第三章
八月十七日(月)
目が覚めると、真澄がキッチンに立っていた。フライパンで何かを焼く音が聞こえてきた。布団から起き上がって近づいてみると、真澄は目玉焼きを作っているところだった。
「おはよう」
僕は真澄に声を掛けた。
「おはよう。良く眠ってたね」
真澄は僕の方を見ずに目玉焼きに集中していた。
「もっと良い物を作ってあげたかったんだけど、冷蔵庫の中、卵くらいしかなかったから目玉焼きにトーストで我慢してね」
「何か手伝おうか?」
「じゃあ、牛乳を注いで、トースターのスイッチを下してくれる?」
「分かったよ」
僕は既にパンが入っていたトースターのスイッチを下した。次に食器棚を見たが揃いのコップは無く、しかたなく形の違うコップ二つに牛乳を入れて向き合うようにテーブルに置いた。
真澄が目玉焼きを二枚の皿に乗せてコップの隣においた頃、トースターから食パンが飛び上がった。真澄は焼きあがったトーストを別の皿に乗せて、目玉焼きの隣に置いた。僕はそんな真澄の様子を、突っ立ったまま、何か美しいものを見るような気持ちで眺めていた。
「じゃあ、食べましょうか」
真澄が席に着いた。僕は真澄の向かいに座った。
「いただきます」
真澄が先に言った。
「いただきます」
僕もそれに続いた。
「僕はこのアパートで誰かと向かい合って朝食を食べる日が来るなんて想像したこともなかったな」
僕が感慨深げに言うと真澄はクスクスと笑った。
「朝食っていってもトーストに目玉焼きだけじゃない。そんなに嬉しそうにされるとこっちが恥ずかしくなるわ。でも、冷蔵庫の中にあるのはほとんどビールだけなんだね」
「まあ、知っての通り食事はほとんど外食だからね」
「私は何もしてあげられなかったから言わなかったんだけど、外食一辺倒は経済的にも健康的にも良くないわよ」
真澄は少し難しい顔をして小言めいたことを口にした。
「まあ、料理なんてできないから仕方がないよ」
「でも、安心して。今日からは私がやるから」
「それは助かるな」
正に本音だった。
「今日の朝食はたいしたものじゃなかったけれど、誰かのために作るって楽しいものね」
真澄は正に嬉しそうな顔をしていた。約三十年もの間、何一つ出来なかった真澄にとっては、目玉焼きを作る程度のことですらできるのが幸せに思えたのだろう。
「いや、僕も誰かと一緒に食べる朝食がこんなに良いものだということを忘れていたよ。別に家族の仲が悪かった訳じゃないんだけど、僕が大学に入ってからは、みんな朝食を取る時間もバラバラになっちゃってね」
「そうだったの。でも、これからは毎朝一緒に朝食が食べられるわ」
「そうだね」
嬉しそうに笑う真澄の顔を見ながら、僕もまたささやかな幸福を噛み締めていた。
朝食の片付けはすぐに終わった。翌日を含めて二日間、バイトもなかったので僕は朝食後に急いですることも無かった。僕たちはとりあえず寝室に置かれたテレビの電源を入れその前に座った。テレビのニュースは夏休み中とあって、浦安の遊園地が朝から賑わっている様子を伝えていた。そのニュースを見ながら真澄は少しため息混じりに言った。
「私、ランドもシーも行ったことないのよね。出来る前に私・・・」
言いかけた言葉を真澄が飲み込んだ。僕は空気が澱まないようにくだらない対応をした。
「ランドやシーに行ったことない人なんていると思わなかったよ」
そう言った次の瞬間に僕は休日の過ごし方を思いついた。
「真澄、行こうよ。とりあえず、今日はランドに」
「え、これから?」
真澄はひどく驚いた声を上げた。
「うん、行ってみようよ」
「ええ、でも、暑いし、込んでるよ」
行ったことがないと嘆いていたくせに真澄は消極的だった。
「まあ、いいじゃないか。初めてだから、とりあえず雰囲気を味わうだけでも」
「行けるのはすごく嬉しいけど」
嬉しいという割には真澄は乗り気でないように見えたが、僕は強引にランド行きを決めてしまうことにした。
「じゃあ、ランド行き、決定だ」
僕はそう宣言すると着替えをして、通学用に使っているリュックの中にデジカメを入れた。ランドで真澄とデートができるなんて思いもしないことだったので、年甲斐も無く僕は少し興奮気味になった。
「じゃあ、出かけようか」
「うん」
僕が真澄の手を取って玄関を出ようとした直後、真澄とつないだ手に反対方向の強い力がかかるのを感じた。
「痛い」
真澄が悲鳴に近い声を上げてつないだ手を離した。そして、真澄はそのまま玄関にうずくまってしまった。僕には何が起こったのかまるで分からなかった。
真澄はうずくまり下を向いたまましばらく動けなかった。少しして、真澄は無理に搾り出したような声で僕に詫びた。
「ごめんね。私、やっぱり、この部屋からは出られないみたい。せっかくランドに誘ってくれたのに、一緒に行けなくて、ごめんね」
僕は真澄を傷つけないような言葉をどうにか探そうとした。
「気にしなくていいよ。部屋の中でも二人で楽しめることはいくらでもあるよ。うん、そうだな、とりあえずトランプでもやろうか」
「うん、トランプ良いね」
もちろん、本当に良いと思っているわけではないことは、泣きそうな真澄の声で分かった。
「じゃあ、寝室の方でやろうよ。さあ、立って」
僕は真澄に手を差し伸べた。僕の手を取った真澄の手は確かに暖かかったが、やはり真澄はこの世のものではないのだという現実を僕は思い知らされた。
その後、僕たちは二人でできるトランプのゲームをつぎつぎと探しては遊び続けた。初めはこわばっていた真澄の顔もゲームを続けるうちに少しずつ笑顔になっていった。たとえ外に出られなくても、二人でトランプに興じることができるようになったのは僕たち二人にとって幸せなことだった。
二人でできるゲームを一通りやり終えた頃にはお昼が近づいていた。真澄は部屋の時計に目をやると僕に尋ねた。
「ねえ、お昼は何が食べたい?」
「そうだな、暑いから冷やし中華がいいかな」
「いいわね、じゃあ、お買い物をしてきてくれる?」
真澄は立ち上がってキッチンにあったメモ用紙をとペンを見つけると、冷蔵庫の中とキッチンのあちこちを調べた後、買い物のリストを作って僕に手渡した。
「とりあえず、これだけあればいいかな。ごめんね、私が行ければいいんだけど」
「気にすることはないよ、じゃあ、行ってくるね」
僕は部屋を出て自転車で近所のスーパーに出かけた。外食ばかりだった自分が二人分の昼食の買い物をしているのは何だか不思議な気分だったが、それはまた、嬉しくもあった。
真澄が作った冷やし中華は出来合いのスープを使ったものだったが、キュウリ、ハム、卵焼きといった定番のトッピングがきちんと並んでいてなかなかの味だった。
片付けが終わったところで真澄は遠慮がちにお願いをしてきた。
「実は純さんが買い物に行っている間にこれから必要になるもののリストを作っておいたの。本当に申し訳ないんだけれど買ってきてくれるかな?」
「もちろんだよ。」
「じゃあ、これ」
真澄は遠慮がちに僕にメモを差し出した。僕は真澄からメモを受け取り、それを畳んで財布の中に押し込んだ。
「少し大きめのバッグを持って行った方がいいと思うわ」
「そうだね」
僕は言われた通り大きめのバッグを探すと、それを抱えてドアに向かった。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「ああ、行ってきます」
部屋を出ると、僕はメモに書かれた日用品が置いてありそうな比較的近所のホームセンターに行き真澄のリストにある品物を買い揃えた。エプロンや弁当箱があることに笑ってしまった。真澄はこれから僕に弁当を作ってくれるつもりなのだ。手作りの弁当なんて一体いつ以来だろうかと思った。
八月十八日(火)
昼食が済んでしばらくしてから、僕は隣町の電気製品の店に自転車で向かった。そこで僕はゲーム機といくつかのゲームソフトを購入した。僕は本来ゲームなどしない人間だったが、部屋から出られない真澄と一緒に楽しめることは他にあまり思いつかなかった。ゲーム機は部屋まで配達してもらうことにした。配達は夜になるだろうということだった。
夕食の片付けが終わった頃、ドアベルが鳴った。電気店の店員がゲーム機とソフトを運んできてくれたのだ。
「こちらにサインをお願いします」
店員から差し出された用紙にサインをして僕は品物を受け取った。
