
突然、その小さな肩が震えだす。
「……ふ……くくく……」
こらえるような声が、だんだん大きくなっていく。
「ふふ、あははははっ!!」
「なんだよ」
「だってさ、真夏に『防寒グッズってありますか?』なんて聞く人いる!?」
向坂がお腹を抱えて笑う。
つられて僕も吹きだした。
心から笑ったのって、いつぶりだろうか。そんなことも、どうでもよくなってくる。ああ、楽しい。
大笑いする僕たちの足元に、雫が落ちてきた。

「……あれ、雨だ」

不思議そうな顔をして、向坂が空を見上げる。
今日の降水確率は、0%だったのに。
これだから夏は嫌いだ。夏の天気は、本当に変わりやすい。
最初は静かだった雨が、だんだんと激しくなり、地面を殴りつけるような大雨に変わっていく。

「ど、どうしよう!?傘持ってないよ!」
「……向坂」

向坂の輪郭がぼやける。
早くなる雨音に反比例するように、呼吸が苦しくなっていく。

「コンビニに、戻って」
「響くんも行くよ!早くしないと風邪ひいちゃう!」
「僕、は……」

やっぱり、だめだった。






あれから何時間が経っただろう。
「響くん」
病室のベッドで横たわった響くんは、お人形みたいに動かない。
声をかけても。手を握っても。

私は病院から、響くんは喘息を持っていることを知らされた。いつ目覚めるか分からない状態なんだって。
……怖くて、怖くて、地面にまっすぐ立っている感覚が消えた。
信じたくなかった。

どうして、響くんが。
何も訊かずに、一緒に逃げてくれた。アイスを買ってきてくれた。
笑わせてくれた。笑ってくれた。

お願い、神様。私はどうなってもいいから、響くんを助けてください。
両手を合わせてぎゅっと握ると、昔の記憶が流れ出した。



私は冬が嫌いだった。
冷たい空気が痛くて嫌いだった。
太陽がすぐに沈むのが嫌いだった。
雪が降ったらもっと嫌。
綺麗な景色を、真っ白に染めてしまうから。

「……っ……」
5年前の冬の夜。私はぞうさん公園の滑り台の鼻の先でうずくまっていた。
お母さんが死んじゃっても、私は弱音を吐いたらだめ。
なぜならば、私は“完璧なひかりちゃん”だったから。
そう、君に出会うまでは。

しばらく外にいた私の頭に、何かが落ちてきた。

「……え?」

それは、黒い毛布だった。

「あげる」

声変わりの途中のような、かすれた声。顔を上げると、学ランを着た背の高い人が立っていた。暗くて、顔はよく見えなかった。
「……ありがとう……ございます」
あったかい、と思った。気温は0に近く、凍りそうなくらい寒いのに、なぜかあたたかかった。
「スイカバー好き?」
「スイカバー?」
私は目と耳を疑った。眼科や耳鼻科に行くべきだろうか、と思ったくらい。
「こんなに寒いのに、アイスを食べるの?」
「寒いからこそだよ」
受け取って、おそるおそる口に入れる。
「~っ、つめたっ!?」
「ははっ」
でも、木枯らしの冷たさとは別だ。毛布を抱きしめると、いい匂いがしてドキッとする。
「あとはお願い」
「えっ……あ、うん」
自然と口元が緩む。心から笑ったのなんて、いつぶりだろう。
「お母さんがね、死んじゃったの」
気づけば、私の口から言葉が飛び出していた。
「私、お母さんが大好きだった。『陽花里はえらいね』って言って頭をなでてくれる、あったかい手が好きだったの。でも、もう……」
もう2度と、会えない。
嗚咽がもれる。誰かの前で泣くのは初めてだった。止めなきゃ、と思っても、涙はとめどなく溢れてくる。

「陽花里はえらいな」

ぽん、と頭の上に手の温もり。お母さんよりは、大きな手。
……夢を見てるの?
「泣きたいときは泣いてよ」
うわああああ、と慟哭が静かな夜を切り裂く。
泣いて、泣いて、泣き疲れた後、私は君に名前を聞いた。

