エピローグ

 九月十九日(土)

 シルバーウィークの五連休の初日、僕はのむら荘の自転車にまたがりカイジ浜を目指していた。背負ったリュックには三線のケースが、短パンの右ポケットには指輪の箱が納まっていた。
 九月に入ってから東京では晴れの日がほとんどなく残暑すら感じられなかった。しかし、竹富は今も真夏だ。強い日差しはじりじりと手足を焼き、リュックの下では、かりゆしウェアに汗が滲んでいった。
 路面の凹凸を避けて進み目的地にたどり着いた。木陰の自転車置き場に自転車を止めて歩き始めた。短い緑のトンネルの向こう、今日も海が綺麗だ。坂を下り浜に出た。真っ白な砂を踏みしめ、僕は奈々さんと並んで座った木陰の流木に向かった。
 流木にたどり着き腰を下ろした。東京と違い、真夏でもここは暑さも湿気も感じられず快適だ。僕は目の前にシートを敷き、その上に置いたケースから三線を出して糸を巻いた。右のポケットからは指輪の箱を取り出した。箱を開け中身を海の方に向けると右ポケットのすぐ脇に置いた。
 大きくひとつ息をついて、僕は「幻の夏」を歌い始めた。九つの島の歌を全て歌うつもりだった。それぞれの歌を歌う度にあの部屋で真澄と過ごした日々が頭を掠めていった。何もかもが今は幻のようだ。
 九つの歌を歌いきった時、ため息がこぼれた。奈々さんと過ごしたあの日の証は今も僕の手の中にあった。だから、約束通りに真澄に贈った指輪を埋めてしまうことには未だに抵抗があった。だが、約束は約束だった。真澄の言う通り、僕はまた誰かと出会い、真澄のことを思い出にして大人になってゆくしかないのだ。そう覚悟した時、次の歌を歌い指輪を埋める決心がついた。
 再び大きく息をついて、僕は最後の歌を歌い始めた。真澄が旅立った日に僕が贈ったあの歌だった。あの夜、僕の歌を真澄が聴いてくれたのかどうか、今もって僕は知らない。ならば、せめて歌が空に届くようにと、僕は精いっぱいの思いを込めて歌った。歌が空の上まで届いたかどうかも、もちろん知る術はなかった。歌い終わった僕は、目を閉じて、また、ため息をついた。
 すると、左から女性の声がした。
「良い歌ですね」
 いつの間にそこに立っていたのか、まるで気がつかなかった。年齢は僕と同じくらいに見えた。長い髪をした奇麗な人だったが見覚えはなかった。
「今の歌、歌手は誰ですか?」
 一瞬、返答をためらったが素直に応えることにした。
「恥ずかしながら、僕のオリジナルです。今まで誰にも聴かせたことなかったんですが・・・」
 僕の言葉を聞いて彼女は少し首をひねった。
「ええ?不思議ですね。私、今のあなたの歌、ずっと昔に聴いたことがあるような気がするんですが」
 その言葉を聞いた瞬間、たとえようのない嬉しさが体の底から湧き出してきた。
 聴いていてくれたのだ。真澄は旅立つ前に僕の歌をちゃんと聴いていてくれたのだ。その時、僕は何の疑いもなく目の前の彼女が真澄の生まれ変わりだと信じた。あの世とこの世の時間は、過去と未来がねじれて繋がることがあるに違いない。きっとそうだと思った。
 僕が目を閉じて、溢れてくる思いに身を任せているのに気付いたのか、彼女は遠慮がちに頼んできた。
「あの、他にもあなたが作った歌があったら聴かせてくれませんか?」
 聴かせない理由などあるわけがなかった。聴いて欲しいのはむしろ僕の方だった。
「喜んで。良かったら、こちらに座りませんか?」
 そう言って僕は自分の右側を示すと、慌てて指輪の箱を閉じてそれを右のポケットにねじ込んだ。もう埋める必要はなかった。指輪は既に帰るべき場所をみつけていた。
「失礼します」
 そう断ってから彼女は僕の前を通り過ぎて僕の右側に座った。僕は彼女の顔を見られなかった。こみ上げてくる思いが強すぎたからだ。
 僕は改めて糸を巻き直した。西表島の向こうには、島を押しつぶしそうな入道雲が居座っていた。強い日差しを浴びた海は、エメラルドグリーンを基調とした鮮やかなグラデーションを描いていた。木陰に吹き込んでくる風は外の暑さが信じられないほどの涼しさを運んできて、彼女の日焼け止めのものと思われる甘い香りが僕の鼻をくすぐった。申し遅れましたが、と断ってから名乗った彼女の名前は美しい音楽のように僕の耳に響いた。何もかもが決して幻ではなかった。

僕たちの夏はまだ終わってはいなかった。
 
                                終