「どうも、この度はお買い上げありがとうございました」
店員は礼を言うと足早に去っていった。
僕が受け取った荷物を部屋の中に入れると真澄が近づいてきた。
「純さん、何を買ったの?」
「ゲーム機だよ、真澄と一緒にやろうと思ってさ」
「私、ゲームなんてやったことないわよ」
「僕もだよ。だから有利、不利はなしで真剣勝負だね」
「ごめんなさい。私のためにお金を使わせてしまって」
「遠慮するなよ。僕がやりたいから買ったんだから」
それから、僕はゲーム機をテレビに接続して、とりあえずテニスのゲームをセットしてみた。その後、テレビの前に座布団を二つ並べてから真澄を呼んだ。
「ねえ、やってみようよ」
「私、ぜんぜんできる気がしないな」
真澄はあまり乗り気がしないという様子で僕の隣に座った。
いざ、テニスゲームを始めてみると、二人ともやり方がよく分からずまるで勝負にならなかった。次々と別のソフトを試してみたが状況はまるで同じだった。
「やっぱり、説明書をよく読んでからでないとダメみたいね」
真澄が早々にギブアップ宣言をしてゲーム初日はあっさりと終わった。
「私、純さんがアルバイトにいっている間に説明書を読んで勉強しておくね。そうして、純さんにやり方を説明してあげる」
「ああ、よろしく頼むよ」
そんな風にして、僕たちには歌以外にも一緒に楽しめることができた。
八月十九日(水)
僕はテニスゲームで真澄にコテンパンに叩きのめされた。
八月二十日(木)
僕はレースゲームで真澄にぶっちぎられた。
八月二十一日(金)
夏休みも終わりに近づいた金曜日の夜、夕食の片付けをしている真澄に僕は声を掛けた。
「町内会の掲示板で見たんだけど、明日、近くの河原で花火大会があるんだね」
「うん、ベランダに続くガラス戸越しに花火がよく見えるのよ。このアパートの前の道も浴衣を着た人たちがたくさん通るの」
部屋からでも花火が見えるというのは悪いことには思えなかったが、真澄の返事のし方は楽しげではなかった。にもかかわらず、僕は尋ねてしまった
「近くなら、真澄も河原まで見に行ったことがあるの?」
「ないわ、私ね、花火大会って行ったことがないの。田舎にはなかったし、東京に出てからはお金もなかったし、一緒に行く人もいなかったから」
「そうなんだ」
僕は花火大会の話を持ち出したのを少し後悔した。しかし、真澄は話題を変えようとはせず花火大会の話を続けた。
「初めて東京に来た年の夏はね、ガラス戸越しに花火を見たの。奇麗だったわ。でも、次の年からはカーテンを引いて見ないようにしたの。イヤフォンで音楽を聴いて花火も音も聞かないようにしてね」
「どうしてそんなことしたの」
僕はまた余計なことを言ってしまったと思ったが既に遅かった。
「浴衣を着て恋人と花火大会に行ける女の子たちが羨ましかったからかな」
「そうか」
二十歳前の女の子らしい話だと一瞬思ったが、真澄が続けたのはそんな甘い話ではなかった。
「私、花火大会って嫌いなの。私が死んだのはね、花火大会の日だったの。みんな浴衣を着て幸せそうに花火大会に出かけて行くのに、どうして、自分だけがこんなに不幸なんだろうって思ったら・・・」
「真澄、もういいよ」
僕は真澄の言葉を遮った。
「ごめんなさい。こんな話を聞かせるつもりじゃなかったのに」
泣き出しそうな声だった。
「僕の方こそ、ごめんね、鈍感で。真澄に辛い話をさせてしまったね」
真澄は何も言わなかった。代わりにすすり泣く音が聞こえた。
花火大会にそんな悲しい思い出があるとは僕は想像すらしていなかった。だが、その後、僕はそれを聞いたことは決して悪いことではないことに気づいた。真澄の悲しい思い出を消してあげることはできないが、これから良い思い出を作ってあげることはできると思ったからだった。
八月二十二日(土)
朝食が済むと僕は真澄に尋ねた。
「今日、少し遠くまで買い物に行ってきてもいいかな?」
「もちろんよ。ああ、ついでに夕食の買い物もお願いね」
真澄は前の晩のことを引きずっている様子はなく明るかった。
「ああ、分かっよ。悪いけどお昼は一人で済ましておいてくれないかな。どれだけ時間が掛かるかわからないから」
「うん、分かった。気をつけて行ってきてね」
「ああ、なるべく早く戻るようにするよ」
それから、僕はネットで少し下調べをして買い物に備えた。
午前十時過ぎ、僕はアパートを出て電車に乗り大きなデパートに出かけた。そこで、僕は慣れない買い物をした。店員さんに助けを乞いながらどうにか目当ての品々を買うことはできたが、買い物の間、不似合いな場所に自分がいることが恥ずかしくて仕方がなかった。
部屋に戻ったのは午後の三時頃だった。
「ただいま」
「お帰りなさい。早かったのね」
キッチンにいた真澄は読みかけの本に栞を挟むと僕の方に近寄ってきた。
「あら、結構な荷物みたいだけど、何を買ってきたの?」
僕はデパートの紙袋から箱を取り出すとそれを真澄に手渡した。
「気に入ってもらえると良いんだけどな」
「何かしら?」
「開けてごらんよ」
真澄は箱をテーブルに置いて腰かけると、丁寧に包装紙を取り去っていった。そして、箱を開けた瞬間、目を大きく見開いた。
「これって浴衣よね?」
「ああ、浴衣を着て花火大会に行きたかったって言っていたじゃないか」
真澄が浴衣を見つめたまま何も言えないでいたので、僕は言葉をつないだ。
「実は僕の分の買って来たんだ。今日は、この部屋で花火大会をしようよ。夜店で焼きそばとか買ってきてさ」
少し時間が経ってから真澄はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう」
そう言った後、改めて浴衣を見つめた真澄の目からは涙がこぼれ始めていた。
夕方、僕は卓袱台代わりになりそうなものを探した。冬物のセーター等が入っていたプラスチックのケースをとりあえずベランダに続くガラス戸の前に置いた。そして、その後ろに座布団を二つ並べてから真澄に声を掛けた。
「じゃあ、食べ物を買いに行ってくるけど、何か食べたいものは有る?」
「何でも良いわ。ああ、そうだ。私、イカ焼きが食べてみたいな」
すっかり明るさを取り戻した真澄は興奮気味に返答した。
「うん、分かった。探してみるよ」
僕は立ち上がり、バッグを掴むとドアに向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
真澄の声に見送られてアパートを出ると、僕は自転車で花火大会が行われる川辺の方に向かった。その途中で、僕はたくさんの浴衣姿のカップルを追い越していった。川辺に腰を下ろして間近で花火が見られる彼らが僕は少し羨ましく思えた。
花火大会の会場に着き、自転車を指定された場所に止めると、僕は土手に上がった。土手の斜面はもう既にたくさんの見物客で埋め尽くされていた。僕は土手の上の道沿いに並んだ夜店を見て回った。真澄が食べたいと言っていたイカ焼きはすぐに見つかった。その後、僕はお好み焼きと焼きそばを買い、更にはデザート代わりに綿菓子まで買ってしまった。
それから、僕は人の流れに逆らうようにして町中に戻りスーパーに入った。缶ビールをたっぷり買い込んでから僕は部屋に帰った。
「お帰りなさい。」
帰宅した僕を迎えた真澄は既に浴衣に着替えていた。
「浴衣、どうかしら?」
真澄は少し恥ずかしそうに尋ねた。
「似合っているよ。とても奇麗だ」
「ありがとう。嬉しいわ。お世辞でも」
「お世辞なんかじゃないよ」
確かにそれはお世辞などではなかった。浴衣姿の真澄はオンボロアパートには似つかわしくない程に美しかった。
僕はまずビールを全て冷蔵庫の中に入れた。買ってきた食べ物をテーブルの上に並べていると真澄が声を掛けてきた。
「せっかくだから、食べ物はお皿に盛り付け直すね。少し温め直した方が美味しいと思うしね」
真澄は上機嫌だった。
「そうか、すまないな」
そう言いながら僕は冷蔵庫からビールを一つ取り出すと、椅子に腰を下ろして飲み始めた。自転車を漕ぎ汗をかいた体にはビールは正に命の水だった。
「ごめんね。暑かったから疲れたでしょう」
「いや、おかげでビールが最高に旨いよ」
「花火が上がる前から飲んでいたら最後はベロベロになっちゃうよ」
真澄が小言めいたことを言ったが僕はやんわりとやり返した。