「……村松響」

高校で君を見つけて、河原で君を見つけた。
そのとき、言葉で言い表せないくらい嬉しかったんだよ。




「……ん……」

響くんのまつ毛が、かすかに動いた。
うっすらと瞳が開く。海みたいに深くて、綺麗な瞳。

「響くん!」
「……え……向坂?」

響くんの右手を、ぎゅうっと握りしめる。
ごめん。よかった。たくさんの言葉が思い浮かぶのに、上手く言葉にできない。
病院の人が駆けつけてきた。これから検査をする、と言われ、私は家に帰ることになった。


「……ただいま」
「陽花里!」
「陽花里ちゃん!」

玄関に、2人が駆けつけてきた。
お父さんと、……鈴木さん。

「こんな時間まで、何をしていたんだ!」

時計を見ると、短い秒針が2を指していた。いつの間にか、日付が回っていたんだ。

「……ごめん」
「何をしていたか、聞いているんだ!」
「……言いたくない」
「お前!どれだけ心配したか分かってるのか、この薄情者!」
すぅっと足の先から全身が冷えていくのが分かった。
「薄情者はお父さんでしょ!相談もせず再婚なんかして!お母さんはどうしたのっ!?」
お父さんと鈴木さんの、傷ついたような顔が見えた。
家を飛び出して、河原へ向かって走る。
暗闇の中、足を滑らせて転倒した。
“これからお母さんになる、鈴木さんだ。”
お父さんの声が、頭の中でこだまする。
今日……いや、昨日か。私は、鈴木さんがコンビニで働いていることを知った。これからお母さんになる人のことを、私は何も知らない。
……本当は、分かってるよ。お父さんも、鈴木さんも、なにも悪くない。全部、全部私のみっともない八つ当たりだ。
どうか、こんな私を見つけないで。その場にうずくまった。
どれくらいそうしていただろうか。

「見つけた」
「!」

顔を上げずとも分かった。響くんの声。

「……ごめんなさい、響くん」
「なんで?」
「響くんが喘息なのに、逃げようなんて言って」

沈黙が続く。
すると、隣で砂利の音がした。

「向坂、顔上げて」
「やだ」
「なんでだよ」
「泣いてる顔、見られたくないし」
「……じゃあ、こうする?」
顔を上げると、両手を広げた響くんが座っていた。暗闇でも分かるくらい、顔が真っ赤。
私は響くんの胸に飛びついて、顔をうずめる。
「照れるなら言わなければいのに」
「うるさい」
こほん、と響くんは咳ばらいをひとつ。
「もともと僕は喘息で、何度も死にかけてるんだ。僕の家族、病院に来てなかったでしょ?」
「あ……うん」
「喘息の息子なんて、面倒くさいと思ってるんだろうな。僕はそれでいい。どうせ死ぬなら、もともと僕なんか存在しなかったように、誰にも気づかれずに死にたい」

「……ば……」
気づいたら私は、声を荒げていた。

「バカっ!!響くんのバカ!!」

「え?」

「なんでそんなこと言うの!私は響くんに救われたの!5年前の冬、響くんが来てくれなかったらって……想像するだけで怖いよ」
「……やっぱり、向坂だったんだ」
「やっと思い出した?」
「ごめん、今まで忘れてて」
「……私のお父さんね、再婚したんだ。二学期になったら、私は引っ越す」
響くんは、唖然とした顔をした。
「だから逃げようとしたんだな」
「失敗したけどね。さっきも喧嘩しちゃったし」
暗い雰囲気にならないように、舌を出して笑って見せる。
響くんには、弱い私を見せたくなかった。もう十分見せてるけど。

「……陽花里はえらいな」
頭の上に、響くんの手があった。
「でも、えらすぎだよ」

どうして、響くんはそうやって……。
響くんの優しさが傷口にしみこんで、涙が溢れた。
やっぱり、5年たっても響くんは響くんだった。

「響くん、好きだよ」
響くんの瞳にも光の膜が張っていた。
「僕も」

私たちの頭上で、満月が光っていた。




「村松響さん」
「はい」
白衣の先生に名前を呼ばれて、病室に入る。

向坂。僕は手術をするよ。24時間にも満たないときを君にもらって、もう少し生きたい、なんて思ってしまった。
もちろん怖い。今も全身の震えが止まらないよ。
君は、引っ越し先で順調にやっているかな。
きっと向坂なら大丈夫。君は、僕の光だから。
そうだ、大人になったら一緒に南極に行こう。
今度は逃げるんじゃなくて、旅行としてね。