「大丈夫だよ、こう見えても結構お酒は強いし。明日も休みだからね」
僕は残りのビールを更に口に運んだ。
「純さん、シャワーを浴びて、浴衣に着替えたら?きっと、さっぱりすると思うわ」
「そうだね、そうしよう」
僕は真澄に言われるまま、シャワーを浴び浴衣に着替えることにした。
シャワーを浴びた後、僕は浴衣を着た。真澄はキッチンに立ち、僕が買ってきた食べ物を皿に移しラップを掛けていた。
「どうだろう。似合うかな?」
僕が声を掛けると真澄は振り向いて一瞬笑い出しそうな顔をした。
「うん、似合うわよ」
真澄の顔には嘘だと書いてあった。
「嘘だろう。本当はそう思ってないんだろう」
「ううん、本当にカッコ良いわよ」
そう言いながらも、真澄は今にも笑い出しそうだった。
「真澄は嘘が下手すぎるよ」
「あはは、バレたか。やっぱり純さんは英文科ってイメージだからなあ。でもね、一緒に浴衣着てくれたことは、私、本当に嬉しいの。それは絶対嘘じゃない」
真澄は真剣な目で僕を見た。確かにその言葉には嘘はないのだろうと思った。
部屋の外がすっかり暗くなり花火大会の開始の時間が迫った頃に、僕たちはガラス戸の前に用意した座布団に腰を下ろした。部屋の明かりはもう消してあり、卓袱台代わりのケースの上には既にビールも用意されていた。ガラス戸の向こうの夏の夜空を見ながら、僕たちは黙って花火が始まるのを待った。
しばらくして、最初の花火が空を染めた。そして、少し遅れて花火が弾ける音が僕たちの元に届いた。
「じゃあ、乾杯しようか」
「そうね」
僕はビールの缶を開け中身を真澄のグラスに注いだ。その後、真澄が僕のグラスにビールを注いでくれた。
「乾杯」
僕たちは声を揃えてグラスを合わせた。そして、二人とも一気に中身を飲み干した。
「旨い、こんな旨いビールは初めてだ」
僕がそう言うと真澄も同調した
「生きているうちは未成年だったから、飲んだことなかったけど、ビールって美味しいのね」
僕たちはすぐにビールを継ぎ足して、しばらく黙って、次々と打ち上がる花火に目を凝らした。花火を見つめる真澄は心底嬉しそうだった。
その後も次々と花火が打ち上がり夏の夜空を照らした。僕たちは買ってきたものを食べ、ビールを飲みながら、二人きりの花火大会を楽しんだ。その間、僕たちはほとんど口をきかなかった。ガラス戸の向こうに打ち上がる花火をただただ見ていた。光と音に彩られた時間は実に穏やかだった。
僕と真澄の暮らしはやはり普通とは言い難く、思うに任せない部分もあった。しかし、花火を見ている間はそういうことを全て忘れていた。二人並んで花火を見ているだけで僕はとても幸せな気分だった。
花火大会がフィナーレに近づいた頃には、ビールも食べものも全てなくなり、デザート代わりの綿菓子もなくなっていた。フィナーレのスターマイン、いわゆる一斉打ち上げの仕込みに時間が掛かっているのか、花火の打ち上げが途切れた時に少し寂し気に真澄がつぶやいた。
「もう夏も終わりだね」
「うん、まあ、そうだね」
そうは言ったものの、夏休みはまだたっぷりと残っていたので、夏が終わるという実感はまだ僕にはなかった。しかし、真澄は僕とは違っていた。
「夏の終わりって、なんか切ない気分にならない?」
真澄は妙に感傷的だった。
「そうだね、僕もそう思うよ。」
僕は深い考えもなく真澄に同意した。
「日本には春も、秋も、冬もあるのに、どうして夏の終わりだけが切ないのかな?」
真澄はそれが究極の疑問であるかのようにつぶやいた。
「さあね、夏は開放感のある季節だからかだろうか?お盆や夏休みもあるけど、それが終わるとまた現実に戻らなければならないしね」
僕が並べたありふれた理屈は何一つ真澄の疑問に対する答えになっていないような気がした。
「私ね、夏の終わりがこんなに切なく思えたことがないの。今年の夏は良いことが色々あったせいかな?」
真澄はどこか遠くを見つめるような眼をして話を続けた。
「初めて純さんの歌を聴いた時、とても感動したわ。それと約三十年ぶりに人と話ができてとても嬉しかった」
「あの頃はまだ真澄の声が聞こえるだけだったね」
随分昔の話のような気もしたがほんの四週間前の出来事だった。
「あの頃は、私も、まだ生きている振りをしていたのよね」
真澄は後ろめたいものの言いようをした。
「純さんの歌作りのお手伝いができたのもとても楽しかったわ」
「いや、こちらこそお礼を言わないとね。本当に助かったよ」
わずか十七日間で六曲もの歌ができたのは単なる手助けのおかげとはとても思えなかった。真澄の存在自体が僕に何か特別な力を与えてくれたようにしか思えなかった。
「西表のビデオも嬉しかったな」
「あんな急ごしらえのものを褒められると恥ずかしくなるよ」
今ならばもっと良いものが作れそうな気がした。真澄が喜ぶのならば九曲全てのビデオを作っても良いと思った。
「でも、やっぱり一番感動したのは指輪をもらった時かな」
真澄は左手を顔の前に近づけると、手のひらを何度か裏表にしながらまじまじと指輪を見つめた。
「そんな安物でそこまで喜ばれると申し訳ない気分になるよ」
「ううん。大切なのは気持ちだから。どんなに高価な宝石でも気持ちがこもってなかったらただの石ころと一緒だから・・・なんてちょっとカッコつけすぎかな。売れば大金になるものね」
「そうだね」
真澄は左手を下げると右手の親指と人差し指で指輪に触れた。指輪が確かにそこにあることを感じていたいような仕草だった。それから、真澄は何故だか奈々さんの話を持ち出してきた。
「奈々さんの話も、とても素敵だった。私も、そんな風にカッコ良い女になりたいと思ったわ。」
「欲張りだな。真澄は今のままではまだ満足できないの?」
「そんなことないよ。私は十分に幸せよ、十分過ぎるくらい」
「それならば良かった」
僕も十分過ぎるくらい幸せだとは、恥ずかしくてとても口にできなかった。
奈々さんに関する真澄の話は更に続いた。真澄はまるでこの夏の全てを語り尽くしたいようだった。
「私、奈々さんにも会ってみたかったな。とても素敵な人だったのでしょうね。でも会ったら、自分なんてとても太刀打ちできないと思うだろうな」
「どうして、そんなに奈々さんと自分を比べるの?真澄に出会えたから、奈々さんのことはもう思い出にできたよ。今、僕が一番好きなのは真澄だから」
「嬉しいこと言ってくれるね」
そう言うと真澄は僕の肩に体を預けてきた。
次の瞬間、花火が空一面を覆いつくした。
「ねえ、純さん・・・」
真澄がか細い声で何か言いかけたが、その言葉は遅れてやって来た花火の轟音にかき消された。花火大会の終わりを告げる一斉打ち上げはしばらく続いた。空を埋め尽くす花火の群れを、僕はこの目に焼き付けておきたいと思った。真澄もきっと同じことを考えているよう気がした。
しかし、夜空を染める花火の光は束の間で、後に残ったのは都会でも見えるわずかばかりの星の光だけだった。
八月二十三日(日)
夕食の片付けが終わると、真澄は食卓の椅子に腰を下ろし神妙な顔で僕に言った。
「純さん、実は、お話があるんです」
その言葉を僕は前の晩から予期していた。最後の花火が上がる前に言いかけたことを言おうとしているのだと僕は確信していた。良い話ではないのだろうと僕は覚悟を決めて真澄の向かいに座った。僕を前にして真澄は一瞬ためらったように見えたが意を決したように話し始めた。
「純さん、私、もう長くは、ここにいられないみたいなの」
僕は激しく動揺した。だから、次の言葉は真澄を問い詰めるような口調になってしまった。
「それってどういうこと?」
「どうやら私、成仏してしまうみたいなの」
真澄は自分でもまだ確信を持ち切れていないようだった。
「成仏って?」
「私、地縛が解けて次の世界に旅立てるようになったみたいなの」
真澄の不確かなことを語る口調に変わりはなかった。
「どうして地縛が解けたの?」
「たぶん、純さんに出会ってこの世で幸せになれたからだと思う」
推測を語る真澄の表情は苦しそうでもあり、また、僕への感謝を伝えたいようにも見えた。
「留まることはできないの?」
「うん、無理みたい。」
真澄の表情が明らかに辛そうなものに変わった。
「どうしてそう思うの?」
どこか非難をしているような自分がひどく嫌になった。真澄は申し訳なさそうに理由を語った。
「実はね、昨日の夜に気づいたの。自分をここに縛っている力が薄れていることに。でも、同時に自分の体から力がなくなり始めたことにも気づいたの」
「昨日、言いかけたのはそのことだったんだ」
僕の悲しい予想は当たっていた。
「うん。でも昨日はとても良い夜だったから言い出せなかったの」
真澄がこの夏の思い出をあれこれと語り続けた理由が悲しいほどに良く分かった。
真澄は辛そうに話の続きを切り出した。
「純さん、私はたぶん来た道を戻って行くんだと思うの。もうすぐ触れ合うこともできなくなって、やがては姿も見えなくなって、最後は声も聞こえなくなってこの世から消えてゆくんだと思う」
やり切れない怒りが僕の口調を乱暴なものにした。
「どうして、どうして真澄がそんなひどい目に合わなければいけないんだ。真澄は何も悪いことなんかしていないじゃないか」
真澄は微かな笑みを浮かべると、僕の怒りを鎮めるように柔らかな答えを返した。
「純さん、それは違うわ。地縛霊が成仏できるってことはとても幸せなことなの。私は長い苦しみからやっと解放されて次の世界に旅立てるの。だから、ひどい目に合う訳じゃないのよ。私は幸せになるのよ」
「僕と別れることが真澄にとって幸せだってことなのか?」
言った直後、僕は自分を殴り倒したくなった。真澄は申し訳なさそうに次の言葉を紡いだ。
「違うわ。どうか、それとこれを一緒にしないで。私も、できることなら純さんとずっと一緒にいたい。でも、私の意志ではどうすることもできないの」
「本当にどうしようもないのか?」
まだそんな言葉を吐いている自分が惨めだったが僕は聞かずにはいられなかった。
「無理みたい。でも、皮肉なものね。純さんに出会って幸せになれたから、お別れしなければならないって」
僕が何も言えないでいると真澄は次の言葉をつないだ。
「でも、信じてね。私は本当に幸せなの。可哀そうだなんて思わないでね。純さんと出会った時、私はもう死んでたんだから。生きている人が亡くなることは不幸なことかもしれないけど、死んだ人間が成仏できることは幸せなことなのよ」
僕は真澄の顔が見られなくなった。俯いて何も言えずにいると真澄が優しい言葉を掛けてくれた。
「純さん、悲しまないで。私は今、とても幸せだから。それに、まだ少しだけど時間があるから。だから、旅立ちの時が来るまで今まで通り一緒にいてほしいの。少しずつ一緒にできることは減ってゆくと思うけどね。でも、まだ触れ合える。触れ合えなくなっても微笑み合える。姿が見えなくなっても歌は一緒に歌えるわ」
とてつもない無力感が僕を襲った。そして、それはそのまま言葉になった。
「真澄、僕は、これからどうすればいいんだ?僕は、これから君のために何をしてあげられるんだ?」
「何もしなくていいわ。ただ一緒にいてくれるだけでいいの。純さんには、もう十分に幸せにしてもらったわ。もうこれ以上、望むことは無いわ。でも、純さんが辛くても、この部屋から出てゆくことだけはしないで。私が旅立つまで私を一人にしないで。私の傍にいて。それが最後のお願いかな」
僕が何も言えず俯いたままでいると真澄が席を立つ音がした。その後、背中から僕を抱きしめる真澄の温もりを感じた。目に涙が滲んだ。
「ごめんね、純さん。私、普通の女じゃなくて」
その声を聞いて続く僕の言葉は涙交じりになった。
「真澄に出会って、せっかく奈々さんのことも思い出にできたのに、これじゃあ、降り出しに逆戻りじゃないか」
「そうかもしれないわね。でも、そういうことを繰り返して人は大人になってゆくんじゃないかしら。大人になる前に死んでしまった私が言うことじゃないかもしれないけど」
真澄はそこで一度言葉を切るとハンカチを出して僕の涙を拭った。
「純さん、どうか笑顔で見送ってくれないかな?ああ、ごめんね。最後のお願いがたくさんできちゃったね。お化けのくせに私って欲張りな女だね」
「自分のことをお化けだなんて言うなって言っただろう」
「ごめん。そうだったね」
僕を抱きしめる真澄の力が強くなった。僕は頭の中が真っ白になって何も考えることができなくなった。
八月二十四日(月)
前日の夜、台風十五号は石垣島で観測史上最高の風速七十一メートルを記録していた。その影響かその日は東京も曇りで、気温は二十九度までしか上がらなかった。
夜、ゲームをしている時に僕は小さな異変に気が付いた。それまで、ゲームではいつも真澄が優勢だったが、その日、僕は次々と勝ちを重ねた。
「純さん、強くなったね」
真澄は苦笑いをした。
しかし、僕が強くなったわけではなかった。真澄が弱くなったのだ。コントローラーを操作する真澄の手つきがおぼつかなくなっていたのだ。真澄の手はもう素早くかつ細かい操作についていけなくなっていた。
それが僕たちがゲームをした最後になった。
その日は、もう一つ特筆すべきことがあった。
いつものようにガラス戸の前で座布団に腰を下ろして三線の調弦をしていると、真澄が妙なお願いをしてきた。
「純さん、もう一度私の指に指輪をつけてもらえないかな」
真澄はいつのまにか外していた指輪を収めたケースを僕に差し出した。
「いいよ」
箱を受け取りながら僕は笑顔で答えた。
「ありがとう。」
そう言って僕の右隣に座ると真澄はお願いの追加を申し出た。
「指輪をつけてもらう前に、『南十字の下で』を歌ってくれないかな」
「お安い御用だよ」
僕は調弦を済ませると真澄の望み通りに歌を歌った。真澄は目を閉じて僕の歌に聞き入っていた。あのプロポーズの夜に思いを馳せているように見えた。
歌い終わると僕はケースを持って真澄の前に移動して腰を下ろした。
「じゃあ、左手を出して」
僕がそう言うと真澄は嬉しそうに左手を差し出してきた。僕はケースから指輪を取り出した。あの日とは違い「振り」ではなかったので、ごく自然に指輪は真澄の左手の薬指に収まった。真澄は左手を顔の前に置いて、まず手のひら側から、それから手首を返して手の甲側から指輪を見つめた。その後、両の手のひらを右手を上にして重ねて胸に押し当てると、目を閉じてお祈りのようなことをした。僕はただ黙ってそんな真澄の様子を眺めていた。
真澄は大きく一つ深呼吸をすると瞼を開き、遠くを見るような眼をしてつぶやいた。
「よし、これでもう大丈夫」
何が大丈夫なのかは僕にはわからなかった。そんな僕の様子に気づいてか、真澄は遠慮でもしたかのように小さな声で僕に語り掛けた。
「純さん、ケースをくれるかな?」
「ああ」
僕は言われるままに真澄にケースを手渡した。真澄は薬指から指輪を抜くとそれをケースに収めた。蓋は開けたままだった。真澄は立ち上がると机の方に向かい、蓋が開いたままのケースを机の上に置いた。
「これで良いわ」
真澄はそう宣言すると戻ってきて座布団に腰を下ろした。
なぜ指輪を外したのか、僕は理由を聞きたそうな顔をしていたのだろう。真澄は自分からその理由を語り始めた。
「ゲームをしている時に純さんも気が付いたと思うけど、私の体、そろそろ限界みたい。私ね、純さんにもらった指輪が薬指からこぼれ落ちて床に転がるところを見たくなかったの。だから、そうなる前に外したの。指輪にきちんとお礼とお別れを言ってからね。あそこに置いてあるけど、私の気持ちとしては指輪はいつも薬指にあるのよ」
真澄の顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
「それと、純さんにお願いがあるんだけど」
真澄の改まった口ぶりはお願いの大変さを予感させた。だから、僕は敢えて冗談めかした対応を取った。
「欲張りだな、お願いが多すぎないか?」
「そうね、でもこれで、たぶん本当に最後だから」
真澄の目が急に真剣な光を帯びた。僕は冗談めいた対応を取ったことを少し後悔した。
「冗談だよ。真澄のお願いならいくつでも聞いてあげるよ」
「気前がいいのね。そんなに大風呂敷を広げて後で後悔しても知らないわよ」
「後悔なんかしないよ。それで何をすればいいの?」
真澄はその後の僕の反応を予想してか、少しためらった後、静かにお願いの内容を語った。
「私がいなくなったら、あの指輪を竹富島のカイジ浜の砂の中に埋めてほしいの」
驚いた。嫌だと思った。聞けない願いだと思った。
「どうして、そんなことをしなければならないの?大切な思い出の品なのに」
興奮気味に話す僕を諭すように、真澄はお願いの理由を明らかにした。
「私はね、純さんには、別れた女との思い出の品をいつまでも持っているような人になって欲しくないの」
「そんなことを言ったら、奈々さんにもらった三線だって同じじゃないか」
少し怒りのこもった僕の言葉を真澄は優しく否定した。
「それは違うわ。奈々さんの三線は純さんに希望を与えてくれた。そして、今も純さんの歌作りに役立っている。これからも純さんの未来を作ってくれる。でも、私の指輪は純さんに何も与えてはくれないわ」
「そうかもしれないけど」
真澄の方が正しいような気がした。しかし、認めたくはなかった。
「純さんには、私のこともきちんと思い出にして欲しいの。奈々さんのことを奇麗な思い出にできたようにね。だから、カイジ浜に来た時だけ、私のこともちょっとだけ思い出してくれたら嬉しいな。それが私の本当に本当の最後のお願いかな」
「どうしても、そうしなければいけないの?」
したくなかった。だが、まだそんな質問をしている自分が弱虫の子供のような気がした。
真澄は僕の子供じみた抵抗を打ち砕くかのように、もっともな理屈で答えてきた。
「うん、私がもらったものだから、私の好きにする権利はあると思うな」
「そう言われると返す言葉がないけど」
僕がそう言うと、真澄はまるで小さな子供をあやす母親のように確認を求めてきた。
「じゃあ、私の最後のお願い、聞いてくれるよね?」
「ああ、わかった」
僕にはもうそう答えるしかなかった。
「じゃあ、約束ね」
真澄が小指を差し出してきた。僕は自分の小指を絡めて辛い約束をした。やがて失われるだろう温もりは、まだしっかりと真澄の小指から伝わってきていた。
八月二十五日(火)
その日、台風は熊本に上陸して大きな被害が出ていた。東京は曇りで最高気温は二十二度までしか上がらなかった。台風が連れ去る前に夏はもう早々に逃げてしまったかのようだった。
夕方帰宅すると、真澄は浴衣に着替えていた。
「どうしたの、浴衣なんか着て?」
僕が尋ねると真澄は照れ臭そうに笑った。
「うん、せっかく買ってもらったのに、まだ一度しか着ていないから、もったいない気がして」
「そうか、うん、良いよ。とても奇麗だ」
真澄の浴衣姿はやはり奇麗で僕の言葉はお世辞ではなく本音だった。
「ありがとう」
真澄はとても明るい笑顔で答えたが、つい先日着たばかりの浴衣をまた着ようと思った真澄の気持ちが何に由来するのか分らなかった。
僕がリュックを下ろして部屋着に着替えようとしていると、キッチンから真澄の声がした。
「純さんも浴衣になってね。この前の花火大会、とても楽しかったから。もう一度やろうと思って」
「花火が上がらないんだから、花火大会のしようがないじゃないか」
真澄の提案にはさすがに少し腰が引けた。
「まあ、そうだけど。浴衣着て、ちょっと気分だけでも味わいたいの」
正直僕は乗り気ではなかったが真澄の勢いに負けた。
「まあ、そういうことなら付き合うよ」
「ありがとう。ああ、夕食はもうレンジで温め直すだけになってるから、純さんはこの前みたいにガラス戸の前に席を設けてくれるかな?」
「いいよ」
そう答えてから、僕は押入れから前に使った冬物の洋服用のケースを取り出して前回同様にガラス戸の前に置いた。座布団も二枚並べた後で試しに腰を下ろしてみた。
ガラス戸の向こうには曇り空があるばかりで星の一つも見えなかった。これでは浴衣を着てみたところでとても花火大会の気分にはなりようがなかった。何か良い方法はないものかと思った時に名案が浮かんだ。
僕はケースと座布団を寝室のテレビの前に移動させた。そしてテレビにノートパソコンをつないだ。僕が思いついたことはどうやら思った通りうまくいきそうだった。準備が済んだのでとりあえず僕は電源を切り、夕食になる前にシャワーを浴びることにした。
僕はシャワーを浴びると浴衣に着替えた。それから、ケースの上にビール用のグラスを用意した後、キッチンにいる真澄に声を掛けた。
「こっちは用意できたよ」
「あれ、どうしてベランダの方じゃなくてそっちに席を作ったの?」
別の場所に席が設けられているのを見て真澄は少し怪訝そうな顔をした。
「せっかくだから、ヴァーチャル花火大会にしようと思ってさ」
「何それ?おばさんにもわかりやすいように言ってくれないかな?」
「まあ、すぐにわかるよ」
「そう。じゃあ、食べ物を温め直すね」
真澄はラップの掛かった皿をレンジにかけた。その間に僕は冷蔵庫からビールを二つ取り出してケースの上に並べた。それから、テレビとノートパソコンの電源を入れて座布団の上に腰を下ろした。
「はい、まずは焼きそばからね」
真澄は温め直したやきそばの皿を卓袱台代わりのケースの上に置いて僕の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、ヴァーチャル花火大会を始めようか」
「何が始まるのか楽しみね」
真澄はどこか楽しげだった。
僕は立ち上がると部屋の明かりを消した。ノートパソコンのデスクトップを映したテレビの画面がやけに明るく見えた。再び腰を下ろしてノートパソコンを操作してネットにつないだ。動画サイトで検索すると使える映像はいくらでもありそうだった。
「じゃあ、とりあえず両国からいってみようか」
僕は両国の花火大会の映像を選び再生ボタンを押した。すぐさまテレビ上では光と音のショーが始まった。真澄は夢見心地で画面に見入っていた。
「じゃあ、乾杯しようか」
僕がビールの缶を開けると真澄が自分のグラスを差し出した。僕はそこにビールを注いだ。続いて自分のグラスにもビールを注ぐとグラスを二人の間に掲げた。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
僕たちはグラスを合わせると、あの日と同じように一気に飲み干した。前回の乾杯の時、僕はえらく浮かれていた。しかし、今は楽しいのと同時に、寂しさもまた深くなっていた。こんな風に一緒にビールが飲める日がいったい後どれだけ続くのか、それを考えずにはいられなかった。でも、僕はそれを顔に出さないように努めた。たぶんそれは真澄も同じだったに違いなかった
僕たちはひたすら全国の花火大会の映像を見ながら、真澄が用意してくれていた焼きそばやお好み焼きといった夜店メニューを楽しみ、ビールを飲み続けた。
その間、僕は何度も真澄の顔を横目に見ていた。明かりの消えた部屋で様々な色に照らされる真澄の顔が悲しいくらいに美しく見えた。
真澄がいなくなるなんて嘘であってほしい。真澄の勘違いであってほしい。僕はまだそんなことを願っていた。しかし、僕のそんな淡い期待はすぐに打ち砕かれることになった。
ヴァーチャル花火大会が終わり真澄が片付けをしている間に、僕はテレビの前でビールの最後の一缶と向き合っていた。飲み終わるのを待っていたかのように真澄が僕の隣に腰を下ろした。そして、無理やり絞り出したような声で妙な花火大会の趣旨を告げた。
「あのね、純さん。今日は私のためにヴァーチャル花火大会までしれくれてありがとう」
真澄は僕の言葉を待たずに次の言葉を続けた。
「私が今夜、浴衣を着たのは実はちょっと理由があったの。単刀直入に言うわね。私たちが触れ合えるのはたぶん今夜が最後になると思うの。だから、今夜は少しお洒落して見たかったの。それで、浴衣を着たの」
胸がつぶれそうな気がした。
「だからお願い。今夜は朝まで・・・」
僕は真澄を抱き寄せると言いかけた言葉を唇で塞いだ。切なかった。ただただ切なかった。明日の朝には消えてしまうだろう真澄の温もりがどうしようもないほど愛おしかった。
八月二十六日(水)
朝、目が覚めた瞬間、真澄がもういなくなっているのではないかという不安に駆られた。慌てて横を向くと真澄の顔がすぐそばにあった。真澄は横向きに寝て僕の寝顔をのぞき込んでいたようだった。
僕は左手を伸ばして真澄の頬に触れようとした。しかし、僕の左手は空を切った。真澄の姿はまだしっかりと見えるのに、僕はもう真澄に触れることができなくなっていた。
「ごめんね」
真澄は寂しそうに笑った。
「謝らなくていいよ。真澄のせいじゃないんだから」
真澄の目から涙が溢れやがて枕の上に落ちた。しかし、それが枕カバーを濡らすことはなかった。それを見た瞬間、僕の中で強がりの糸が切れた。
「真澄、僕も一緒に連れて行ってくれないかな?もう置いていかれるのにも疲れたよ。真澄なら僕を一緒に連れていけるんじゃないか?」
真澄はとても悲しそうな目で僕を見た。
「純さん、私にはそんな力はないわ。たとえあったとしても絶対にそんなことはしないわ」
「どうしてだよ?」
少し感情を荒げた僕の顔を見て、真澄の表情が更に悲しみの色を増した。
「そんなことをしたら、奈々さんや純さんのご両親に申し訳ないもの。純さんは置き去りにされたって言ったけど、奈々さんも好きで純さんの元から離れていった訳じゃなしでしょう。別れたくなかったけど仕方がなかったのよ。それは私も同じ」
真澄は例えようもないほど美しい笑みを浮かべると、幼い子供に言って聞かせるように優しく僕に語り掛けた。
「純さんには純さんを必要としている人がたくさんいるでしょう。だから、純さんを一緒に連れていくことなんか絶対にできないわ」
真澄はもう触れることのできない僕の頬に手を当てた。真澄の手の温もり感じられなかったが真澄の思いは嫌というほど伝わってきた。
「ねえ、純さん。私と一緒に行きたいなんて言わないで。純さんがそんな風だったら、私、安心して成仏できないわ。私が安心して旅立てるように笑顔で見送ってくれないかな?」
僕を見つめる美しい真澄の姿もやがて見えなくなるのかと思ったら、残されることに耐えきれないような気がした。そして、すぐさま自分の弱さに嫌気がさした。笑顔で見送るという約束をしたはずだった。だが、自分にはそれができなかった。約束も守れず、僕より辛いはずの真澄に弱音を吐いてしまった自分が情けなかった。もう二度と泣くまいと思った。
「真澄、ごめん。馬鹿なことを言って」
「私の方こそ、ごめんね。もう涙も拭いてあげられないから、どうか笑顔でいてね」
真澄の言葉を聞きながら、まだ零れてくる涙を抑えきれない自分がとんでもない弱虫に見えた。
「じゃあ、行ってきます。」
「ちょっと待って」
僕がバイトのために部屋を出ようとすると真澄に呼び止められた。
「お弁当があるの」
もう弁当はないものだと思っていたので少々意外だった。
「昨夜作っておいたの。ごめんなさい。冷蔵庫の中から持って行ってくれるかな?」
真澄は少し申し訳なさそうな顔をした。今までは玄関口で僕に手渡してくれていたのだが、今はもうそれはかなわなかった。
僕は引き返し、冷蔵庫を開けると、中に納まっていたお弁当のバッグを取り出してそれをリュックに収めた。
「残さずにきちんと食べてね」
真澄はなんだか嬉しそうに見えたが、それが見せかけであることは容易に想像がついた。
「ありがとう。じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
前日までは、真澄の声に送られてバイトに向かうことも当たり前のことのように思えていた。しかし、いざ真澄と触れ合うことができなくなってみると、一気に逃れられない現実を突きつけられたような気分になった。あと何回、僕は真澄の声に送られてバイトに向かうことができるのだろうか。僕はそんなことを考えながらアパートの階段を降りた。
お昼時、弁当箱を開けたら胸が痛んだ。僕の好きなものばかりがこれでもかというほど詰め込まれていた。見た目も色鮮やかで、真澄が最後の弁当にかけた思いが痛いほど伝わってきた。僕は真澄の気持ちを無駄にすることのないように、じっくりと時間をかけて最後の弁当を味わった。
「ただいま」
帰宅時、僕はなるべく明るい声になるように努めて部屋のドアを開けた。
「お帰りなさい」
真澄の声も明るかった。
「お弁当、力作だったね。とても、美味しかったよ」
僕はいつものようにリュックから弁当のバッグを取り出すと、それを真澄の前に差し出した。その瞬間、真澄の笑顔が曇った。しまったと思ったが後の祭りだった。
僕は真澄の表情には気づかないふりをして流し台に向かうと、黙って弁当箱を洗い水切りの籠の中に収めた。それきり、弁当箱が使われることは二度となかった。
その後は、二人とも何事もなかったように過ごした。今まで通りにガラス戸の前に座布団を二つ並べて腰を下ろし一緒に歌を歌った。触れ合うことはできなくなっても、一緒に歌う時間は楽しいものだった。しかし、そうこうしているうちに、僕は真澄に促された。
「純さん、夕食まだでしょう。そろそろ食べに行かないとお店閉まっちゃうよ」
「ああ、そうだね。じゃあ、行ってくるよ」
そう言って僕は財布と携帯だけを持って部屋を出た。
真澄が食事を作ってくれるようになる前によく行っていたラーメン屋に僕は足を運んだ。結構好きだった味噌ラーメンもまるで味がしなかった。一人きりで外で食べる夕食は妙に侘しかった。
八月二十七日(木)
朝、部屋を出る時、僕を見送る真澄の姿に変化が見られた。輪郭が少し怪しくなり始めていた。帰宅した時には更に少し輪郭がぼやけていた。僕はそれに気づかないふりをした。真澄自身も自分の体の変化には気づいているのだろうが何事もなかったように振舞っていた。
その夜、いつものように二人で歌っている途中に、急に真澄が改まった顔をして僕に言ってきた。
「ねえ、純さん。『新城哀歌』のことなんだけど、コンピューターのソフトに歌わせるのは止めにしてくれないかしら?」
「ええ!どうして?」
真澄の声は録音ができない。だから、それ以外の方法は無いと思っていたので意外な依頼だった。
「私としてはね、それじゃあダメな気がするの。やっぱりあの歌は歌詞の最後にある通り、『運命を受け入れて、新たに歩き出す』ための歌だと思うの」
「だったら、どうすればいいと思うの?」
真澄は少し言い出しにくそうな顔をした。
「純さんが、誰か他の人と出会って私のことを思い出にできたら、その人に歌ってくれるように頼んで欲しいの。そうすれば、あの歌もきっと報われると思うの」
僕は簡単には真澄の考えに賛成はできなかった。真澄と出会って奈々さんのことを思い出にできた僕は、いつか別の誰かと出会って真澄のことを思い出にする。そんなことを繰り返して人は大人になってゆくのだと、かつて真澄は僕に言った。たぶん、真澄の考えは間違っていないとは思ったが、今はそういうことを考えたくなかった。
黙り込んでいると、真澄は僕の心を読んだかのように笑顔を浮かべた。
「じゃあ、お願いね」
真澄は僕に反論の機会を与えなかった。何も言わせないことが真澄なりの優しさなのだと僕には分かっていた。
八月二十八日(金)
朝、部屋を出る時、真澄の輪郭は更に霞み、体を通して後ろの部屋の壁が見えるようになっていた。真澄の姿が見られるのも、もうあとわずかだと思わざるを得なかった。帰宅した時にはもう見えなくなっているのではないかという不安に襲われたが、僕はいつも通りに部屋を出てバイトに向かった。
夕方、帰宅すると、真澄の姿はまだ消えてはいなかった。しかし、その姿は更に透明度が増していた。真澄の姿が見えるのは今日限りだろうという気がした。だから僕は、いつもとは少し違うことをしてみることにした。少しでも長く真澄の姿を見続けるためにそうしようと思った。
いつも一緒に歌を歌う頃合いを見て、僕はガラス戸の前に並んでいた座布団の内のひとつを、反対側、つまりキッチンとの境に移動させた。ギターと三線の調弦を済ませてからキッチンにいた真澄に声を掛けた。
「真澄、今日はそっち側に座ってくれないかな?」
僕はキッチンの側の座布団を指さした。
「いいけど、どうして?」
僕は一呼吸おいて自分の思いを真澄に伝えた。
「今日はね、真澄に一人で歌ってほしいんだ。僕の声なんて混ぜずに、純粋に真澄の声だけを聴いていたいんだ」
真澄の姿をじっくりと目に焼き付けておきたいという、もう一つの目的は口にしなかった。
「分かったわ。こっちで一人で歌えばいいのね」
真澄はそれ以上何も口にせず素直に座布団に腰を下ろした。しかし、僕が口にしなかった意図には気づいていたに違いなかった。真澄の歌声に耳を澄ませるだけなら座布団の位置を移動する必要はなかったからだ。
真澄の姿は帰宅時よりも少し色褪せたように見えた。裏腹に背にしたキッチンの様子がより色濃く見えるようになっていた。
それから僕は真澄に沢山の歌を歌ってもらった。八重山の歌はもちろん、真澄と僕が知っている歌をとにかく片端からやってもらった。真澄が両親と同世代で、歌の好みも比較的に通っていたことも幸いした。
真澄が歌っている間、僕はずっと真澄のことを見つめていた。真澄も決して瞳をそらすことなく、まっすぐに僕を見つめ返していた。もうすぐ見つめあうことすらできなくなることを僕たちはしっかりと自覚していた。
僕は何度も泣きたくなるのを堪えて、ひたすら三線やギターを弾き続けた。それに合わせた真澄の歌声は、悲しいくらい美しく、透き通っていた。
その夜、明かりを消して、すっかり万年床が定着してしまった布団に横になった。すぐ傍に真澄の横顔があった。部屋の中に漏れてくる微かな街頭の光の中に、真澄の美しい横顔は今にも解けてしまいそうだった。
真澄の姿を見たのはそれが最後だった。
八月二十九日(土)
「おはよう」
目が覚めると、すぐ傍で真澄の声がした。しかし、僕にはもう真澄の姿は見えなかった。予想していた事態だったが、だからと言って悲しみが薄れるわけではなかった。
真澄自身がすでに承知していたのか、あるいは僕の様子から判断したのかはわからなかったが、真澄は既に僕の目に自分の姿が映っていないことに気が付いているような気がした。だが、真澄の態度はそれとは逆に明るかった。それは真澄なりの気遣いなのだと僕は思った。
「純さん、今日、明日はお休みだよね。だから、ずっと一緒にいられるよね?」
真澄の声は僕のすぐ耳元から聞こえてきた。だから、真澄はまだ僕の隣で寝転んでいるものだと思った。
「ああ」
僕は顔を横に向けて、そこにあると思われる真澄の顔に向かって笑顔で答えた。
すると真澄の声が伝えてきた。
「私、見たい映画があるんだけど、後でビデオを借りてきてくれるかな?」
「ああ、いいよ。貸し出し中でなければいいんだけど」
「うん、なければ仕方がないわね」
僕は起き上がると机の上からペンとメモを取り上げた。
「メモするから、見たいものを言ってくれるかな」
「うん、じゃあ、二日もお休みがあるから、いっぱいお願いしちゃおうかな」
そう言ってから真澄は次々と映画のタイトル口にした。僕はそれらをメモしていった。
レンタルビデオ屋が開く時間を見計らって僕は部屋を出た。真澄がリクエストした作品はほとんど借りることができた。それから、僕はスーパーに寄って部屋で食べられるものを大量に買い込んだ。
「お帰りなさい」
僕が部屋のドアを開くと真澄の声がしたがどこにいるのかはわからなかった。
「あら、随分と食べ物を買い込んできたのね」
「いやあ、手間が省けていいかと思ってね」
「そうなんだ」
この休日の二日間、できる限り部屋を離れたくないという僕の気持ちに真澄は気づいていたに違いなかった。以前、食事は外で済ませてほしいと真澄は言っていた。その要望に反する行いに対して真澄が抗議することはなかった。
ビデオを見始めた後、真澄の鑑賞態度が以前と違うことに気づいた。以前はしっかりと鑑賞に集中し、途中で口を開くことは無かった。しかし、この日は所々で感想を口にしたり僕の意見を求めたりしてきた。姿は見えないけれど自分はここにいる。だから安心してほしいという気持ちの表れなのだろうと僕は思った。
一つビデオを見たら、じっくりと感想を語り合い、それが済んだら次のビデオを見る。そんなことを何度か繰り返しているうちに夕方になった。
僕がキッチンでコンビニ弁当を食べていると、正面から真澄の声が聞こえてきた。どうやら真澄は僕の正面に座っているようだった。
「純さん、今日は、純さんの歌をしっかりと聴かせてくれないかな?私、自分の声なんか混ぜないで純さんの歌が聞きたいの。いいよね?」
もう自分の姿は見えないのだから、とは真澄は言わなかった。昨夜とは逆のことをしようという真澄の気持ちはよく分かった。
「でも、それだと・・・」
言いかけた僕の言葉を真澄が遮った。
「心配しないで。純さんが歌っている間に黙って消えたりしないから。私、まだ、大丈夫だから」
「わかったよ」
その後、前夜と同じように座布団を置き、僕はガラス戸の方に腰を下ろした。
「準備ができたよ」
ギターと三線の調弦を済ませたところで僕は真澄に声を掛けた。
「はい、私、今、反対側の座布団の上に座りました。さあ、歌を聴かせて」
まだ大丈夫だと言った割には真澄の声は少し小さくなっているような気がした。
そして、僕は八重山の歌を全て歌った。それから、真澄の知っていそうな歌を、自分の好きな歌を、次々と歌った。真澄のリクエストにも可能な限り応えた。
真澄は歌が一つ終わる度に感想や歌にまつわる思い出などを饒舌に話した。自分はまだここにいると伝えたいのだと僕にはよく分かっていた。
「じゃあ、夜も遅くなってきたから今日はここまでにしよう」
僕がそう言うと真澄は嬉しそうな声で答えた。
「ありがとう。純さんの歌、堪能させてもらったわ」
「真澄が喜んでくれて良かった。明日は、また一緒に歌おうね」
「そうね、そうしましょう」
真澄のその声を聞きながら、僕はその明日が本当に来るのか不安になった。真澄の声は僕が歌いだした時より更に小さくなっていたからだ。真澄の旅立ちがもうすぐそこまで迫っていることを僕は認めざるを得なかった。
八月三十日(日)
この日は、八月最後の日曜日だった。僕たちは前日と同じように昼間はビデオを見て過ごし、夜は一緒に歌を歌った。真澄の声はかなり小さくなっていたので、ギターや三線の音も、僕が歌う声も、真澄に合わせて小さめにした。真澄と一緒に歌えるのもこれが最後かもしれないという気がした。
歌うのを止めて、僕が食卓でビールを飲んでいると正面から真澄の声がした。どうやら、また僕の正面に座ったようだった。
「ねえ、純さん。アルバムのアレンジって、もう決まっているの?伴奏は全部三線だけってわけじゃないよね?あと、曲の順番はどうなるの?」
真澄が立て続けに質問をしてきた。
「ああ、アレンジは、ある程度は考えてあるんだ。さすがに九曲全て三線のみだと変化がないからね。曲順も考えてあるよ」
「どういうアレンジと曲順?教えてくれないかな?」
そう言った真澄の姿はもちろん僕には見えなかったが、その瞳は輝いるような気がした。
「まず、最初は『幻の夏』。伴奏は三線がメインかな。低音部分には控えめにエレキベースを入れようと思っているけどね」
「純さん、ベースも弾けるの?」
「ああ、学校の部室に置きっぱなしだけどね」
「そうなんだ、それで二曲目はどうなるの?」
真澄は先を急ぐように次の質問をしてきた。
「二曲目は『鳩間島の歌』にするつもりだよ」
「そうなんだ、それで、アレンジはどうなるの?」
真澄が身を乗り出してきたような気がした。
「伴奏はピアノ一台だけにしようと思っているんだ。ああ、僕はギターと三線しか弾けないから、それ以外の楽器の伴奏はコンピューターのソフトで作るんだけどね」
「ピアノかなるほどね?じゃあ、三曲目は?」
「三曲目は『ティダヌファ』かな?」
「アレンジはどうなるの?」
「明るい三線が似合う気がするな。でも、それだけだと沖縄っぽくなり過ぎてしまうからエレキギターを入れようと思っているんだ。ヒロインは『都会から来た明るい少女』って感じだからね」
「うん、合っていると思う」
真澄は満面の笑みをたたえているような気がした。そして、嬉しそうに次の質問を繰り出してきた。
「四曲目はどうなるの?」
「『新城哀歌』にしようと思ってる。ああ、この歌は真澄が詞を書いた歌だから真澄の意見を聞きたいな。どんなアレンジがいいと思う?」
「ううん、そうね」
真澄はしばらく考え込んだようで少し沈黙が続いた。しかし、少しすると、かなり良いアイデアを持ち出してきた。
「この歌は生のギターを何台か使って、スペインとかメキシコの雰囲気で。ああ、そう、フラメンコみたいな感じ。ええと、ちょっと激しさもあるけど悲しさも伝わってくるような・・・ああ、ごめん。なんか上手く説明できてないよね」
「いや、そんなことはないよ。真澄の気持ちは十分伝わったよ。でも、そうなるとフォークギターよりクラッシックギターを使った方がいいかな。確か部室にあったから、それでやってみるよ」
「ええ!私のアイデアが伴奏に活かされちゃうなんてワクワクするな」
真澄は興奮のあまり身震いしているような気がした。真澄はアレンジと曲順に興味津々といった様子で次の質問をぶつけてきた。
「それで五曲目はどうなるの?」
「五曲目は『いるもて紀行』にしようと思っているんだ。楽しくて優雅な気分を出したいし他の曲との差別化も図りたいから、伴奏は弦楽四重奏にしようかと思っているんだ」
「弦楽四重奏?純さん、中卒の田舎娘にも分かるように説明してくれないかな?」
真澄は口を「ヘの字」に曲げているような気がした。
「そうか。バイオリンはわかるよね?」
「それくらい、私だって知ってるわよ」
真澄が少し頬を膨らませたような気がした。僕はそれ以上は真澄の機嫌を損ねないように丁寧に説明をした。
「形は基本的に同じだけど、バイオリンより少し大きいのがビオラ。ビオラより更に大きくて座って弾くのがチェロ。チェロより大きくて立って弾くのがコントラバス。この四つの仲間で合奏するのが弦楽四重奏だよ」
「なるほど。確かに優雅で楽しい旅の歌には向いているわね」
真澄は納得した様子だった。
「それで、その次は?」
「次は『ドラマチック石垣』だね。これは馬鹿っぽい歌詞だから、いっそのこと伴奏も派手にしたいんだ。トランペットやトロンボーンみたいな金管楽器、つまりラッパの類で行こうと思うんだ」
「パンパカパーンって感じね。良いんじゃないかしら」
真澄は少し馬鹿にしたようにクスクスと笑った。
「それで、次は?」
真澄の質問は止まらなかった。
「七曲目は『望郷輪舞曲』だね。これはもう三線だけで良いような気がしているんだ」
「半分は沖縄の音階を使っているし、故郷を思う歌だからぴったりだね。」
真澄は首を縦に振って大きくうなずいているような気がした。
「それで、その後は?」
真澄の質問は途切れなかった。
「八曲目は『黒島ブルー』なんどけど、これも真澄の初恋がモチーフになっているから真澄の意見を聞きたいな」
「うーん、そうね。こっちも生ギターが良いと思うんだけど、今度は生ギター一本で昔ながらの弾き語りにして欲しいかな。純さんの歌がしっかり前にでるようにね」
先ほどとは違って真澄の返事は答えを用意していたようにすぐに返ってきた。
「いいね。素朴な感じが初恋っぽいかもしれないね」
「まあ、現実はそんな爽やかじゃなかったけどね」
真澄は少し俯いたような気がした。そして、少し間をおいてから聞いてきた。
「最後は『南十字の下で』だよね。どんなアレンジになるの?」
「一番ハッピーな曲だけどあまり派手にしたくないんだ。優しい感じを出したいから、フルートやクラリネットのような木管楽器、つまり笛の仲間の楽器を考えてる」
「そう、良いわね。すごく合っていると思う」
真澄はその日一番の笑顔を浮かべているような気がした。
「純さんのアルバム、きっと素晴らしいできになるわね」
「そうなると良いね」
聴きたかったと、真澄は言わなかった。だから、僕も聴かせたかったとは言わなかった。
八月三十一日(月)
「おはよう。純さん」
目が覚めた時に聞いた真澄の声は、かすれていて聞き取りにくくなっていた。嫌でも真澄の旅立ちが間近に迫っていることがわかった。
こんな状態では僕が帰宅するまで真澄はこの部屋に留まっていることはできないかもしれないと不安になった。バイトを休もうかとさえ一瞬考えてしまった。しかし、そんなことを言えば真澄に叱られることはわかりきっていた。僕が帰宅するまで真澄がこの部屋に留まっていてくれることを祈るしかなかった。
「行ってらっしゃい」
僕を送りだした真澄の声はまるで消え入りそうにか細かった。
「行ってきます」
答えながら、僕はこれが最後の朝の挨拶になるのだろうと思った。僕は必死で笑顔を作りバイトに出かけた。
僕の留守中に真澄が旅立ってしまうかもしれないという不安が頭から離れず、バイトに集中するのが難しかった。加えて、昨夜は真澄を失う不安もあり、ろくに寝ていなかったので度々睡魔も襲ってきた。
そんな状態で何度も時計を見ながら、僕は早く終了時間にならないものかと思った。しかし、時間はそんな時に限ってゆっくりとしか進まないものだった。
終了時間が間近に迫った頃、ついに僕は一瞬、眠りに落ちそうになった。その刹那、僕は真澄の心の叫びを聞いた。
「お願い、早く帰ってきて」
終了時間が来た途端に、僕はリュックを掴むと自転車置き場へと駆け出した。雨が降っていたが雨合羽を着る心の余裕などなかった。アパートに向けて必死に自転車を漕ぐ僕には雨の冷たさなどまるで感じられなかった。
自転車を漕ぎながら、僕の頭の中では真澄に贈る歌が一気に形を作り始めていた。いや、本当はその歌はきちんとした形をなしていなかっただけで、既にほとんど出来上がっていたのだ。ただ、僕はそれをきちんとした形にしようとしていなかっただけなのだ。その歌を歌ってしまったら真澄は旅立ってしまうに違いない。心のどこかで僕はそれを確信していた。だから完成させたくなかったのだ。
しかし、もはやそんなことは言っていられなかった。残された時間がもうほとんどないことを真澄が教えてくれた。手遅れになる前に僕はその歌を真澄に贈らなければならなかった。それが僕が真澄にしてあげられる最後のことだったからだ。
「ただいま」
僕は慌ただしく部屋のドアを開けた。
「おかえりなさい。どうしたの・・そんなに・・濡れて?早く・・・シャワーを浴びて・・・着替えた方が良いわ」
真澄の声は玄関のすぐ近くで聞こえたが、まるで隣の部屋から聞こえてくるように弱弱しかった。途切れがちな話し方からは苦しそうな様子がうかがえた。真澄は今、必死にこの部屋にしがみついているに違いなかった。少しでも気を抜けば真澄は次の世界へと旅立ってしまうのだろう。そして多分、真澄は最後の力を振り絞って僕の帰りを待っていたのだ。
「ごめん。待たせたね」
僕はリュックをテーブルの上に置くと、キッチンとの境に置いたままになっていた座布団を指さした。
「真澄、ここに座ってくれないか?」
「うん・・・いいよ」
今にも消え入りそうな声だった。少しすると、移動を終えた真澄の声が聞こえた。
「純さん・・座ったよ」
「ありがとう。ちょっと待ってね」
僕はケースから三線を取り出すとガラス戸の前の座布団に腰を下ろした。いつもならすぐにできる調弦に手間取った。僕は焦っていた。一つ深呼吸をして気持ちを落ち着けてから再び調弦に取り掛かった。どうにかうまくいった。
「真澄、君に聴いて欲しい歌があるんだ。君のために、君のためだけに作った歌なんだ。できたばかりで上手く歌えないかもしれないけど聴いてくれるかな」
「もちろんよ・・・私のために・・・作ってくれたなんて・・・すごく嬉しいな。じゃあ・・・聴かせて。」
僕は三線を構えてイントロを弾き始めた。気持ちが揺れて指の動きが重いような気がした。しかし、歌の部分が近づいたところで覚悟が決まった。短いこの歌に全てを込めようと思った。真澄と出会えたことに対する感謝を、共に過ごした日々の喜びを、旅立つ真澄の幸せを祈る気持ちを、そして、叶うあてのない希望を。
座布団の上に真澄の姿は見えなかったが、僕をまっすぐに見つめているのがわかるような気がした。僕は見えない真澄の視線から目を逸らさないようにまっすぐに前を向いて歌い始めた。
こんなにも小さな部屋で
君と共に過ごした
二度と巡ることのない
夏が終わろうとしてる
できるならずっとこのまま
君といたかったけど
旅立つ君の背中を
せめて笑顔で見送ろう
これから君が旅立つその先には
幸せが必ず待っているから
互いに顔も見れず
声も聞けなくても
心だけは繋がってる
たとえ二人、遠く離れても
いつか互いを忘れる時が来ても
共に過ごしてきた日々は消えない
今はそれぞれ別の
道を行くとしても
僕らはまた巡り会える
たとえ何度生まれ変わっても
「どうだった?」
歌い終えると僕は真澄に尋ねた。しかし、返事は返ってこなかった。
「ねえ、真澄、感想を聞かせてよ」
言いながら僕は一気に不安になった。
「真澄、答えてよ」
僕はまだ認めたくなかった。
「真澄、黙ってないで、なんとか言えよ!」
叫んだ僕の言葉は古いアパートの一室に虚しく響くだけだった。
真澄がいつ旅立ったのか、僕にはわからなかった。僕の歌は真澄に届いたのか、もはやそれは知る由もなかった。涙が止めどなく溢れてきた。僕はそれを流れるままにしておいた。笑顔で見送るなんて歌っておきながら無様な姿だった。やはり自分の書く歌詞はただの作りごとに過ぎないのかと思った。
夏休み最後の日、八月とは思えないほど冷たい雨の降る夜、僕たちの夏は終わった。



